息をかぞえて

禅・こころとからだ

こころを体に閉じこめない

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東京は雪です。春分はすぎていますが、この冬やっと雪らしい雪がふった気もします。土曜日曜と、新型ウィルス感染拡大防止のため、外出をひかえるお達しが出ていることもあり、気持ちはどうしても内向きに。どんより重くなりがちです。

 

これをよんでいる人のどれくらいが、坐禅や瞑想を実践しているかはわかりませんが、一応みなさん心得なり興味なりある方々として、話をすすめます。

 

毎日じーっとすわっていると、こころとからだの状態(動き、はたらき)がよく意識できるようになってきます。息が休まるにつれ想念の起こりがささやかになり、身体感覚も想念の一種だからか、体の感覚もふだんの「肉体の輪郭」的なふとい線状の感覚から、ばらばらにほどけた「こまかい糸くず」のようなものへと変わってきます。

 

「これが私の体だ!」という輪郭的な感覚に、こまかいすきまがたくさんうまれてくるというか。

 

今、目の前にある窓からは、ひらひらと落ちていく雪のかけらが見えていて、とてもきれいなのですが、この感じにも似ていますね。

 

ふだんは自分の体のことを「雪だるま」みたいに「輪郭のはっきりした、実体のあるもの」と認識していると思うのですが、そのひとつかふたつ手前の段階にもどったような気分。ひらひらと落ちきて、とけてはきえる、無数の雪。まっしろな雪。つかみどころがなく、でも不安ではない。

 

坐禅や瞑想ですわっている時は、「雪だるま」から「しんしんとふりつづける雪景色」に、自分の体がもどったような感覚になります。

 

この感覚は「脳内で想像(妄想)している雪の映像」とはまた違います。

 

脳内妄想の場合、「その時、体で起きていること」とは無関係にイメージだけをひろげていくことができます。これはあくまで「いま体で起きていること」を(意識を道具に)なぞる過程でみえてくる感覚です。

 

人の手でかためられ、かたちづくられた「雪だるま」から、ひらひら舞い落ちる無数の雪へ。それが瞑想でも坐禅でも、すわっているときの体の感覚は、そのようにかわっていく。

 

ふだんの自分は、骨格と筋肉でできた堅牢なオリの中に、ギュッと心をとじこめているんだなあと実感します。

 

毎日すわる時間をもつことで、体の感覚のモードを「堅牢なもの」から「風通しのよいもの」に一時的にきりかえる。

 

そうすると、いつも体の中にとじこめられている心が、ひろがりはじめていきます。

 

はっきりとは自覚できなくても、「なんとなくすっきりはする。。。」くらいのあいまいな感覚でも、起きていることは同じことなので、坐禅でも瞑想でも、やっている人はつづけてください。これからはじめてみるのも、とてもよいと思います。

 

おそれや不安というものは、今ある情報だけを材料に、頭の中だけで考えつづけていくと、思考の迷路の内側へ内側へと進んでいくものだと自分の経験から思います。その行きどまりで動けない状態が「鬱」とよばれる状態であったり、そこから無理やり脱出しようとする試みが「発狂」や「自殺」なのかな、とも思います。

 

とくに今は、共通のおそれや不安というものを、世界規模で、同時に経験しているから、(そういう経験って、これまでしたことがなかったから)、人々の多くが多かれ少なかれ、その影響を受けているのだと思います。個人的な悩みや、ある地域や民族に特有の問題ではなく、「人類としての危機」みたいな集合意識が形成されている。まだ解決策もなく、封鎖などの措置もあり、逃げ場のない気もしてくる。

 

おそれや不安の原因となるできごとが取り除けなさそうな場合、とりあえず、体と心だけでも、らくにしておく。

 

起こるできごとや、そこからうけとる情報はおなじものでも、受け止めかたがちがってくるし、かかる負担も軽減されると思います。

 

こころを体に閉じこめない。悩みは脳みそに閉じこめない。わきあがってくる様々な想いを、外へ外へと流していくことで、ずいぶんらくになるはずです。

 

