坐禅でこころは強くなるのか? その2
前回同じテーマで書いたのですが、よくみたら「手塚治虫のブッダはすごい」という話になっていたので、あらためて書きます。さて、こころは強くなるのか?
「こころがいま何を感じてるのか?」 それは前よりわかるようになります。あと「頭からどんな考えがわいてきてるのか?」も。「こころの声と頭の中のおしゃべりって別物だったのね!」とかも。大体、ごっちゃになってるんですよね。
個人的な定義、感覚となりますが、「こころ」は位置的には「胸のまんなか、ちょっと奥」に在るように感じられます。目には見えませんが、その感覚をヴィジュアル化すると「網目のあるセンサー」。音以外の情報も拾うマイクロフォンみたいな? 感覚を持つ網目のようなものです。臓器や神経と違って、実体はないと思いますが。
この「こころセンサー」は他人の反応や周りで起きる出来事、あと頭の中で思い出したことに「反応」します。申し出を拒否されたり思いやりのない言葉を投げられたりすると「ズキン!」と痛んだり。コップがガチャン!と落ちる音に「ビクン!」と飛び上がったり。誰かにかけられた優しい言葉を思い出して、じーんときたり。いろいろと反応します。
いまスタバにいるのですが、隣の人が2時間くらいずーっと貧乏ゆすりをしてるので、それにざわざわしています(笑)。これは本当に、マイクが音を拾う感じに似てます。空間を通して伝わってくる振動を、その都度、胸にある「こころセンサー」が感知してるというか。あ、まず肌で感知して、それがこころに伝わってるのか?
さあここで「頭」の出番です。「落ち着かねえなあ」とか「うぜえなあ」とか。「早く帰らないかなあ」とか。こころの「ざわざわ」に対応した、いろんな「考え」が次々とわいてきます。わがままですねえ。
で、ここからがおもしろいところで、坐禅をやるようになってからは、こういう時も「なんだかんだ平気」でいられるようになりました。
こころは「ざわざわ」するし、頭は「うぜえ」とイラつくのですが、それが起きてる「空間」が「なんかデカい」んです。
たとえるなら、以前は1K四畳半の狭い(しかもちらかった)部屋で「ざわざわ」と「うぜえ」が反響して、そっこうぶちきれてたのが、今はそこがカーネギーホールくらいの広さで、「ざわざわ」も「うぜえ」もふっ、ふっと立ち消えになっていくというか。
「貧乏ゆすりに慣れてくる」とはまた違うんです。慣れてもやはりイラついてるわけで。読書や仕事に集中できないわけで。そうじゃなくて「イラつきたくても、イラつけなくなる」感じ? 「イライラ」になる前の「イラ」あたりでずっと止まってて、集中も途切れない。なんだかんだ、はかどるわあ♪( ´▽`)
こころセンサーの感度は以前より上がっているので、いろんなことに感じやすくはなります。以前は聞こえなかった小さな音が聞こえ、以前は判別できなかった微かな違和感に気づく。傷つきやすくもなります。他人や環境と同化しやすくもなる。
だけどそれが起きてる空間がだだっ広いせいか、傷ついたままではいないし、同化も長く続かない。窓あけっぱ。換気が良いので、どんどん新しい風が入ってくる。空気、気分が随時更新される。傷もかわいて早く治る。しっくり来ないものは飛ばされていく。カーテンがひらひら。
こうして書いてくると、こころが「強くなる」というより「広くなる」という感じですね。こころの境界線がどんどん拡がって、薄くなっていく。
以前は「こころ」というとハート形のかたちあるものをイメージしていたのですが、最近それができなくなってきています。形のないものは、強くも弱くもしようがないなあ、と。
坐禅でこころは強くなるのか?
「こころを強くしたい」と思って始めた坐禅。毎日すわるようになって6〜7年になりますが、はたして心は強くなったのか? そもそも坐禅で心は強くなるのか? いくつか回った禅寺や禅堂の指導者も、何冊か読んだ禅の入門書も、「坐禅をすると心が強くなります」とは言ってなかった気がする。
「坐禅をすれば、こころが強くなる」となぜ思ったのだろう?
