息をかぞえて

禅・こころとからだ

オウムについて思うこと

オウム真理教の松本元代表ら7人の死刑が執行されたようですね。先月ごろから7月執行の噂を耳にしていたので、「ああ本当にやったんだ」とも思いましたが、「え、本当にやったんだ?」との驚きもあります。松本氏が死刑になることで彼を「殉教者」とみる人たちが出てくることや、何らかの報復を警戒して、執行に二の足をふんでいるといった話を聞いていたので。

 

地下鉄サリン事件のあった95年3月20日の朝は、僕も丸ノ内線に乗る予定だったので、「もしかしたら何かの被害に会っていたかも」との思いとともにあります。就職活動で赤坂見附に行く予定だったのを寝すごして、テレビをつけたらニュースでやってた。まだ誰のしわざか、何が起きたかもよくわかってなくて、ただただパニックだったと記憶しています。たぶんタバコに火をつけて、ずっとテレビを見てました。

 

オウム真理教の存在を知ったのはその5〜6年前。大学入試で上京した時、宿泊先の南青山のあたりにベタベタと選挙ポスターが貼ってあって、「よくわからないけど東京こわい」と思いました。どうみても日本の人だけど全員カタカナの名前で。着てるものも違ってて。明らかに違和感のかたまり? 島根の田舎町に住んでいたので、そこまでの変わり者もいなかったんですよね。また集団で、というのがね。ゾウやヒゲのかぶりもので歌い踊る、あの選挙活動も見たかもしれない。まだまだ20世紀で、「世紀末」という言葉も流行してたので、「世紀末やなー」とか思ってた記憶があります。

 

大学に入ってからは「原理」と呼ばれていた統一教会の勧誘を目にしたり、「なかんずく」と名乗る生長の家の勧誘にあったり、「宗教死ねや!!!」と思いつつ、教室になぜか置いてあった「ビートたけし麻原彰晃の対談」のコピーに「ああ、麻原はたけしも認めてんだ? すごいのかな?」と思ったり。いやはや危ない、危ないとこでした。

 

参院選出馬から地下鉄サリン事件、その後の捜査、逮捕、公判、逃走犯の逮捕とリアルタイムで「オウム真理教」を経験してる世代ではあるのですが、正直、以前は(団体にも事件にも)そこまでの関心や興味はなかったように思います。村上春樹の「アンダーグラウンド」とか森達也の「A 」などの「ドキュメンタリー作品」を通じて、「オウムとは何か?」と考えることはあったけど、それって「間接的」なかかわりで。わが身に引き寄せて問い詰める、という感じはなかったです。若いころは新興宗教にも伝統宗教にも、まったく興味なかったですからね。

 

坐禅をするようになり、ヨーガも学ぶようになってから、「オウム真理教とは何だったのか?」を必要にせまられて考えるようになりました。オウムの教義や修行システムには、仏教やヨーガのそれも切り貼りされていたようなので。もう「他人事」ではすまされない。
「どこまでが伝統的な文献にもみられるもので、どこからがオウム独自の見解なのか」だけでも知っておく必要があると思いました。自分の修行を進めるうえでも。さいわいなことに国会図書館に行けば、麻原彰晃の著書や信者の体験談などの刊行物をみることができます。
またそれらと照らし合わせるかたちで、地下鉄サリン事件の公判記録にも目を通しました。まだ1冊、ひとり分しか完読できていないのですが、この度死刑が執行された井上嘉浩死刑囚の記録は興味深かったです(『オウム法廷 9 諜報省長官井上嘉浩』(降幡賢一/ 朝日文庫)。

空虚さをかかえ、宗教に熱狂し(教祖に心酔し、か)、過ちを認めず、破滅に巻き込まれていくさま。公判が進むにつれ変わっていく心境。教祖を否定し、自分を否定し。被害者遺族の娘さんとのやりとりがまた生々しく、読んでいて胸を刺されるようでした。

深く反省したかに見える井上氏ですが、実は死刑を逃れたいがための「演技」も混ざっていたのかも? そう思われる記述もあり、その心中にはわからないところもあるのですが、ただ井上氏のたどった道は、修行や宗教をやるうえで陥りがちなパターンというか、同じ轍を踏まないための「教訓」として(反面教師的に)学ぶこともできると思いました。

