息をかぞえて

禅・こころとからだ

もうひとつの深呼吸

鼻呼吸で、吸って、止まって、吐く。吸って、止まって、吐く。吸って、止まって。。。禅や瞑想での呼吸の基本だと思いますが、どこをめざして吸うのか?

 

坐禅では最初に上体を倒して体内(肺や気道かな)の空気を外に出し、出きったところで自然に入ってくる空気を迎え入れる。これでまず「胸いっぱいに吸う」感覚を覚える。あとはひとーつ、ふたーつと自然に呼吸する。すわっているうちに呼吸が深くなってくる。だんだんと息が長くなり、胸式呼吸から腹式呼吸へ。呼吸時の意識の位置も胸から下腹部の方へ、といった感じでしょうか。下腹部を「丹田」と呼び、ここに「力がみなぎる感じ」が出てくるのが良い、という話も聞きます。

 

僕の場合、無字の公案を与えられた後は「ムーーーー!」と鼻から下腹部まで吐き下ろせ、と教わりました。へその下めがけ、滝つぼに垂直に落とすようにムームーと吐ききる。勢いにまかせて雑念を蹴散らすような、何もかもをぶち抜くような、独特の「火の玉感」みたいなものが出てくるんですよね。ムームー、ムームー、ムーーー!!!そのうち鼻からヘソ下まで「呼吸の通り道」みたいな感覚が出てきました。本当、滝みたいな。

内臓を基準に考えると、空気は肺で止まってるはずなのに不思議だなと思いました。なんで吐く息がヘソの下まで来るんだろう?って。

 

いやウソですね。そんなこと思いませんでした。ああ、こういうもんなんだって受け入れていたと思います。自分の身体に起こることって、そういうもんだと思います。誰か知らない人に説明するとなった時、はじめて常識に照らし合わせてみる。気道はヘソ下まで来てないわな、と。

 

坐禅の呼吸が「直線的」とするなら、いま練習しているヨーガの瞑想の呼吸は、「求心的」であり「遠心的」である気がします。中心に向かって、吸って、とどまり、外側に向けて吐いて、ひろがっていく。坐禅の呼吸が「滝」のイメージなら、瞑想のそれは「土星の輪」。吐く時にわわわわーんと輪っかがひろがっていくイメージ。土星の輪はひろがらないと思いますけどね。

絵にすると、胸のあたりのオレンジのそれです。

 

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鼻呼吸ももちろんしていて、空気は肺に出入りしてるんですけど(水色)、それとは別の「呼吸の感覚」が出てくる(オレンジ)。

 

胸だけじゃないんですけどね。古典的なヨーガでは身体のある特定の部位に意識を向け「息を吸って、止めて、吐く」という訓練をする。そうするとそこにムズムズっとかモワモワっとか、「息を留めておける」ような感覚がでてくる。そしてそこを拠点に「呼吸してる」感覚が出てきます。仮に「もうひとつの呼吸」とでも名づけておきましょうか。

レントゲンやMRIには写らないと思いますけど、この「もうひとつの呼吸」の良いところは「身体の奥の方が感じられるようになる」ということです。それまでなんとなくやっていた「自分の内側に意識をむける」(内観)が、具体的な指向性を持つようになる。ハッキリと確実になってくる。

 

坐禅をやっていて、丹田の感覚がなんとなくでもわかる人は、「(鼻呼吸と並行して)丹田に息を直接吸って、止めて、そこから吐くイメージ」をやってみてください。禅定にらくに入れるようになるはずです。全身の無駄な力みが抜け、長時間すわれるようになるはず。

 

で、僕の場合。胸の奥。ちくびとちくびの間に人差し指と中指を第2関節まで差し込んだあたりでしょうか。オレンジのマーカーで描いたような「呼吸のよりどころ」の感覚が日に日にムズムズ、モワモワと強まってきています。

 

あんまりいいたとえじゃないんですけど、お尻の穴って自分の意思でキュッとすぼめたりゆるめたりすることができるじゃないですか? あの感じに近いと言えなくもないですね。「穴」めがけて、吸って、止まって、吐く。

 

お尻の穴と違うのは、そこは胸の奥ですからね。やはりこころというかな。感情や愛情がわいてくる出口というか、深い深い源泉のような感触があるんですよね。まだまだこの奥に何かありそうだぞ、みたいな。

 

胸の奥にむけて息を吸い、とどまり、吐いていくことで、その感触がさらに確かになっていく。かすかな「律動」のようなものも感じられる(心臓の鼓動や血管の脈動とはまた違うようです。それはそれで感じるので)。夜、真っ暗なところに放り出されると、しばらくは何も見えないけど、だんだんまわりが「見えてくる」じゃないですか? あの感じに近いです。律動に合わせて息をすることで、今まで目を向けたことがない、暗い奥の方が見えてくる。

 

体の奥のほうで息をする。こういう「深呼吸」もあったんだなーって思います。

 

ほの暗く静かで何もない。そこにとどまることができるようになってきた。そろそろそれを足がかりに、こころの奥の「何かありそうなところ」に踏み込んでいく時期なのかもしれません。