息をかぞえて

禅・こころとからだ

ずっと動かずにあるもの

ヴィパッサナー瞑想の合宿で感じたことを、考えがまとまった順に書いていこうと思います。

 

まずは時間の感覚について。

 

コースは正味10日間あって、1日最後のグループ瞑想の時間に「○日めが終了しました」とのアナウンスが流れます。

 

「1日めが終了しました」「2日めが終了しました」、まだまだ先長いなーって感じです。

 

「5日めが」「8日めが」、あーもう終わっちゃうな、やばいなって感じ。

 

なんかね、あれよあれよという間に終わってしまった。時間が経った感じがしなかったんです。場面場面では退屈や焦りを感じつつも。全体的には「不動」な感じ?

 

5日めくらいかな。「これひょっとすると、1日めから一歩も動いてないぞ」って思ったんですよね。終始ずーーーーーーーーーーーーっと同じところにいる感じ。

 

「変化」はしてるんですよ。ヒゲは剃らなかったのでボーボーだったし、シャワーは3日に一度で髪は重くなるし(ともに自分の意思で、コースの規則ではありません。毎日洗顔も入浴もできます。宿泊施設も清潔で快適です)。食事もおいしかったので、うんこもでるしね。

 

瞑想中に「足いてーなー、早く終わんねーかなー」とか。講話を聴いて「話なげーなー。校長先生の朝礼みてーだなー」とか。

 

体も心も「活動」してるし「変化」している。そのつど意識も「時間」を認識している。「なげーよ!」も「やっと終わった!」も時間のうちです。

 

だけど同時に「ずーっと動いていない感じ」がある。これは「退屈」とは違うんですよね。むしろ退屈からは最も遠い感覚です。「大きさのない中心」のようなものが全体的に感じられ、すべての感覚や出来事は、その中で表面的に起きては消えていく。

 

「1日めが終了しました」「2日めが終了しました」と消えていく。

 

「変化」はするけど「時間」は経たない。

 

瞑想が深まると、こころが静かになると、こころの動きが小さくなると、それがわかる。いつもは聴こえてないところから、ものがみられるようになる。

 

普段の生活では外側からの刺激や情報にこころごと「持っていかれて」、時間に流されてしまっているのでしょうが(そのおかげで時間ともに1日が展開していくのですが)、静かなところで毎日12時間すわり(コース中の9日間は「沈黙の行」で私語不可)、こころの動きが限りなく小さくなると、「ずっと動かないところ」「大きさのない中心」を感じるようになる。時間に流されず、とどまれるようになる。

 

この「ずっと動かないところ」を絵にしてみました。

 

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うーん、ちょっと違う。日づけが「1」から「9」に進んでいく連続性が、いかにも思考による後づけですよね。このやじるしの方向性が消えていたから、1日めが5日めになっても「ずっと動いてない」感じがしてたのに。。。

 

 

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これならどうでしょう? こころを時計にたとえます。こころは「針」のようにチクタクと動き、「1時だ」「35分だ」と、時間を構築してくれる。ふだんの意識が「針」の部分。

 

それが瞑想が深まると、針の根っこの「中心」を感じられるようになる。赤のココ!に意識が移っていく。普段なかなか自覚できない意識の深部。針がチクタク何周しようが決して動かない部分。

 

針は動き続けても、中心は動かずにいられる。時計を止めなくても、とどまっていられる。「動かない」からといって、「心が死んでる」わけでもありません。「中心」だって「針の一部」なのだから。変化とともにあり、時間から自由でいられます。

 

ヒゲはのびるし、うんこもでます。痛いと思ったり。退屈を感じたり。

 

その時その時でこころを働かせながら、「ずーっと動かずにあるところの」安心感とともにいられる。

 

写真で撮ることはできないし、言葉での表現もむずかしいのですが、この安心感を体験することは深い自信につながる気がします。自分の深い深いルーツを身をもって知る。

 

「社会での成功」とか「持ってる財産」とかの外的な要素に左右されない、根本的な自信。生まれたからには誰もが持ってる、本来の自信。

 

仮にどん底の環境にあっても、ここは何ひとつ変わらない。壊すことも汚すことも誰にもできない。この感じを知っておくのはでかいと思いますね。

 

外側の条件に依存しない「根拠のない自信」。その「ない根拠」を(時間を超えて)つかまえられるのが、瞑想や禅なのだと思います。

 

(2/24に一部加筆修正)