オウムに限らず、カルトと呼ばれる集団(いまや宗教団体に限らないかもしれないですね)の仕組み、そこに熱狂する人たちのこころの在りようもわかるかもしれない。似たような過ちを繰り返さないためにも。


ニュースの見出しにもあったように今回の死刑執行は「ひと区切り」なんだと思います。被害者の遺族や(死には至らなかった)被害者の人生はこれからも続いていくし、オウムの後継団体も活動を続けている。脱会して宗教から足を洗った人、別の宗派や方法で修行を続けている人もいるでしょう。僕に知り合いは(今のところ)一人もいないので、まだ「頭の中の想像」でしか、ものを言えてないですけど。

 

身近な実感としてひとつ言えるのは、「オウム」ってきくと、いまだにヒヤッとすることでしょうか。一連の映像が、一瞬うかんでしまう。

 

「オーム」って、オウム真理教が誕生するずっと前から、伝統的なインド宗教のマントラとして唱えられていたみたいですけどね。ヨーガや瞑想を行なううえで欠かせないもののようです。「オ、ウ、ム」というよりは「オーン…」って響いていく感じです、じっさいにやってみると。楽器のチューニングに使う「音叉」の残響にちかい。そうして胸を中心に「こころの調子」をととのえていく。

 

と、くだくだ言っても「やだこわい」と思われるでしょうね。伝わらないと思います。いろいろなヨガ教室のWebとか見ても、みなさん「オーム」のマントラについては、本当に慎重に伝えてらっしゃる。いろいろと苦労、苦心されてきた様子がうかがえます。「私たちのヨガは宗教色を排したものです!」的なキャッチフレーズを多く見かけるのも、やはりオウムの事件が遠因としてあるのだろうな、とかね。でもそれでヨガが「フィットネス的な何か」になったら、元も子もないだろうと。


地下鉄サリン事件の頃は、まさか自分が禅やヨーガなどの「宗教的要素のある行為」にかかわるとは思いもしませんでしたが、いまではいくつかあるマントラのひとつとして、「オーム」をよく使ってます。だから風評被害というか、すっかり悪いイメージがついてしまったので「オームの音がかわいそう」って思ってます。音に罪はないでしょうと。

 

この場を借りてのオウム事件の「総括」とかは身に余りますが、ヨーガの実践者としては「オーム」についた悪いイメージがなくなればといいなと思ってます。

 

まずは日々の修行のなかで「オーム」を「オーム」として鳴らすこと。余分なものはくっつけず。それから僕はライターなので、書く仕事を通じて、伝統的な禅やヨーガ、瞑想について「誤りのない事実」を伝えていければと思っています。なるべく、誤りがないように。


みんな最初は、何か本物を求めて始めたはずです。人はみな間違うので、教祖も自分も社会全体も、それぞれ間違う時があるはずなので、それに気づける「基準」が必要なのだと思います。それはオウムの事件の頃よりも、必要になっている気がします。

 

パパたちけて!

朝めざめるなりすっごく不安になってる時があって、「パパーたちけてー!」と思わずさけんじゃうんですよね。声には出さないけど、ふとんに抱きつきます。

 

父が亡くなってずいぶん経ちます。仲の悪い時期もありましたが、なんだかんだで今でも自分の「よりどころ」にしているのでしょう。

 

きっと僕のこころには(おっさんになっても)父や母に助けを求める「子どもの部分」があるのでしょう。 インナーチャイルドでしたっけ? 内なる子ども。人格化された過去の記憶。こころに問題を抱えている人がカウンセリングやセラピーで、自分の「内なる子ども」の声を聞き、こころの傷をいやしていく。

 

何年か前ですが、僕もヒプノセラピー(催眠療法)を受けたことがあります。催眠状態で過去を思い出していく。前世まで思い出すこともあるとか(・Д・) !

 

僕が思い出したのは幼稚園まででしたが、それでもすっかり忘れてたことを思い出したので、よかったと思います。それまでの記憶では「やせっぽっちの泣き虫」だったのが、「いたずら好きのクソガキ」な面もあったことを思い出したり。飛ぶわ跳ねるわ、まるでサル。今なら「多動児」あつかいです!

