息をかぞえて

禅・こころとからだ

こころを体に閉じこめない

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東京は雪です。春分はすぎていますが、この冬やっと雪らしい雪がふった気もします。土曜日曜と、新型ウィルス感染拡大防止のため、外出をひかえるお達しが出ていることもあり、気持ちはどうしても内向きに。どんより重くなりがちです。

 

これをよんでいる人のどれくらいが、坐禅や瞑想を実践しているかはわかりませんが、一応みなさん心得なり興味なりある方々として、話をすすめます。

 

毎日じーっとすわっていると、こころとからだの状態(動き、はたらき)がよく意識できるようになってきます。息が休まるにつれ想念の起こりがささやかになり、身体感覚も想念の一種だからか、体の感覚もふだんの「肉体の輪郭」的なふとい線状の感覚から、ばらばらにほどけた「こまかい糸くず」のようなものへと変わってきます。

 

「これが私の体だ!」という輪郭的な感覚に、こまかいすきまがたくさんうまれてくるというか。

 

今、目の前にある窓からは、ひらひらと落ちていく雪のかけらが見えていて、とてもきれいなのですが、この感じにも似ていますね。

 

ふだんは自分の体のことを「雪だるま」みたいに「輪郭のはっきりした、実体のあるもの」と認識していると思うのですが、そのひとつかふたつ手前の段階にもどったような気分。ひらひらと落ちきて、とけてはきえる、無数の雪。まっしろな雪。つかみどころがなく、でも不安ではない。

 

坐禅や瞑想ですわっている時は、「雪だるま」から「しんしんとふりつづける雪景色」に、自分の体がもどったような感覚になります。

 

この感覚は「脳内で想像(妄想)している雪の映像」とはまた違います。

 

脳内妄想の場合、「その時、体で起きていること」とは無関係にイメージだけをひろげていくことができます。これはあくまで「いま体で起きていること」を(意識を道具に)なぞる過程でみえてくる感覚です。

 

人の手でかためられ、かたちづくられた「雪だるま」から、ひらひら舞い落ちる無数の雪へ。それが瞑想でも坐禅でも、すわっているときの体の感覚は、そのようにかわっていく。

 

ふだんの自分は、骨格と筋肉でできた堅牢なオリの中に、ギュッと心をとじこめているんだなあと実感します。

 

毎日すわる時間をもつことで、体の感覚のモードを「堅牢なもの」から「風通しのよいもの」に一時的にきりかえる。

 

そうすると、いつも体の中にとじこめられている心が、ひろがりはじめていきます。

 

はっきりとは自覚できなくても、「なんとなくすっきりはする。。。」くらいのあいまいな感覚でも、起きていることは同じことなので、坐禅でも瞑想でも、やっている人はつづけてください。これからはじめてみるのも、とてもよいと思います。

 

おそれや不安というものは、今ある情報だけを材料に、頭の中だけで考えつづけていくと、思考の迷路の内側へ内側へと進んでいくものだと自分の経験から思います。その行きどまりで動けない状態が「鬱」とよばれる状態であったり、そこから無理やり脱出しようとする試みが「発狂」や「自殺」なのかな、とも思います。

 

とくに今は、共通のおそれや不安というものを、世界規模で、同時に経験しているから、(そういう経験って、これまでしたことがなかったから)、人々の多くが多かれ少なかれ、その影響を受けているのだと思います。個人的な悩みや、ある地域や民族に特有の問題ではなく、「人類としての危機」みたいな集合意識が形成されている。まだ解決策もなく、封鎖などの措置もあり、逃げ場のない気もしてくる。

 

おそれや不安の原因となるできごとが取り除けなさそうな場合、とりあえず、体と心だけでも、らくにしておく。

 

起こるできごとや、そこからうけとる情報はおなじものでも、受け止めかたがちがってくるし、かかる負担も軽減されると思います。

 

こころを体に閉じこめない。悩みは脳みそに閉じこめない。わきあがってくる様々な想いを、外へ外へと流していくことで、ずいぶんらくになるはずです。