自分発、で生きていく。

気分というのは明るいものであれ暗いものであれ、人々の心に「共鳴」を起こすところがあります。前回の記事では、いま世界を騒がせている新型ウィルスにかけて、人々の間で恐怖心が「感染」していると表現しました。それは一種の「集団ヒステリー」であるとも。そして坐禅や瞑想は、それらに対する予防法になるとも。

 

坐禅や瞑想といってもさまざまな流派や方法があると思うのですが、共通しているのは、ある決められらた形をとり(脚を組んですわるとか)、何か対象を決めて、そこに繰り返し気持ちをむけていくこと(呼吸の出入りをみるなど)だと思います。

 

ひとつ動かないところを作っておいて(すわる)、動きつづけるもの(吸う息、吐く息)に気持ちをむけつづける。そうして自分自身を定点観測するんですね。

 

土台となる「動かないところ」とは、まずは自分の体です。だから大きな怪我をしていたり、体調がものすごくわるい時などは、その土台をつくることもできません。脚を組んですわるにも、それなりの体力が必要です。

 

もう一方の「気持ちをむける対象(動きつづけるもの)」には、呼吸の出入り、数(ひとつふたつと数える)、体の一部(鼻先とか下腹部とか)、ロウソクの炎、目の前の壁、マントラ(「オーン」などの宗教的音韻)、シンボル(神仏などの象徴的図像)、特になし!(特定の何かではなく、なにもかもに気をむけることができている)など、さまざまなものがあります。

さまざまなものがあるのですが、むけている気持ちと、その気持ちをむけている主体は、対象がなんであれ、いつだって同じものです。

 

見えているもの、聞こえてくるものがなんであれ、「それらを見聞きしている主体」はいつも同じなのです。けして変わりません。

 

見るものが違っても、まわりが騒がしくなっても、心はコロコロ変わっても、決して変わらぬ同じところから、みたりきいたりしています。東京にいても、大阪にいても、外国に行っても、変わりません。

 

だから人って本当は、つねに自分発、なんですよね。私たちはいつも自分から、気持ちや意識を全方向に発信して、色、音、においなど、さまざまな対象を認識しているんです。寝て、起きて、そうして世界ができていく。

 

朝、目がさめる時、まぶしい光がさしこんできたり、鳥たちの声が入ってきても、(自我の感覚としては「光が目に、音が耳に、入ってきた(向こうから来た)」と受動的ですが)、その「光や音の通り道」となる意識を、まずは自分から発信しているんです(自我から、ではありません。いつも「オレだよオレ!」と自己主張している自我、エゴ、自意識は、この段階ではまだ寝ぼけてます...zzz ややあって、意識がとらえた光や音をみてから「オレは見た! オレが聞いた!」と一番乗りを自称するのです。やれやれ。。。

ここでの「自分」とは「意識の根源」のようなもので、それを体験的にしっていくのが坐禅や瞑想の試みです)。

 

眠りの深い闇からさめ、ふたたび(五感や自我をふくむ)意識を全方向に発信しているから、そこを通って、光や音も「やってくる」ことができているんです。

 

人はみな自分発で意識をひろげて、世界を認識しています。「あたしはいつも受け身〜」な人も。「まわりに流されやすいんですぅ」とおっしゃる方も。それは自我や性格が受動的なだけで、おおもとの意識は、誰もが自発的です。人だけでなく、生きものは皆そうでしょう。

 

だからたとえば1日5分瞑想するなら、それは5分間の「自分発」の時間をもつことになります。15分なら15分、1時間なら1時間、坐禅や瞑想を行うことで、「自分発」の時間、つまり自分から意識が発信されて、まわりの世界を認識していく(そしてそのプロセスをつぶさにみる)時間をもつことになります。

 

そのとき認識される「まわりの世界」には、「私の体、私の心」の感覚もふくまれています。

 

ぐぐーぅっと腹の底から持ち上がる力につられて伸びる背骨。ドクン!と脈打つ仙骨のあたり。びりびり、ちりちり、微弱な電気のように、そこここを走る血流。

 