 

で、「パパたちけて!」ですが、今朝のはちょっと違ったんです。いつものようにこわい、つらい、苦しい、だけど、それらの苦痛を「見守ってる」側にいたといいますか。「つらさ苦しさ」がぽっかりと浮かんでる。よく見えている。巻き込まれることなく、ともにある。

 

胸の奥がひんやりしてかきむしられる感じや、おなかに力が入らずうずくまる感じ、頭の中の罵詈雑言に押しつぶされる感じ。。。それぞれ、いつも通りにしんどいんですが、それら全てを受け止めている。ふっかふかのでかいベッドみたいに。

 

こうなると「パパに助けを求める」必要性も薄くなります( ・∇・)

 

これまでは「傷ついた子ども」としてベッドで寝かされていたのが、傷ついた子どもを「寝かせてるベッド」の側に意識が移ったといいますか。子どももベッドも、どっちも自分だったんだなあ。「ベッド=自分」となるとわかりにくいかもしれないので、「子どもを抱いてる親」とか「そばで見守ってる誰か」でもいいですけどね。ただあんまり擬人化されたというか、人格的な意識ではないんですよね。「空間」とか「土台(ベッド)」としてボワッと存在してる感覚です。坐禅してる時の、瞑想してる時の、あのひろびろと落ち着いた状態にちかい。そうして「傷ついた子ども」をなんとなく見守っている。「パパたちけて!」と叫んでるやつが「自分」ではないんです。それはあくまで「記憶」であり、それに伴う「感情」や「反応」を(自分で)人格化してるだけで。。。

 

 

人は「人間」というくらいなので、人と人の間で生きていくものだと思います。そこからはずれると生きていけなくなる。こわい。不安だ。「孤独」で死にそうになります。 みんな、何らかの「よりどころ」があって生きていられるのだと思います。僕の場合、それこそ奥深くでは「パパ」(家族)とか、表面的には「書く仕事」(お金も含む)とか。好きな人がいる時は好きな人とか?これは「憧れ」とか「希望」のたぐいかな? そういったものを「よりどころ」に生きています。

 

ただ、これらのものにダイレクトによりかかっていると、失った時のダメージがでかいですよね。リスクヘッジ的に、生きがいをたくさん作っておく、よりどころを分散させるというのも手だとは思うけど、何か目に見えるものをよりどころにしているかぎり、根本にある不安や孤独は消えない気もします。「人」も「モノ」も「お金」も「約束」も、「いつ失われるかわからないもの」だから。

 

 

僕の場合も「よりどころが禅や瞑想に変わっただけでは?」と言われれば、そうかもしれません。でも(信頼できる人でも、お金でも、その他のものでも)「何か現実的なもの」をよりどころにする時の、そのまたよりどころとして、「禅や瞑想の感覚」を知っておくのは良いことだと思ってます。自分の内側にある「よりどころ」を見つける。そこから人や世界と関わっていく。

 

これっていわゆる「自分を信じる」とも違うんですよね。それが悪いとは言わないけど、「自分」ってだいたい欲張ってるから間違うし、だまされるし。状況が変われば考えだって変わりますしね。そんな簡単に「自分」を信じていいのか? そもそも「自分」って何だ? え? わかってんのか、コラ!

 

禅や瞑想の世界では「自分」にふたつあって、ひとつが「自我」や「エゴ」としての「自分」、そしてそこから離れ、もうひとつの「本来の自分」にめざめていくことを良しとしていますよね。今朝の「パパたちけてー!」は前者で、「ぽっかり広がる感じ」は後者につながるものです。

 

「本来の自分」だけが大切で、「自我」や「エゴ」は忌むべきもの、とも思いません。ただ両者の区別はできてた方が良いと思います。「ふたつの自分」が存在してること、そしてその違いを知ることで、ぶつかりあい、排除するものではなく、それぞれを「助けあうもの」にできると思うんですよね。

もうひとつの深呼吸

鼻呼吸で、吸って、止まって、吐く。吸って、止まって、吐く。吸って、止まって。。。禅や瞑想での呼吸の基本だと思いますが、どこをめざして吸うのか?

