息をかぞえて

禅・こころとからだ

焦るのは心、安らぐのも心。

昨日のことですが、今晩から泊りがけの予定だった取材(2年ごしの悲願!)が延期となり、拍子ぬけしたような、ホッとしたような気分になりました。期せずして一日フリーの休日に。

 

そのせいか今朝は余裕を持ってすわることができました。ふだんは坐ってる時も、なんだかんだその後の予定を気にしてるんですね。「10時前には家を出なきゃ、プリントもしなきゃ、シャワーも浴びなきゃ」とか。「来週までに原稿書かななきゃ、でも土曜はヨーガも行かなきゃー」とかね。そのたびに心がピクッと反応し、体がじりじりムズります。

「なあ、ちょっと中断して、プリントだけでもしとこうぜ?」

しんせつな心の声がします。その正体は「あー退屈退屈、坐禅なんてやめようぜ( ´Д`)」って自我の抵抗なんですけどね。。。

 

自我はじっとしてるのが苦手というか、常に動こうとしますからね。無駄なことがだいきらい。

あとは不安もあるかな? 退屈というよりもね。根拠のない、うっすらとした不安? みんな多かれ少なかれ、心のどこかにあると思います。

 

自我(「私」という思い)は常に不測の事態を予測し、それに備えて動こうとする。その働き自体はわるいことではないけど(生きていくのに必要)、取り越し苦労で終わることも多々あるので、いちいち相手にしてもいけないんですよね。

たとえば外出先で「カギかけたっけ?」とか「ガスの元栓しめたっけ?」とか、ふと思い出す時のような? 経験的に、こういう時って十中八九セーフなんですけど、一度気になりだすと居ても立ってもいられなくなるというか。心ざわざわ、体ムズムズ、ね?

この時も戸じまりや火の元に問題はなくて、何か他の理由で不安になってることが多いと思います。だからたとえば目の前で本当に大変なことが起きたり、逆にすごくラッキーなことが起きたりすると、ぜーんぶふっ飛んじゃうんですよね。さっきまでのことは全部忘れて、新しい出来事にかじりついてる。戸じまり? してきたわ!

 


ほとぼりが冷めると、また何となく不安になるので、新たな「心配の種」を探し始めます。これは「心配」に限らないかもですね。場合によっては「期待」とか「熱中」といった一見ポジティヴな形をとるかもしれない。今日の僕みたいな「仕事」に「気合い入れて臨む!」といったポジティヴな行為にも、「心の底にある不安」から目を背ける、現実逃避な側面があるのかもしれません。ワーカホリックで、休みの日は何していいかわからなくなる(僕みたいな)タイプの人は、「仕事に逃げてない? やけくそになってない?」って、一度確かめた方がいい。ネガティヴの裏返しとしてのポジティヴ? ちょっとしたことで裏返り、またネガティヴに変わりますから。

 

キーワードは「焦燥感」だと思うんですよね。ざわざわジリジリあせる心。何するにせよ、焦る気持ちから行動を起こしてないか? せかされるように、追い立てられるように。それが仕事であれ、恋愛であれ、老後の計画であれ。

今の時代、社会全体が「焦り」を原動力に動いてるようなところもありますし。

他人と比較させて、自分にないものを求めさせて。もっともっと、まだまだだ。おいコラそこ早くしろ!(じっさいの言い方はもうちょっとマイルドですけど)

僕自身、受験→就職→独立と、人生の大半を焦燥感にかられて生きてきた気がします。常に遅れを取ってるようで、歩く速度もムダに早い(笑)。坐禅や瞑想を行なうようになってそれが自覚できるようになり、焦りの正体も見えてきましたが、そこから完全に解放されるわけでもないのが悩ましいところです(´・ω・`)

 

ただ、心ってやつは、刺激を受けて「波立つ」と焦りますが、「無風状態」だと安らぐんですよね。最近わかってきたのは、心は「海」みたいな性質をもってて、呼吸が落ち着いてくると「波」が小さくなり、それが進むと「凪(なぎ)」となる。平らで、なだらかな状態。ここまではゴロ寝でリラックスとかでも可能と思いますが(とくに技術はいらない!)、禅や瞑想で「無風状態」を推し進めると、心がどんどん広くなって、「海の面積」が拡大していく感覚が出てきます。うみはひろいなおおきいなー、的な? わかりにくいか。まあ、頭の中がゴチャゴチャと混線状態になっても、その影響を受けにくくなるというか(ちょっと絵にしてみました。ピンクのモジョモジョが「ゴチャゴチャの頭の中」、ブルーの水面が「凪いだ心」です。ふつうは頭の中がゴチャゴチャすると、心の海もつられて荒れるものですが、この人の心は凪いでいます。頭の影響を受けてない)。

 

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思いや考えが次々と浮かんでくるのはしょうがないです。どうやらそれは止められない。僕も坐禅を始めたころは「雑念を頭から追い出す」方向性の指導を受け、「脳内の雑念ゼロ!」めざして頑張ってたけど、当時の(頭も心もグチャグチャすぎた)僕に有効な手段だったとしても、いつまでも続ける方法ではないと思います。あるていど修行が進んだら「雑念を見張る」より「心をひろげる」方が良い。

そうすることで、次々と浮かんでくる思いがゴチャゴチャ騒ぎを起こしても、いちいち反応しなくなる。振り回されなくなる。心は凪いだ広い海。ジリジリとした焦燥感が起こらなくなります。起きても遠くに感じられるようになる。少なくとも坐禅や瞑想中は。で、ここからが大事だと思うのですが、この凪いだ状態は、せわしない日常の時間にも「はみ出してくる」気がします。本当、すこしずつジワジワですけど。

 

心をひろげることは、心の波をしずめることで、呼吸をおだやかにしていくことです。

 

 

人って、安らぎを求めようとして動き回り、そのせいで焦ってるのかもしれませんね。