息をかぞえて

禅・こころとからだ

心の自然な状態〜禅とヨーガと瞑想と

坐禅とハタヨーガと瞑想。禅は青木義子先生(聖心会/三宝禅)の指導のもと、ヨーガと瞑想は塩澤賢一先生(アーディー・ヨーガ)の指導のもとに行なっています。全体的な指導は禅が隔週で、ヨーガが週1〜2回。最近はヨーガと瞑想の方が優勢になっていますね。

 

すわって呼吸を見守るところでは坐禅も瞑想も(じつはヨーガも)いっしょなのですが、方法が少し違います。禅は半分眼をあけて、瞑想は軽く眼を閉じて。瞑想ではサンスクリット語マントラを(心で)唱えて、禅では何かを(心で)唱えたり唱えなかったり。

 

「ひとーつ、ふたーつ」と呼吸に合わせて数をかぞえる禅の数息観も、「ムー!」と全身全霊「無」になりきる「無字」の公案も、マントラの一種と言えなくもないなと最近は思っています。坐禅ひとすじ何十年、ヨーガひとすじ何十年の人には「それは違う!」と叱られそうだけど。

 

マントラもひとーつふたつもムーも、途中から音が波に溶けていきますからね。そこに行くまでの乗り物みたいなもので。

 

2月に参加したヴィパッサナー瞑想の合宿で、4日めと5日めに心身がドロドロに溶けて、クリーム色に空間と溶けあう体感を得たんですけど、「ああ、禅の只管打坐と目指してるところは同じなのかもな」と思いました。只管打坐でよくすわれてる時の体感と同類のものだったから。「(他に何もせず)ただひたすら坐る」の只管打坐と、「全身をくまなく意識(観察)していく」ヴィパッサナーでは、方法は真反対くらいに違うけど。

帰りのバスで一緒になった人たちに「禅とヴィパッサナーの違い」を聞かれた時も、「ルートが違うだけでめざすところは同じように思う」と答えました。たとえば東京から大阪に行きたいと思った時、新幹線で行くか飛行機で行くか。それくらいの違いで、乗り心地や見える景色、かかる時間は違うけど、結局大阪には着く。ただ、飛行機に乗ってる時に新幹線には乗れないように、どちらかをやっている時にはそれに専念した方がいいように思う、とも。

 

そこのところで、最近、禅よりもヨーガの瞑想に割く時間が多くて「禅がおろそかになってるなあ。ヨーガとどっちつかずになったら困るなあ」と悩んだりもしてるのですが(´-`).。oO

 

ヨーガの塩澤先生がよくおっしゃるのは「学者は違いを見つけるのが仕事でいいけど、われわれ実践者は違いよりも同じところを見つけて実践していくことが大事ではないのかな?」ということで、これは助けになっています。禅とヨーガの違いに目を向け悩むのではなく、どっちでもいいから、やる。行きがかり上でも、その時やることになっているものを。限られた時間の中で。

 

「さとり」や「解脱」といった「最終目標」的なものばかりめざしていると、どうしても頭でっかちになります。ブッダのさとりはどうだ、ヨーガの解脱と何が違う?とか。それって迷いを深めてるだけで。

 

知性で理解できる、論理で割り切れるものなら、そもそもすわる必要なんてないはずで。

 

それが禅であれ瞑想であれ、呼吸に戻れている時の心の状態、その自然な穏やかさに慣れていくことが、この先やっていくことなのかな?と思っています。日々の暮らしや仕事の中で、こころは喜怒哀楽、タテ、ヨコ、ナナメに振れますけどね。その波をならしていく。「禅か?ヨーガか?」と悩むことも、心の揺れのひとつかもしれません。