 

坐禅では最初に上体を倒して体内(肺や気道かな)の空気を外に出し、出きったところで自然に入ってくる空気を迎え入れる。これでまず「胸いっぱいに吸う」感覚を覚える。あとはひとーつ、ふたーつと自然に呼吸する。すわっているうちに呼吸が深くなってくる。だんだんと息が長くなり、胸式呼吸から腹式呼吸へ。呼吸時の意識の位置も胸から下腹部の方へ、といった感じでしょうか。下腹部を「丹田」と呼び、ここに「力がみなぎる感じ」が出てくるのが良い、という話も聞きます。

 

僕の場合、無字の公案を与えられた後は「ムーーーー!」と鼻から下腹部まで吐き下ろせ、と教わりました。へその下めがけ、滝つぼに垂直に落とすようにムームーと吐ききる。勢いにまかせて雑念を蹴散らすような、何もかもをぶち抜くような、独特の「火の玉感」みたいなものが出てくるんですよね。ムームー、ムームー、ムーーー!!!そのうち鼻からヘソ下まで「呼吸の通り道」みたいな感覚が出てきました。本当、滝みたいな。

内臓を基準に考えると、空気は肺で止まってるはずなのに不思議だなと思いました。なんで吐く息がヘソの下まで来るんだろう?って。

 

いやウソですね。そんなこと思いませんでした。ああ、こういうもんなんだって受け入れていたと思います。自分の身体に起こることって、そういうもんだと思います。誰か知らない人に説明するとなった時、はじめて常識に照らし合わせてみる。気道はヘソ下まで来てないわな、と。

 

坐禅の呼吸が「直線的」とするなら、いま練習しているヨーガの瞑想の呼吸は、「求心的」であり「遠心的」である気がします。中心に向かって、吸って、とどまり、外側に向けて吐いて、ひろがっていく。坐禅の呼吸が「滝」のイメージなら、瞑想のそれは「土星の輪」。吐く時にわわわわーんと輪っかがひろがっていくイメージ。土星の輪はひろがらないと思いますけどね。

絵にすると、胸のあたりのオレンジのそれです。

 

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鼻呼吸ももちろんしていて、空気は肺に出入りしてるんですけど(水色)、それとは別の「呼吸の感覚」が出てくる(オレンジ)。

 

胸だけじゃないんですけどね。古典的なヨーガでは身体のある特定の部位に意識を向け「息を吸って、止めて、吐く」という訓練をする。そうするとそこにムズムズっとかモワモワっとか、「息を留めておける」ような感覚がでてくる。そしてそこを拠点に「呼吸してる」感覚が出てきます。仮に「もうひとつの呼吸」とでも名づけておきましょうか。

レントゲンやMRIには写らないと思いますけど、この「もうひとつの呼吸」の良いところは「身体の奥の方が感じられるようになる」ということです。それまでなんとなくやっていた「自分の内側に意識をむける」(内観)が、具体的な指向性を持つようになる。ハッキリと確実になってくる。

 

坐禅をやっていて、丹田の感覚がなんとなくでもわかる人は、「(鼻呼吸と並行して)丹田に息を直接吸って、止めて、そこから吐くイメージ」をやってみてください。禅定にらくに入れるようになるはずです。全身の無駄な力みが抜け、長時間すわれるようになるはず。

 

で、僕の場合。胸の奥。ちくびとちくびの間に人差し指と中指を第2関節まで差し込んだあたりでしょうか。オレンジのマーカーで描いたような「呼吸のよりどころ」の感覚が日に日にムズムズ、モワモワと強まってきています。

 

あんまりいいたとえじゃないんですけど、お尻の穴って自分の意思でキュッとすぼめたりゆるめたりすることができるじゃないですか? あの感じに近いと言えなくもないですね。「穴」めがけて、吸って、止まって、吐く。

 

お尻の穴と違うのは、そこは胸の奥ですからね。やはりこころというかな。感情や愛情がわいてくる出口というか、深い深い源泉のような感触があるんですよね。まだまだこの奥に何かありそうだぞ、みたいな。

 

胸の奥にむけて息を吸い、とどまり、吐いていくことで、その感触がさらに確かになっていく。かすかな「律動」のようなものも感じられる(心臓の鼓動や血管の脈動とはまた違うようです。それはそれで感じるので)。夜、真っ暗なところに放り出されると、しばらくは何も見えないけど、だんだんまわりが「見えてくる」じゃないですか? あの感じに近いです。律動に合わせて息をすることで、今まで目を向けたことがない、暗い奥の方が見えてくる。

 

体の奥のほうで息をする。こういう「深呼吸」もあったんだなーって思います。

 