たっぷり風呂釜に沸いたお湯をかきまぜるように、全身が液体や気体のように循環しているのを感じます。それは血液かもしれないし、神経の電気信号かもしれないし、「気持ちと生命力がまざりあったもの?」が流れているようでもある。

 

想いや記憶、さまざまな感情のうごきも、身体感覚とごっちゃになって流れだします。

 

想念や感情もやはり微弱な電気のように、ちりちりぴりぴり走っています。大きなものは、かたまりのようです(熱をもった毛糸の球みたい)。不思議なもので想念は、体の内側だけでなく、外側からもやってきて、くんずほぐれつ、「私の心」を形成していきます。ということは、心は体の外側にもあるのか!?

 

身体感覚、想念、感情、記憶。それらを全部ごった煮にしたエネルギーのような感覚。ドロドロの寄せ鍋のように赤黒く濁っていきますが、ある時点でウソのように清冽にすみわたります。すーっとすっきり、全身の意識が明瞭になります。ピカピカにみがいたガラス窓のように、そこから見える世界も晴れやかになります。

 

 

体も心も、じつは「一番ちかいところにある世界(の一部)」なんですよね。意識の奥からみていくと。「オレの一部」である前に「世界や自然の一部」なんです。

 

そのように自分自身を定点観測していくと、かすかな息の乱れや、体や心のわずかな違和感にも、気づくようになっていきます。

 

そして息や体が、つねに循環しながら、みずから均衡を保とうとする様子もわかってくるので、(自我をもってそれに逆らう行動をしないかぎり)心身の調子を大きく崩すこともなくなっていくように思います。

 

坐禅や瞑想には「場を平らげる」ような力があると思います。荒れる波の大海に、呼吸で錨(いかり)を深くおろし、プカプカ浮いていられるような。波がおだやかになるまで、ずっとそこで浮いていられる。

 

ふかく落ち着いていれば、ものごともよくみえ、浮足立つこともなくなります。

 

必要のない情報や、集団ヒステリーの死の風も、右から左に吹きぬけていきます。

 

「自分発」の順番で世界とかかわっていけば、人の意見や社会の空気に、左右されなくなるものです。表面上の変化に惑わされなくなる。いちいち反応しなくなる。心の変化は、まわりの状況にも影響を及ぼします。「私の心」も「世界の一部」なのですから。

 

「ウィルスこわい」や「〇〇国の人、だいきらい」といった集団ヒステリーも、落ち着いて見られるようになると思います。無視したり、上から目線で逃げるのではなく。「渦中にありつつ、巻き込まれてはいない」みたいな、ぎりぎりの心構えで事にあたれるようになる。

 

 

文明や人々の心がどんな方向にむかっている時でも、自分にとって一番近しい「息」や「体」に慣れ親しむ時間をもち、そこから一日を始める。基本的な安心感がちがってきます。

 

息や体って、人が作ったものじゃないんですよね。もともと自然にあるもので、どこまでも人工物である文明や、どうしても近視眼的になる人間の考えでは及ばない、大きな流れのなかにあるように思えるのです。そして坐禅なり瞑想なりを毎日おこなうことで、その恩恵にあずかれるものだと、僕は思っています。

うがい、手洗い、治る力

5〜6年前から毎日やるようになった帰宅後のうがいと手洗いのおかげか、もう何年も風邪らしい風邪をひいていません。当時お世話になっていた声楽の療法士さんにすすめられて始めました。

その方も昔はしょちゅう風邪をひいていたのだけれど、うがいと手洗いをするようになって、全くひかなくなったとおっしゃっていました。僕も最初は半信半疑というか、うがいと手洗いにそんな効果があるとは思わなかったのですが、それからというもの本当に風邪をひかなくなったので、「うがい手洗いすごい!」と今ではすっかり信用しています。

 

一番の大きな収穫は、それまで「風邪をひいたら薬を飲んで治す」と思っていたのが、「うがいや手洗いで風邪は防げる」との発想に変わったことだと思います。

 