宮本武蔵や一休さんといった「坐禅をやってる人」が、こわいもの知らずで頼もしく見えたから。手塚治虫の「ブッダ」で、シッダルタがさとりをひらくさまに感動したから。
うーん、フィクションですね。武蔵は吉川英治の小説だし、一休さんはアニメ。マンガや小説の影響うけすぎ∑(゚Д゚)
だけど「あしたのジョー」でボクシングを始めたり、「キャプテン翼」でサッカーを始めた人もいるので、きっかけは作り話でもいい気がしてきました。
特に手塚先生の「ブッダ」は良いです。伝承同様、樹下の瞑想でシッダルタはさとりをひらくのですが、その「至高体験」がクライマックスでないところが良いです。むしろその前後に描かれるいくつかの苦しみが、強く訴えかけてくる。
至高体験でさとった気分になっていた時、祖国が滅びたことを知らされ、シッダルタは再び苦しみます。そしてそこに、この世の地獄を生きてきた「死ねない巨人」のヤタラが来ます。憎しみに取り憑かれたヤタラは、答えられなければ殺すとばかりに、生きる意味やこの世の道理を問いかけます。
こうしてシッダルタとヤタラの対話が始まるのですが、この場面は手塚先生による完全な創作なのですが、僕には「ありがたいお経」よりも真に迫っている気がして、何かあると読み返しています。流れる時間はとても静かで、強い弱いをこえた「こころの強さ」を感じます。ヤタラとシッダルタ、迷える者同士。うつし鏡のように。
似たような場面は、僕の人生にも、誰の人生にも訪れている気がして、その時こんな時間が流れればいいなと思い、日々すわっています。
僕の先生
昨日は定例の坐禅会。おもいがけない、よいことがありました。たまにこういうことが起こるから、やめられないし、継続は大事だなあと思います。今日とても元気です!
僕が参加している坐禅会とその指導者について、もう一度説明しておくことにします。
指導者はカトリック修道院「聖心会」のシスター、青木義子先生。
シスターでありながら宗教法人「三宝禅」の禅教師の資格、そして臨床心理士の資格ももたれている方です。僕が最初お目にかかったきっかけもカウンセリングでした。当時、精神的にも生活面でもにっちもさっちもいかない状況にあり、友人の紹介で受けにいきました。6~7年前のことです。
約1年間のカウンセリング期間、青木先生は信仰を持ちだすことなく(僕はキリスト教が説く「許し」などの説明を期待していたのですが)傾聴に徹し、必要なところで現実的なアドバイスをくださいました。なにか非・宗教的というか、実用的。サバサバしていて、かといって冷たいわけでもない。そして、ものごとに動じない。何を相談したとしても。
いま思えばその「現実性」や「適度な距離感」、そして「安定感」は、深いところで禅の精神やイエスへの信仰に支えられていたのだと思います。
カウンセリングが一段落ついたところで「自分でできる、こころのトレーニングを」との僕のリクエストに応えるかたちで、三宝禅(当時「三宝教団」)のとある坐禅会と御老師を紹介していただきました。それから約3年そこですわり、御老師から公案の指導もしていただき、会の皆様からもひとかたならぬ御恩をたまわりましたが、思うところあってそこを離れることに。
その後また青木先生の坐禅会でぼちぼちとすわらせていただくようになり、一昨年の冬に弟子にしていただき、公案の修行を再開して今日にいたります。
ここ最近、新たな参加者の方がふえていることもあって、会に行くのが楽しみになってきています。
鼻で観る
すこし遅くなりましたが、3日前の坐禅会のことを書きます。このところ家ですわる時間をふやしていることもあり、前回の日記で書いたところからもうひとつ、深く静かなところですわることができました。感覚的な話なので、ことばにするのはなかなか難しいですが、やってみます。
坐禅の方法はいくつかあって、1から10までくり返し息をかぞえる「数息感(すうそくかん)」、カウントなしで息の出入りを観ていく「随息観(ずいそくかん)」、指導者からいただいた公案に参ずる「公案(こうあん)」、ただひたすらすわる「只管打坐(しかんたざ)」が主なところでしょうか。
僕は数息観がいちばんやりやすくて気に入っているので、家や電車でやる時はだいたいが数息観です。ただ坐禅会ではシスターから公案をいただくので、公案とともにすわります。この日は2回の坐のうち、ひとつを公案にあて、もうひとつは随息観ですわりました。