ほの暗く静かで何もない。そこにとどまることができるようになってきた。そろそろそれを足がかりに、こころの奥の「何かありそうなところ」に踏み込んでいく時期なのかもしれません。

 

善悪はポイントカードのように

トランプと金正恩の握手、いざ目にするとやはりビックリでした。韓国の大統領とのツーショットも信じられませんでしたが、それ以上のインパクト。文大統領は以前から「融和路線」の印象があったけど、トランプは「アメリカ最後の大統領\(^o^)/ 」と揶揄されてきた男。とにかく好戦的! 言葉が乱暴! 数々の問題発言に「第三次世界大戦はコイツが起こすのでは?」と危惧した人も多いと思います。

生い立ちはずいぶん違うでしょうが、トランプと金正恩、「危険な独裁者」のイメージで見られているという意味では、似たもの同士ですね。もっと言えば「悪人」です。

そんな「世界を代表する悪人」のふたりが、「対話」という平和的な選択をしたことへの驚き、意外性。中国やロシアの動き、今後日本が受ける影響など、お花畑的な平和が待ってるとは思いませんが、悲観的な予測は政治評論家のみなさんにまかせて、とりあえず僕は今日の出来事を喜びたいと思います。


何が正義で何が悪か、善悪の基準がはっきりしなくなって結構経ちます。立場が違ったり状況が変われば、善も悪もコロコロ変わる。さいきんでは「ウソだとバレても居直ればいい」みたいな考えかたも、わりと普通になってきてる気がします。なんか感覚が麻痺してきてますよね。

こういう時、相手のペースに巻き込まれず正気を保つには、「昔の偉い人」を参考にするのが良いのでは?と僕は思います。「今の時代の常識」からなるべく遠くにいる人たち。

聖徳太子とかね、孔子とか。ガンジーキング牧師でもいいですけど。

僕は坐禅をやったり、カトリック坐禅会に通い、聖書にも興味を持つようになったので、禅でよしとされてること、ブッダやキリストがよしとしていたことを基準に、善悪の判断をするようになってきていると思います。彼らのことば全てを実行するのは無理ですけど(´・ω・`)

なので「言ってることとやってることが違う」状況はこれからも続くと思いますが、少しでもその差がちぢまればいいな、とも思ってます。できそうなやつからやっていく。悪い行ないよりは、善い行ないを。


以前ある編集者に「お前の原稿は、性善説でまとめるワンパターンだな」と笑われたことがありますが、いまは性善説で何が悪い?と思いますね。

 

「善」も「悪」も相対的な概念で、だから人間に「性善説」も「性悪説」もないんです。善を選べば善になるし、悪を選べば悪になる。それで僕は善を選びたいので善を選ぶ、それだけのことです。その時の善悪の基準は、くりかえしになりますが、僕の場合は禅や仏教、キリスト教のそれが基準になりつつあると思います。あとヨーガもやってるからヴェーダヒンドゥー教もか。

要は「命をたいせつにする」とか「自分にも他人にも苦しみを与えないようにする」とか、当たり前といえば当たり前のことばかりで。やって気持ちのいいこと、人に喜ばれること。昔の人は今より「命」や「自然」に近かったぶん、シンプルだなーって思います。


これは坐禅をやってるうちに出てきた感覚で、いきなり現代に飛びますが、「善い行ない」も「悪い行ない」も「ポイントカードみたいだなあ」って思うんですよね。やればやるだけ「善ポイント」や「悪ポイント」がたまっていく。一定数たまると、善人になったり、悪人になる。

それは人相や雰囲気としても現れ、結果好かれたり、嫌われるようになったり。まあこれって、仏教やヨーガ(の母体であるヒンドゥー教)の「業(ごう)」とか「カルマ」の発想だと思うんですけど、そういうものを実感として感じるようになってきた。まわりの人を見ていても。

 

トランプも金正恩も、パブリックイメージとしての「悪ポイント」は相当たまってると思うんですけど、今回のように善い行ないをすれば、「善のポイント」もたまると思うんです。ポイントカードと一緒で、1ポイントや2ポイントじゃ何もできませんし、今まで貯めてきた悪のポイントを消化していく必要もあると思いますけど。