「薬が病気を治す」わけではないですしね。「治る」のはあくまで体がしていることで、薬はその手助けをする補助的なものです(狂犬病のような、ヒトの生来の免疫だけでは治癒しない病気には、ワクチンの助けが不可欠です。抗生物質やワクチンは偉大な発明で、薬や西洋医学を否定しているわけではありません)。

 

それでもやはり、特効薬に頼る前にまず予防だと思います。「病気は予防できる」と知ること。うがいや手洗いなどでウィルスなど異物の侵入をふせぐことはできるし、また自分の体にも「免疫」や「解毒」といったはたらきがあります。異物や毒素がまぎれこんでも、僕らの知らないところで、やっつけたり、ばらしてくれたりしている。

 

自分の体にそなわっている「治る力」や「平らげる力」を正しく知り、信頼することも、病気をふせぐうえでとても大切だと思うのです。外側のなにかに、すぐ頼るのではなく。

 

そこのところがぐらついていると、ちょっとしたことで不安になり、慌てふためいてしまう。誰かがいいと言ったことに右にならえで飛びつき、流されていく。もしその情報が違っていたら、どうするのか?

 

おかげさまで僕は今のところ、咳も発熱も頭痛もなく、元気ですごすことができています。今まで通りうがいと手洗いをしておけば、まあ大丈夫だろうと思っています。過信は禁物ですが、基本的に自分自身の「治る力」を信頼しています。

 

ただ自分の体は元気でも、新型のウィルスは人々の「気分」にも集団ヒステリーのように感染しています。それも今までにない世界的な規模で。

 

ウィルスの二次被害で、ドミノ倒しのように経済も行政も人心もバタバタたおれていくと、なかなか逃げ場はない気もします。僕も風邪はひかなくても、このさきなんらかの経済的なダメージや、パニックから派生した人災の影響をこうむることになるでしょう。

 

だからこそ「ウィルスこわい」の気分には感染したくないのです。今はおびえる時ではなく、予測のつかない変化と臨機応変につきあう時だと思っています。

 

世に蔓延する「恐怖心の感染」を予防するのに、日々の坐禅や瞑想は有効だと思っています。毎日のうがい手洗いで、風邪が防げるように。次の記事で、そのことについて書きます。

サンガくらぶ番外編 塩澤賢一3連続ヨーガ講座「呼吸をしずめ、心をしずめる」(全3回をふりかえって)

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今年の
10月から月イチでやってきた3連続講座も、おかげさまで無事終了しました。この3連続講座の内容をもとに、塩澤賢一先生のヨーガの本をつくります。2020年7月、(株)サンガより刊行予定です。よろしくお願いします。

 

さて、1212日(木)におこなわれた第3回のテーマは「アーサナ」でした。「アーサナ」は「姿勢」を意味する言葉で、一般的には「ポーズ」とよばれることが多いかもしれません。「猫のポーズ」とか「戦士のポーズ」とか。僕もヨーガをはじめる前は、「ヨガって、ストレッチ的な体操?」とか思ってました。

ところが塩澤先生によると、すべてのアーサナは「パドマアーサナ(蓮華坐)」の変化形ということで、要は、脚を組んで手で印を結ぶ「瞑想坐法」がまずあり、そのヴァリエーションとして、まげたり、のばしたり、ひねったりの、多種多様なアーサナがあるということになるんですね。

ですので、アーサナはストレッチ的な体操ではなく、さまざまな形の姿勢をとりながらおこなう、瞑想の一種ということになります。

 

またそれはハタヨーガの原則でおこなわれるもので、呼吸は酸素だけでなく、生命エネルギーであるプラーナを意識して(最初は、なんとなくのイメージでよい)、骨や筋肉や皮膚といった肉体にとどまらず、エネルギー的な身体へと、徐々にはたらきかけていきます(これも最初はイメージするというか、感じようとすればよい)。

 

