息をかぞえて

禅・こころとからだ

最近のすわり

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最近すわるのが楽になった気がします。ヴィパッサナー瞑想の合宿から1ヶ月。合宿ではいくつかの新たな身体感覚と意識の変容を経験することができたのですが、それらがならされ、まとまってきたのかもしれません。

 

それまでに塩澤先生のヨーガで「仕込み」ができていたのもデカいと思いますけどね。体の要所要所に「切れ込み」を入れておいたり、よく「こねて」おいたり。そこに合宿での長時間の瞑想という「負荷」をかけることで、体とこころが開いていった。

 

身体開発や柔軟性の獲得が目的ではないんですけどね。でもそれまでちゃんとできなかったスカアーサナ(安楽坐)がピッタリ床につくようになったり、半跏趺坐で1時間すわれるようになったり。脚腰でつくる「坐」が安定してくると、そこに乗る上半身もスッと伸びるようになるんですね。「背すじ伸ばさなきゃ!」みたいに力む必要がなくなる。浪費してたエネルギー(意識)を瞑想に回せる。長くとどまれるようになり、行けなかったとこまで行けるようになる。

 

スカアーサナにしても半跏趺坐にしても、坐禅や瞑想のすわりかたって「型」なんだと思います。最初のうちはきゅうくつで不自由なのですが、身体が姿勢になじむようになると(型にはまると)、「自由さ」が出てくる。その姿勢をとるだけで瞑想モードに入れるようになる。

 

武術の経験があるので推測できるのですが、これは武道や舞踊など「型」をもつ伝統文化に共通の特徴ではないかと思います。「守・破・離」、師からいただいた型を堅守しているうちに、それまでの個々の身体的なクセ、それに伴う思考のクセが破れ、そこから離れて動けるようになる。自由自在になる。それは「好き勝手」とは違った、全体の中での個として与えられる「自由」というか。ひとりよがりのそれと違って、持て余すことがない。自由でいて、おさまるところがあるというか。自律性がある。

 

僕は股関節がかたいので、以前は座布をはさんでの正座か、イスにすわってでもいいだろ?って思ってたんですけどね。今は脚をしっかり「組む」というか「結ぶ」がないと物足りない。瞑想が精彩を欠く気がします。靴ヒモをちゃんと結ばないと歩きづらいようなもので。ほどけてるとラクかもしれないけど、走ったりはできないじゃないですか?

 

禅や瞑想というと、目に見えない世界で起きてることで、とらえどころがないように思えますが、「型」を土台に「技術」として学べるところもあると思います。「脚を組む」ことも技術のひとつで、上達するコツもあって。

 

 

だいたい朝の早い時間にすわるのですが、最近の体感は鳥カゴの扉が開いて、中の鳥がはばたいていくような感じです。体が鳥カゴで、中の鳥がこころ。じわじわと空に広がっていく。その時意識はカゴにあるのか、鳥なのか、どっちともいえないですけど。

 

チュンチュン!チュンチュン! すずめの群れも駆け抜けていきます。

 

戻ってくると、こころは散歩を終え、鳥カゴは掃除されている感じがします。

 

生活の中で固着しがちな心身を一時的にほどき、こころと体それぞれが休む。

 

禅で問題とされている「わたし」と「体」の同一視(「私のこの体!」「この体が私だ!」といった思い)、肉体への執着もほどけていけばいいなと思ってます。