ウソをつくのもそうだけど、悪いことばかりしてるといい加減イヤになりますよ。頭と心はごまかせても、最後は体が音を上げます。


善悪のポイントが加算され、いずれ精算される仕組みは、万人に共通な気がします。だからなるべく善い行ないを。

まだ「なんとなくそう思う」レベルで「断言」まではできませんけど。自分で試して、これからの人生で証明していければいいなあと思っています。

 

相撲の勝ち星にたとえるなら「8勝7敗」くらいでいいから、日々の暮らしを善い行ないで勝ち越せるようになりたいですね。

 

焦るのは心、安らぐのも心。

昨日のことですが、今晩から泊りがけの予定だった取材(2年ごしの悲願!)が延期となり、拍子ぬけしたような、ホッとしたような気分になりました。期せずして一日フリーの休日に。

 

そのせいか今朝は余裕を持ってすわることができました。ふだんは坐ってる時も、なんだかんだその後の予定を気にしてるんですね。「10時前には家を出なきゃ、プリントもしなきゃ、シャワーも浴びなきゃ」とか。「来週までに原稿書かななきゃ、でも土曜はヨーガも行かなきゃー」とかね。そのたびに心がピクッと反応し、体がじりじりムズります。

「なあ、ちょっと中断して、プリントだけでもしとこうぜ?」

しんせつな心の声がします。その正体は「あー退屈退屈、坐禅なんてやめようぜ( ´Д`)」って自我の抵抗なんですけどね。。。

 

自我はじっとしてるのが苦手というか、常に動こうとしますからね。無駄なことがだいきらい。

あとは不安もあるかな? 退屈というよりもね。根拠のない、うっすらとした不安? みんな多かれ少なかれ、心のどこかにあると思います。

 

自我(「私」という思い)は常に不測の事態を予測し、それに備えて動こうとする。その働き自体はわるいことではないけど(生きていくのに必要)、取り越し苦労で終わることも多々あるので、いちいち相手にしてもいけないんですよね。

たとえば外出先で「カギかけたっけ?」とか「ガスの元栓しめたっけ?」とか、ふと思い出す時のような? 経験的に、こういう時って十中八九セーフなんですけど、一度気になりだすと居ても立ってもいられなくなるというか。心ざわざわ、体ムズムズ、ね?

この時も戸じまりや火の元に問題はなくて、何か他の理由で不安になってることが多いと思います。だからたとえば目の前で本当に大変なことが起きたり、逆にすごくラッキーなことが起きたりすると、ぜーんぶふっ飛んじゃうんですよね。さっきまでのことは全部忘れて、新しい出来事にかじりついてる。戸じまり? してきたわ!

 


ほとぼりが冷めると、また何となく不安になるので、新たな「心配の種」を探し始めます。これは「心配」に限らないかもですね。場合によっては「期待」とか「熱中」といった一見ポジティヴな形をとるかもしれない。今日の僕みたいな「仕事」に「気合い入れて臨む!」といったポジティヴな行為にも、「心の底にある不安」から目を背ける、現実逃避な側面があるのかもしれません。ワーカホリックで、休みの日は何していいかわからなくなる(僕みたいな)タイプの人は、「仕事に逃げてない? やけくそになってない?」って、一度確かめた方がいい。ネガティヴの裏返しとしてのポジティヴ? ちょっとしたことで裏返り、またネガティヴに変わりますから。

 

キーワードは「焦燥感」だと思うんですよね。ざわざわジリジリあせる心。何するにせよ、焦る気持ちから行動を起こしてないか? せかされるように、追い立てられるように。それが仕事であれ、恋愛であれ、老後の計画であれ。

今の時代、社会全体が「焦り」を原動力に動いてるようなところもありますし。

他人と比較させて、自分にないものを求めさせて。もっともっと、まだまだだ。おいコラそこ早くしろ!(じっさいの言い方はもうちょっとマイルドですけど)

僕自身、受験→就職→独立と、人生の大半を焦燥感にかられて生きてきた気がします。常に遅れを取ってるようで、歩く速度もムダに早い(笑)。坐禅や瞑想を行なうようになってそれが自覚できるようになり、焦りの正体も見えてきましたが、そこから完全に解放されるわけでもないのが悩ましいところです(´・ω・`)

 