プラーナを感じる方法として塩澤先生が紹介したのが、「手のひらを感じる」というもの。

静かなところで、息が落ち着いた状態でおこなうとわかりやすいのですが、手のひらにじっー…と意識をむけていると、呼吸と同調して、手のひらの触覚も、わずかにふくらんだりちぢんだりを繰り返しているのが、感じられてくるんですね(坐禅をしている人なら、「法界定印を組んでいる時の手の感覚」といえば、ピンとくるかもしれません)。

 

これがプラーナの動きというか、プラーナを体感する第一歩となります。エネルギー的な身体としての「手」を感じる。僕の場合、指先がビリビリ、じんじんするような感覚も出てきて、これは毛細血管の血流とも関係しているようです。あとは手のひら全体が、サラミソーセージのような赤白のまだら模様になったり。

 

「まず最初に生命の風であるプラーナが流れ、その先導で血液が流れていく」というのが、塩澤先生いうところのハタヨーガ的な身体観となります。

 

アーサナも、このような身体観、身体感覚のもとでおこなっていきます。

 

というと、なんかむずかしそうですが(というか怪しい!?)、やることとしては、息と体と相談しながら、背骨を中心に体のいろいろなところをまげる、のばす、あるいはひねる。動きそのものは、どれもシンプルで自然なものです。呼吸と動作を同調させるコツをつかむまで、一定期間の反復練習は必要ですが、老若男女、だれにでもできるものだと僕は思っています。

 

一般的に普及しているフィットネス的なヨガとの一番のちがいは、やはり「呼吸の質」でしょうか。

 

アメリカを経由しているフィットネス系のヨガは有酸素運動でおこなうものが大半だと思います。なかには「空気中のプラーナを吸って!」とのインストラクションがなされるものもありますが、とある大手のヨガスタジオで僕が体験したものは、あくまで概念的に「プラーナ」と言っているだけで、おこなっているのはやはり有酸素運動であり、筋肉と骨格のみを対象としたストレッチ的、筋トレ的な体操でした。それはそれでスッキリして、気持ちいいんですけどね。でもプラーナが通うときの感覚とは、似て非なるものです。

 

プラーナをかけておこなうアーサナは、もっと深いところまで、体の奥や末端のすみずみまで、意識と呼吸がゆきわたっていきます。やっている最中、終えた後。すーっと澄みわたる感じが出てきます。

 

そのあたりがやはり瞑想的なんですよね。スポーツでいい汗かいた後の爽快感とは、ちがうんです。

 

ハタヨーガは、プラーナやエネルギーの体といった「見えないもの、さわれないもの」と、肉体(見える、さわれる、感じられる)を、ひとつのものとして動かしていくので、そこがむずかしいといえば、むずかしいのかもしれません。特に「見えないものは信じない」価値観の人がおこなう場合には。

ただ、プラーナもエネルギーの体も、「見る、さわる」はできなくても、「感じる」ことはできるだろう?というのが、経験にもとづく僕の考えです。

 

とはいえ「感覚」もあくまで主観的なものなので(もちろん他者と共通する部分もありますが)、不特定多数の人に、本や文章で伝えていくのは、なかなかむずかしいかもしれません。

 

なるべく多くの人が読めて、役立てることのできる本を、作りたいと思っています。

 

 

サンガくらぶ番外編 塩澤賢一3連続ヨーガ講座「呼吸をしずめ、心をしずめる」(第2回のおさらい)

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さる
11月7日(木)におこなわれた、3連続ヨーガ講座の第2回。テーマは「プラーナヤーマ」でした。左右の鼻呼吸を、ある一定の規則でおこなう、ヨーガ特有の呼吸法ですね。「プラーナ」はサンスクリットで「生命エネルギー」。「アーヤーマ」は「制御、制止」となります。

 

左から4拍(4秒)すって、まんなかで4拍とめて、右から8拍ではく。右から4拍すって、まんなかで4拍とめて、左から8拍ではくーーといった具合に、左右交互の鼻呼吸を、呼吸の一時停止(クンバカ)をはさんで、一定回数くりかえしていきます。

 

ヨーガをはじめる前や、はじめたばかりの頃は、何のためにこんなことをしているのか、よくわからなかったのですが、規則的な鼻呼吸をつづけていると、息がゆっくりになってきて、気持ちが自然と瞑想モードに移行していくんですよね。