公案は「師と弟子の間のやりとりのみ、他言無用」というルールがあるので、ここではふれません。ですので、ふたつ目の随息観について書きます。
公案がなじまず、気をとりなおそうと始めた随息観。この日二坐めだったこともあってか、呼吸は最初から整っていました。
あくまで感覚的にですが、へその下まで落としこむように、または引きこむように鼻から吸い、口はとじたまま鼻から出していきます。
日ごろさぼっていて久々にすわる時は、息が荒く、乱れています。スー〜〜〜ッと吸って、フーーーッ!と出す感じ。おもいきり力んでますね。これまたイメージですが、鼻からへそ下まで太いホースの中を、空気が上下しているような感覚。それくらい普段の生活では呼吸が浅くなっているんだと思います。ポンプ(強い呼吸)で息を引き上げる必要があるくらいに、胸主導で吸っている。
それがすわっているうちに、だんだんと細くちいさな息になってくるのが面白いところです。「ホース」の息だったのが、ストローくらいの細さに。さらに糸くらいに細く。息の強さも「スー〜〜、フーーー!」だったのが、「す、ふっ」くらいになっている。随息観は鼻先を出入りする息の感触で「息を観る」ので、呼吸のかすかな感じがよくわかります。
す、ふっ、す、ふっ、すとふ、すとふ………
ほとんど息が止まるくらいの。入る息と出る息がひとつになるような。鼻で観ています。
浅い呼吸ではありません。腹、腰まで息がみちみちている充実感、安定感がある。そして静か。この日はわりとすぐ、ここに入れました。
ぽっかり、バルーンの中にいる感覚。いっしょにすわってる人達ごと。聖堂ごと。この感覚はひさしぶりだな。
チカチカゆれるキャンドルのほのおが、やわらかくつたってきます。水の中、月あかりが漂うさざ波のように。
チーーーーーーーーーーン!!!
耳というより頭を突きぬけるように、おわりの鐘がビリビリと。
あっという間の25分。ちいさな鐘で、さほど大きくない音なんですけどね。
雑念をおしのけるもの
毎朝の坐禅は15分を1〜2回。タイマーがわりに15分で燃えきる小さな香を焚いているのですが、今日はひさびさに1時間のロングスティック香を。
………。
……………。
長い!
なまじっか時間があるので、うっかり何度も気がぬけます。来週の予定ばかり考えてます。
15分の坐禅でも雑念はもちろんわくのですが、短期決戦で息をかぞえることに専念すれば、「かぞえるはたらき」が優勢のまま、逃げきることができます。いうなれば「1から10まで息をかぞえてるのに、よぎる雑念が邪魔をする」状況。あくまでメインは「息をかぞえる」で、雑念に主役を奪われてはいない。
今日も最初は「ひとつ、ふたつ…」と息をかぞえていたと思うんです。そこにたとえば「病室、白衣、あの人の顔」という「雑念」が、ことばとイメージでふつふつとわく。いつもの15分なら「ハイ、終わってから考えよう!」とかぞえを上書きできるんです。あと少しの辛抱と、かぞえることにもどれる。
でも今日はひさびさの長丁場だったので、「この1時間をどう乗りきろう?」ばかり考えてたんでしょうね。「お香の減り」ばかり気にしてました。「もういいかい?」と。「まあだだよ」と。こうなると、なかなか減りません。もれなく「病室がー」「先生がー」「リハビリがー」と考えの切れはしがついてきます。たちまち木曜に予定のリハビリテーションのシミュレートがはじまり、消えていきます。息をかぞえることは、どこかにとんでいる。
お香の長さに「集中」し、息をかぞえることに「没頭」できずにいる。雑念ばかりがくっきりする。木曜のリハビリ、どうしよう? 帰り、なに食おう? 月曜のミーティング、うわ明日!?
(坐禅がうまくいっている時は「集中」ではなく、「没頭」してる感じになります。集中は、頭と目がギューッと力んでる感じ。重たく、暗く、熱っぽい。没頭は、しずかで軽く、あかるい。思考の「重さ」を感じない)
そんな感じで「1時間ほぼ雑念」だった本日の坐禅ですが、残りわずかとなった時。
雑念にいいようにやられ、「来週のスケジュール会議」がひととおり済んだせいか、「ひとつ、ふたつ…」と息をかぞえるはたらきが、もどってくるではないですか。
「みっつ、よっつ、いつつ…」
さっきまでのとりとめない思考は引き、スムーズに息だけをかぞえている。
雑念そこのけそこのけと「息をかぞえるはたらき」が立ちのぼってくる。ぐいぐいと。ひとりでに。おれ、なんにもしてないよ?
