息をかぞえて

禅・こころとからだ

パパたちけて!

朝めざめるなりすっごく不安になってる時があって、「パパーたちけてー!」と思わずさけんじゃうんですよね。声には出さないけど、ふとんに抱きつきます。

 

父が亡くなってずいぶん経ちます。仲の悪い時期もありましたが、なんだかんだで今でも自分の「よりどころ」にしているのでしょう。

 

きっと僕のこころには(おっさんになっても)父や母に助けを求める「子どもの部分」があるのでしょう。 インナーチャイルドでしたっけ? 内なる子ども。人格化された過去の記憶。こころに問題を抱えている人がカウンセリングやセラピーで、自分の「内なる子ども」の声を聞き、こころの傷をいやしていく。

 

何年か前ですが、僕もヒプノセラピー(催眠療法)を受けたことがあります。催眠状態で過去を思い出していく。前世まで思い出すこともあるとか(・Д・) !

 

僕が思い出したのは幼稚園まででしたが、それでもすっかり忘れてたことを思い出したので、よかったと思います。それまでの記憶では「やせっぽっちの泣き虫」だったのが、「いたずら好きのクソガキ」な面もあったことを思い出したり。飛ぶわ跳ねるわ、まるでサル。今なら「多動児」あつかいです!

 

で、「パパたちけて!」ですが、今朝のはちょっと違ったんです。いつものようにこわい、つらい、苦しい、だけど、それらの苦痛を「見守ってる」側にいたといいますか。「つらさ苦しさ」がぽっかりと浮かんでる。よく見えている。巻き込まれることなく、ともにある。

 

胸の奥がひんやりしてかきむしられる感じや、おなかに力が入らずうずくまる感じ、頭の中の罵詈雑言に押しつぶされる感じ。。。それぞれ、いつも通りにしんどいんですが、それら全てを受け止めている。ふっかふかのでかいベッドみたいに。

 

こうなると「パパに助けを求める」必要性も薄くなります( ・∇・)

 

これまでは「傷ついた子ども」としてベッドで寝かされていたのが、傷ついた子どもを「寝かせてるベッド」の側に意識が移ったといいますか。子どももベッドも、どっちも自分だったんだなあ。「ベッド=自分」となるとわかりにくいかもしれないので、「子どもを抱いてる親」とか「そばで見守ってる誰か」でもいいですけどね。ただあんまり擬人化されたというか、人格的な意識ではないんですよね。「空間」とか「土台(ベッド)」としてボワッと存在してる感覚です。坐禅してる時の、瞑想してる時の、あのひろびろと落ち着いた状態にちかい。そうして「傷ついた子ども」をなんとなく見守っている。「パパたちけて!」と叫んでるやつが「自分」ではないんです。それはあくまで「記憶」であり、それに伴う「感情」や「反応」を(自分で)人格化してるだけで。。。

 

 

人は「人間」というくらいなので、人と人の間で生きていくものだと思います。そこからはずれると生きていけなくなる。こわい。不安だ。「孤独」で死にそうになります。 みんな、何らかの「よりどころ」があって生きていられるのだと思います。僕の場合、それこそ奥深くでは「パパ」(家族)とか、表面的には「書く仕事」(お金も含む)とか。好きな人がいる時は好きな人とか?これは「憧れ」とか「希望」のたぐいかな? そういったものを「よりどころ」に生きています。

 

ただ、これらのものにダイレクトによりかかっていると、失った時のダメージがでかいですよね。リスクヘッジ的に、生きがいをたくさん作っておく、よりどころを分散させるというのも手だとは思うけど、何か目に見えるものをよりどころにしているかぎり、根本にある不安や孤独は消えない気もします。「人」も「モノ」も「お金」も「約束」も、「いつ失われるかわからないもの」だから。

 

 

僕の場合も「よりどころが禅や瞑想に変わっただけでは?」と言われれば、そうかもしれません。でも(信頼できる人でも、お金でも、その他のものでも)「何か現実的なもの」をよりどころにする時の、そのまたよりどころとして、「禅や瞑想の感覚」を知っておくのは良いことだと思ってます。自分の内側にある「よりどころ」を見つける。そこから人や世界と関わっていく。

 

これっていわゆる「自分を信じる」とも違うんですよね。それが悪いとは言わないけど、「自分」ってだいたい欲張ってるから間違うし、だまされるし。状況が変われば考えだって変わりますしね。そんな簡単に「自分」を信じていいのか? そもそも「自分」って何だ? え? わかってんのか、コラ!

 

禅や瞑想の世界では「自分」にふたつあって、ひとつが「自我」や「エゴ」としての「自分」、そしてそこから離れ、もうひとつの「本来の自分」にめざめていくことを良しとしていますよね。今朝の「パパたちけてー!」は前者で、「ぽっかり広がる感じ」は後者につながるものです。

 

「本来の自分」だけが大切で、「自我」や「エゴ」は忌むべきもの、とも思いません。ただ両者の区別はできてた方が良いと思います。「ふたつの自分」が存在してること、そしてその違いを知ることで、ぶつかりあい、排除するものではなく、それぞれを「助けあうもの」にできると思うんですよね。