 

この日の講座では、さまざまなバリエーションのプラーナヤーマを長時間おこなったせいか、それにともなって起こる、肉体の変化もよく感じられました。肩や肘などの関節がゆるみ、みぞおちのこわばりが「ふうっ」とぬける感じです。

 

ただ、参加者のなかには「つづけているうちに体が緊張してきた」とおっしゃっていた方もいらしたので、効果のあらわれかたは人それぞれ、技術の習熟度などにもよるのだと思います。僕も、はじめてしばらくのうちは、手順どおりに呼吸するのが精いっぱいで、体の状態に気をむけるだけの余裕もなかったと思います。息も長く続きませんでした。

 

プラーナヤーマをおこなうことで、息がゆっくり、落ち着いていくと、「すう」「はく」の振幅がなだらかになっていきます。上達するにつれ、どこまでもなだらかになり、ほとんど止まっているような息になるとか。

講座の途中、「指をおいてみてください」と言われたので、塩澤先生の鼻の下に、しばらくのあいだ、人さし指をおいてみたのですが、たしかに息の出入りは感じられませんでした。ふつう、生温かく、しめった風(鼻息)が、ふわあっと当たるものですが。

 

道元禅師の『普勧坐禅儀』にある「鼻息(びそく)微通(かすかにつうじ)」とは、この状態を伝えているのだろう、というのが塩澤先生の見解でした。

 

「息が止まる」と聞くと、「心臓も止まる死ぬ!?」と連想して、ちょっとドキッとしますが、心臓はあいかわらず活動をつづけているそうです(鼓動のペースはゆったりしてくる)。

 

感覚的には、呼吸の「回数」はむしろものすごく増えていて(こまかく微細な振動になっていて)、出入りする息の「量」がかぎりなくゼロにちかくなっている、とのことでした。

波にたとえるなら、粗い呼吸が大波で、おだやかな呼吸がさざ波、さらにさらに呼吸がおだやかになっていくと凪(なぎ)の状態になる、といったところでしょうか。風が止まるで「凪」なんですね。

 

波ひとつない、凪いだ海も、人の目にそう映るだけで、海の水そのものはさまざまな流れで、止まることなく動いているはずです。静中の動、動中の静のただなかにある。

 

呼吸の一時停止である「クンバカ」も、「水がめに水をみたし、フタをしてこぼさない」が原義だそうです。プラーナは基本的に、サンスクリットで「風」を意味する「ヴァーユ」(プラーナヴァーユ)とよばれるようですが、ここでは「水」にたとえられています。体が水がめ、呼吸が水です。

 

 

「サンガジャパン」Vol32掲載の、塩澤賢一インタビューの発言にもあったのですが、

 

・「息が静かになれば心も静かになる」というのがハタヨーガの原理原則ですから。

・プラーナが満ち、息が止まった瞬間、観えてくるものがある。これがハタヨーガの止観です。

・プラーナをいっぱい入れて、鼻息微かにしていって、あわよくば止まる。ハタヨーガを定義するなら、呼吸から最後まで離れずに「呼吸って何なのか?それを観ているのは何者か?」と問い続けるシステムです。

 

と、呼吸と瞑想(止観=サマタとヴィパッサナー)、息とプラーナは、親密な関係にあるようです。

 

3連続講座も、次回で最後となります。次回は1212日(木)、「アーサナ」がテーマとなります。

 

samgha.co.jp

 

サンガくらぶ番外編 塩澤賢一3連続ヨーガ講座(第1回のおさらい)

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サンガくらぶ番外編 塩澤賢一3連続ヨーガ講座「呼吸をしずめ、心をしずめる」の第1回が、さる10月10日(木)におこなわれました。私もアシスタント的な役割で参加させていただきました。

3時間の講座ということで、はじまる前は長丁場を予想していたのですが、いざやってみると「あっという間!」というのが正直な感想でした。予定していたプログラムの一番大事なところは伝えられたと思いますが、より詳しく、よりわかりやすく、となると、どんどん時間がなくなっていくものですね。ペース配分や事前配布する資料など、次回以降、工夫、改良していければと思っています。よろしくお願いします。