ただ、心ってやつは、刺激を受けて「波立つ」と焦りますが、「無風状態」だと安らぐんですよね。最近わかってきたのは、心は「海」みたいな性質をもってて、呼吸が落ち着いてくると「波」が小さくなり、それが進むと「凪(なぎ)」となる。平らで、なだらかな状態。ここまではゴロ寝でリラックスとかでも可能と思いますが(とくに技術はいらない!)、禅や瞑想で「無風状態」を推し進めると、心がどんどん広くなって、「海の面積」が拡大していく感覚が出てきます。うみはひろいなおおきいなー、的な? わかりにくいか。まあ、頭の中がゴチャゴチャと混線状態になっても、その影響を受けにくくなるというか(ちょっと絵にしてみました。ピンクのモジョモジョが「ゴチャゴチャの頭の中」、ブルーの水面が「凪いだ心」です。ふつうは頭の中がゴチャゴチャすると、心の海もつられて荒れるものですが、この人の心は凪いでいます。頭の影響を受けてない)。

 

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思いや考えが次々と浮かんでくるのはしょうがないです。どうやらそれは止められない。僕も坐禅を始めたころは「雑念を頭から追い出す」方向性の指導を受け、「脳内の雑念ゼロ!」めざして頑張ってたけど、当時の(頭も心もグチャグチャすぎた)僕に有効な手段だったとしても、いつまでも続ける方法ではないと思います。あるていど修行が進んだら「雑念を見張る」より「心をひろげる」方が良い。

そうすることで、次々と浮かんでくる思いがゴチャゴチャ騒ぎを起こしても、いちいち反応しなくなる。振り回されなくなる。心は凪いだ広い海。ジリジリとした焦燥感が起こらなくなります。起きても遠くに感じられるようになる。少なくとも坐禅や瞑想中は。で、ここからが大事だと思うのですが、この凪いだ状態は、せわしない日常の時間にも「はみ出してくる」気がします。本当、すこしずつジワジワですけど。

 

心をひろげることは、心の波をしずめることで、呼吸をおだやかにしていくことです。

 

 

人って、安らぎを求めようとして動き回り、そのせいで焦ってるのかもしれませんね。

 

 

寝ても覚めても。

ライターの仕事で対談の取材。伝統芸能の先生とスポーツ選手の顔合わせでした。

 

伝統芸能の先生が瞑想をやっているとのことで、私も体験。ほの暗く静かな中で、赤、黄、青、紫、線香花火のような光がチロチロ見えてきました。富山湾を泳ぐホタルイカのようです? こういうことはたまにあります。

後で先生に告げると、「あんたすごいよ!」とおほめの言葉。

何が「すごい」かは覚えてませんが、うれしかったですね。だいたいそんなところで目が覚めました。


夢だったという(´・ω・`)

 

さいきんは夢の中でも瞑想するようになったようで、でもそれなら起きてる時にもっと坐れよと思いますね。ヴィパッサナー瞑想の合宿後、「朝晩1じかんずつ坐るぞ!」とか息巻いてたのに全然なので。

 

でもね、夢の中での瞑想が、起きてる時のそれと同じ視点だったのは貴重な発見でしたね。

起きてる時、夢を見てる時、通底している意識があるんだなあと実感できたので。あとは「熟睡でブラックアウトしてる時」が加われば最強ですね。この時の意識に気づけば、24時間マインドフルネスです?

 

荘子の「胡蝶の夢」でしたっけ? 蝶として飛んでたらそれが夢で、目が覚めた荘子が「おれが蝶の夢をみていたのか? それとも今、蝶がおれの夢をみているのか?」と問いかけるという。

同じものが蝶として舞い、俺として「?」を浮かべてるんでしょうね。同じとこからみている。

 


これね、けさ夢で見たのをすっかり忘れてたのを、瞑想してる時に思い出したんですよ。

僕はよく夢を見て、いつもだいたい忘れてしまうのですが、これも「忘れる」というより「目が覚めて、自意識が前面に出てきてる」だけなのかもしれません。

だから坐禅や瞑想で自意識が弱くなると、またひょこっと出てくる。他の記憶と同様、下の方に沈んでたやつが。

 

寝ても覚めても、同じところでみてるんでしょうね。

 

結跏趺坐できた!