こうなると雑念の出る幕はないです。1から10まで、息をかぞえるはたらきがくりかえされます。自律的な力です。
この感覚は15分の短い坐ではなかなか出てこないもの。最後の最後、短かかったと思いますが、それまでのすべてを帳消しにできるくらいの確かさがありました。途中でやめないで、よかったね。
山を歩く
飯能、武蔵五日市。先月、今月とつづけて山を歩いてきました。ともに標高300メートル以下の低い山。入って出るまで3〜4時間。登山の準備をしなくても、普段着でカバンを肩に歩けます。
とはいえ。
ふだん昇り降りしている駅の階段とくらべると、やはり勾配は急で、傾斜も一定ではない。ハアハアと息はあがり、太ももはパンパンにつっぱる。どんどん緑は濃くふかくなり、風は静かにひんやりしてくる。細くなる道すじ。また広くなったり、曲がったり。
「マムシに注意!」
いきなりの看板にドキリとします。
耳をすませば、ゴクリとのんだ唾の音。荒くなった自分の息。きいろくひびく鳥のさえずり。ザザザとざわめく木々の緑。
「よし大丈夫」と、再びザクザク歩きます。ところどころに標識は出てきますが、はじめて歩く道なので、どこまで続くか、何がとびだすか、わからない。石ころ、砂利道、ぬかるみ、藪。きゅうにバッとひらける崖。ミドリのにおい、ひろがる空。ずうっと下の方から、黒ぐろと木々が伸びてくる。落ちたら助からない高さに、思わず足がすくみます。肌から骨までサッと一瞬でひきしまる。
いや、助からないことはないのですが。息を落ち着けてよく見ると、それほどの高さではない。でも財布や帽子を落としたら、ぜったい取りにいけないな。
低くても山は山。街中ではぜったいに味わえない怖さがあります。でも体じゅうが目をさますというか、怖さが進む力になる。ハハハ!と笑いがこみあげる。
おお!休憩所です。ほっと腰を下ろします。ひとつ、ふたつ息を数えるまでもなく、無心で坐れます。鳥のさえずり、頬をなでる風。ペットボトルからながれこむ水。木々、ミドリ、アオ、シロ、光。
ふだん考えごとばかりしてる頭の中が消え、山が体じゅうになる感じ。ふみしめる足と土はひとつ。山を歩いているうちに、山が歩きはじめる。足をとられそうな下り坂をふんばりふんばり、おりていきます。
となりにすわる人
きのうは定例の坐禅会の日。今回はど忘れすることなく、無事参加できました。SNSで会のことを知った、僕の武術仲間の男性をつれていくこともあって。
たまに男性客の訪問もあるのですが、会の参加者はほとんどみんな、いつも女性。先生もシスターですので、「男は今までオレひとりだったのか!?」と今さらながらに気づく坐となりました。
かすかなんですけど、やはり明らかにちがうんですよね。すわってる時のかんじが。
十字架のイエスを前に、右はしにシスター。そのとなりに僕と彼で男ふたり。そのとなり、いち、にい、さん、し、と女性がならぶ。座蒲の上、息をかぞえてすわります。
いつもだと、海の白い浅瀬で、どこまでもプカプカと波がひろがっていくような感覚に聖堂が包まれるのですが、昨日はそこに、太い樹がずん!と立ってる感じが加わりました。オレンジっぽい色。熱っぽい。
男、なんですね。
シンボルの世界で「海は女」で「樹木は男」なのかは知りませんが、僕の感覚は、そうでした。陰陽のバランスがとれ、坐にメリハリがつく感じ。いつも以上に、とてもよくすわれました。
現実の海でも、抵抗せずに身をまかせればプカプカ浮くことができるし、公園とかで大きな木を見つけると、近づいてスッと寄りかかりたくなる。安心するんですよね。
女性があつまると、そこには涼しいさざなみのような空間が広がり、男がそこに加わると、ずしんと大地に根をおろす。ぼわっと熱くなる。
だまって息をかぞえ、しずかにすわっているうちに、そんな景色が見えてきました。
たしかに、この世界は、人と人でできている。
「人はただ存在しているだけで価値がある」
とか何とか言葉にすると、とたんに「うそつけー」ってなりますが、その人が言いあらわしたかった感覚も、あるいはこういうことだったのかな?と思ったりして。
すぐにまた忘れて、電車やカフェで見知らぬ人にイラッとくると思うんですけど。うるさいやつ。感じ悪いやつ。 男も女もかんけいない。でも本当は、そうじゃないんだろうな。
となりにひとりいるだけで、ひとりじゃなくなるんですよ。