おさらいがてら、ブログでも伝えられそうな情報を、ひとつふたつ紹介します。

 

講座では、瞑想前の準備運動的なものをいくつか行なったのですが、そのひとつがコレです。

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1 まっすぐに立ち、両足をそろえて軽く膝をまげ、つま先を可能な範囲で横にひらきます。(※「軽く膝をまげ」の要素が初稿では抜けていたので、10/22に加筆しました。大変失礼致しました)

2 両手を腰にあて、背骨がまがらないよう意識して、膝を上下に屈伸します。

 

この時の「背骨の感じ」を覚えておくと、腰椎も骨盤もちょうど良い角度になり、結跏趺坐などの坐法でも楽にすわれるとのこと。自分でおこなう腰椎の調整、といったところでしょうか。むずかしいものではないので、坐禅や瞑想の前にぜひやってみてください。

(個人差はあるようですが、これで座布団を二つ折りにしたものをお尻に敷くと、とても良い状態ですわれるようです。坐禅用の丸い坐蒲だと、角度がつきすぎて腰椎に負担がかかり、腰痛の原因にもなるのでおすすめできないとのこと。私も坐禅の時は、なるべく低い坐蒲を選ぶようにしています)

 

もうひとつは瞑想時の呼吸のリズム。禅でも行なわれている「数息観」(一から十まで数えることで、呼吸の出入りを自覚する)を例に行ないました。吸うのも吐くのも鼻で行ないます。

「ひとーつ」と、終盤にピークが来るように、ゆっくりと吐いていきます。

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「ひとー…」で吐ききると、「つ」でスッと息が、自然に入ってくる感じです。「ふたーつ」「みーっつ」と同じ要領でおこない、呼吸のリズムに気づいていきます。息の波に乗ることで、気張らなくても瞑想がつづくようになります。

 

塩澤先生いわく、「かぞえる」という行為は馬鹿にできなくて、人間の精神活動の元型にあたるのだとか。以下は私の解釈になりますが、その「かぞえる」という行為を、自覚の手がかりに使うことで、精神や意識の源流に近づくことも、容易になるのかもしれません。

 

この後参加者全員で15分の数息観を行ないましたが、塩澤先生はこんなことも言ってました。

「数をかぞえていて、途中でわからなくなることもあります。そしたら、『ひとーつ』にまたかえってください。これは一般のビジネスや仕事と違うので、はずれた時に、絶対自分を責めてはならないものなんです。『集中力がきれた(だからダメだ)』、そういうことを言っちゃいけないんです。すなおに、ただもどるだけです。『あ、ここで失敗した』、そういうことを言うのは普通の生活です。瞑想はそれとはちがうので、何の気配もなく、もう一度『ひとーつ』にかえります」

 

次回は11月7日(木)。プラーナヤーマ(呼吸法)を中心に行ないます。1回からの参加も可能ですので、興味のある方はいらしてください。

https://samgha.co.jp/samgha-club

 

(告知)塩澤賢一ヨーガ講座@擇木道場10/10〜

このたび(株)サンガ主催で、塩澤賢一先生のヨーガ講座(全3回)をおこなうことになりました。 1回約3時間(休憩あり)、実技中心、最後に瞑想の時間を設けます。

https://samgha.co.jp/samgha-club

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瞑想のためのヨーガというか、「よりらくに、気持ちよく、すわるための」技法として、ハタヨーガを見直していく内容になると思います。

足を組む時のバランスのとりかたや、坐禅の数息観をハタヨーガ的におこなってみたりと、初歩的なところからはじめる予定なので、マインドフルネスや坐禅の実践者にも、得るところはあると思います。

会場の擇木道場はもともと、臨済宗の在家修行者のためにひらかれたところだとか。ヨーガと坐禅が交流するのに、ちょうどよい場所なのかもしれません。

1回だけの参加も、もちろん可です。一度体験してみてください。