息をかぞえて

禅・こころとからだ

坐禅のことは坐禅にきけ

新型コロナウイルスの影響で、坐禅会が春からずっと休みになっていて、週に一度、同じ曜日、同じ時間に、先生と参加者ですわることにはなっているのですが、都合が合わない週もあり、どうしたものかと思っています。

 

Zoomを使うという感じでもなく。

 

特に独参での公案は、密な空気で伝わるものなので、PCやスマホの液晶、スピーカーでは、伝達できないでしょうね。

 

坐禅会が休止になって、すわる時間が減ったかといえば、そうでもないのが面白いところです。むしろ自主性は増してきている気もします。ひとりで行なうがゆえの気づきもあることもわかってきました。

 

坐禅のことは、坐禅にきくのが一番ということです。

 

本を読むより、人に聞くより、坐禅のことは坐禅にきくのが一番です。

本に書かれていることも、人の言っていることも、あくまで二次的な情報で、自分の体験ではないからです。

 

誰でも坐禅を組んでいる時は、坐禅そのものにふれています。そのことを自覚できるかどうかが、初心者と長くすわっている人のちがいで、はじめのうちは普段の意識と何がちがうのかわからないくらいに、ぼんやりとはしていますが、それはぼんやりしているだけで、ふれていないわけではありません。自覚なきまま、ばっちり坐禅にふれています。

 

ですからよくわからなくても、すわりつづけていればその感触はなじんでくるし、ぼんやりしていた坐禅のすがたもはっきりしてくるはずです。偶然にでもピントの合う瞬間があり、ピントを合わせるコツもつかめてきます。

 

ただ坐禅をほどいた後は、頭脳による思考が戻ってくるので、坐禅で得た(触覚、聴覚優位の)体験を、言葉で、思考で、辻褄があうよう解釈してしまい、その解釈とさっきの体験のあいだに(必ず)生じるズレが積み重なり、大きくなりすぎると、間違った解釈、誤解がうまれることになります。

 

ずーっとひとりですわっていると、この誤解に修正が入らず、ひとり歩きを始める危険性はあります。ですから答え合わせ的に、信頼のおける先生や老師に、自分の見解をたしかめてもらう必要はやはりあります。本を読んでセルフチェックするのもよいですが、本は自分に都合よく「読み違える」可能性があるので、やはり人にたしかめてもらう必要があります。「それはちがう!」とはっきり言ってくれるのは、やはり人ですから。

 

ただ先生にしても老師にしても、どこから学んでいるかといえば、やはり日々の坐禅そのものから学んでいると思うのです。どんな先生も過去に、そのまた先生から学んだことでしょうが、そのときも人はあくまで伝え手であり、「伝わるそのもの」ではないはずです。

 

もちろん「坐禅の権化」のような人はいて、そういう人は一挙手一投足が禅の表現で、その人の真似をしているうちに、形から入ったものが板についてくる、という可能性もあるでしょう。

 

ただその時も、その人を見聞きするというよりは、その人が見聞きしているものを見聞きできているか、だと思います。

 

そうなると、やはり自分ひとりですわる時、先生がそうしているであろうように、自分の坐禅から学ぶことが一番大事で、またそれが一番の近道になると思うのです。

 

先生(人)の先生(坐禅)からまなび、先生(人)にたしかめてもらうというプロセス。その繰り返し。。。

 

坐禅のことは、坐禅にきく。坐禅の一番の先生は、坐禅するという行為そのもの。答えはいつもそこにある。

 

瞑想にしても同じことで、瞑想のことは瞑想にきくのが、やはり一番だと思います。