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坐禅を始めてもうすぐ10年になりますが、結跏趺坐ですわれるようになりました。

 

これ、基本のすわりかたなので、みんな脚が痛いの我慢して、ここから始めるのが普通なのでしょうが(笑)。

 

僕、足腰の関節が固すぎて、ガマンもなにも、組めなかったんですよね。片方の足を乗せたら、もう片方を上げることができなかったの。

 

無理矢理乗せたらマサ斉藤の監獄固めみたいになって、即ギブアップでした! 骨がきしんで坐禅どころじゃないですよ! 痛いのなんのって!

 

結跏趺坐が組めるようになったのはヨーガのおかげなんですけどね。禅ではすわりかたの指導まではしないから。

 

塩澤賢一先生の教室で2〜3年かけて、さまざまなアーサナをじっくりやって、スカアーサナ(安楽坐)で徐々に足腰を慣らしていって。

 

まだ不恰好で、股関節と膝裏にかるい引きつれは感じますが、なんとか組めるようになりました。

 

10年前からは想像もできないことです。

 

まだまだ股関節は固く、開脚も満足にできないけど、身体の柔軟性もずいぶんマシになってきています。ほんと塩澤先生さまさまですわ。

 

組むまでは阿鼻叫喚の結跏趺坐でしたが、組めるようになると、これ、すわりやすいですよ。一番すわりやすい。

 

足腰が最適な形で折りたたまれるというかね。無駄なくピッタリ収納される。「三角錐」のような、最小化された安定感がうまれるようです。ちょっと別次元ですね。

 

スカアーサナだと底辺が広すぎるし、正座(ヴァジュラアーサナ)だとちと狭い。もちろんそれぞれに長所もあるでしょうが、結跏趺坐、ヨーガでいうところのパドマアーサナ(蓮華坐)とくらべると、ものたりなさを感じるようになってきます。

 

あと、両足を組むことで、組んだ両脚に「メビウスの環」みたいな循環がうまれてきますね。組んだ足の部分が「結び目」になって、エネルギーや集中力の漏れを防いでいる? わかりやすく言えば、靴ひもをちゃんと結んだ時の、歩きやすい感じ。ゆるかったりほどけてると、なんか気持ち悪いし、うまく歩けないじゃないですか。

 

両脚がうまく決まると、底辺の三角形に持ち上げられる感じで背骨も立つようです。「ピンと伸ばそう!」とか力まなくても、そっと立つ感じ。

 

そう、結跏趺坐の形が決まると、肩も肘も、膝も首も、力まなくてよくなる気がします。からだ全体として「三角錐」ができてるから、部分的な関節関節をかためたり、のばす必要がなくなる。結果、自然に関節が(ほどよく)ゆるむ。

 

この状態になると、身体でその時起きている緊張や不快感がよーく見えるようになりますね。そしてそれら筋肉や内臓の緊張、骨格の偏りなどが、イライラや渇望といった「こころの状態」とも密接につながりあってることが見えてきます。たとえば「舌の奥の低温ヤケドのような不快感」は「味覚のダメージ」でもあり、それが「やけ食い」を呼んでいるとかね。傷口に塩をぬりこむように、食いたくもないのにまた食っちゃう。昨日はそのへんが見えました(´・ω・`)

 

 

坐禅や瞑想をするようになって、身体が固いこともあって、「すわりかたなんて何でもいい」と長く思っていたけど、たとえば「椅子に座って」と「結跏趺坐」をくらべると断然後者がいいです。

 

椅子に座っての瞑想や禅はラクちんだけど、何の縛りもないぶん逆に散漫になる気がしますね。雑念がやたら気になって、なかなか本番の瞑想や禅定に入れない。結果的に時間のムダかも。

 

結跏趺坐は雑念にも強いというか、思いが浮かんでも、それにひっぱられない「空白」としてすわれる気がします。

 

「ひと休み」みたいな休息感があるんですよね。力まず、構えず、ちっちゃなテントで休んでるような。そしてそれは外の世界を遮断しない。むしろ外との「一体感」が出てくる。外野の声や雑音が気にならなくなるというかな。耳をふさぐことなく。

 

禅を組んでる時の「静けさ」と現実世界の「喧騒」を、どう折り合いをつけようかと苦心してきたけど、この感じならイケるかもしれない。

 

「雨降らば降れ、風吹かば吹け」と詠んだ一休さんも、ここにいたのかな?なーんて思ってます。