息をかぞえて

禅・こころとからだ

結跏趺坐できた!

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坐禅を始めてもうすぐ10年になりますが、結跏趺坐ですわれるようになりました。

 

これ、基本のすわりかたなので、みんな脚が痛いの我慢して、ここから始めるのが普通なのでしょうが(笑)。

 

僕、足腰の関節が固すぎて、ガマンもなにも、組めなかったんですよね。片方の足を乗せたら、もう片方を上げることができなかったの。

 

無理矢理乗せたらマサ斉藤の監獄固めみたいになって、即ギブアップでした! 骨がきしんで坐禅どころじゃないですよ! 痛いのなんのって!

 

結跏趺坐が組めるようになったのはヨーガのおかげなんですけどね。禅ではすわりかたの指導まではしないから。

 

塩澤賢一先生の教室で2〜3年かけて、さまざまなアーサナをじっくりやって、スカアーサナ(安楽坐)で徐々に足腰を慣らしていって。

 

まだ不恰好で、股関節と膝裏にかるい引きつれは感じますが、なんとか組めるようになりました。

 

10年前からは想像もできないことです。

 

まだまだ股関節は固く、開脚も満足にできないけど、身体の柔軟性もずいぶんマシになってきています。ほんと塩澤先生さまさまですわ。

 

組むまでは阿鼻叫喚の結跏趺坐でしたが、組めるようになると、これ、すわりやすいですよ。一番すわりやすい。

 

足腰が最適な形で折りたたまれるというかね。無駄なくピッタリ収納される。「三角錐」のような、最小化された安定感がうまれるようです。ちょっと別次元ですね。

 

スカアーサナだと底辺が広すぎるし、正座(ヴァジュラアーサナ)だとちと狭い。もちろんそれぞれに長所もあるでしょうが、結跏趺坐、ヨーガでいうところのパドマアーサナ(蓮華坐)とくらべると、ものたりなさを感じるようになってきます。

 

あと、両足を組むことで、組んだ両脚に「メビウスの環」みたいな循環がうまれてきますね。組んだ足の部分が「結び目」になって、エネルギーや集中力の漏れを防いでいる? わかりやすく言えば、靴ひもをちゃんと結んだ時の、歩きやすい感じ。ゆるかったりほどけてると、なんか気持ち悪いし、うまく歩けないじゃないですか。

 

両脚がうまく決まると、底辺の三角形に持ち上げられる感じで背骨も立つようです。「ピンと伸ばそう!」とか力まなくても、そっと立つ感じ。

 

そう、結跏趺坐の形が決まると、肩も肘も、膝も首も、力まなくてよくなる気がします。からだ全体として「三角錐」ができてるから、部分的な関節関節をかためたり、のばす必要がなくなる。結果、自然に関節が(ほどよく)ゆるむ。

 

この状態になると、身体でその時起きている緊張や不快感がよーく見えるようになりますね。そしてそれら筋肉や内臓の緊張、骨格の偏りなどが、イライラや渇望といった「こころの状態」とも密接につながりあってることが見えてきます。たとえば「舌の奥の低温ヤケドのような不快感」は「味覚のダメージ」でもあり、それが「やけ食い」を呼んでいるとかね。傷口に塩をぬりこむように、食いたくもないのにまた食っちゃう。昨日はそのへんが見えました(´・ω・`)

 

 

坐禅や瞑想をするようになって、身体が固いこともあって、「すわりかたなんて何でもいい」と長く思っていたけど、たとえば「椅子に座って」と「結跏趺坐」をくらべると断然後者がいいです。

 

椅子に座っての瞑想や禅はラクちんだけど、何の縛りもないぶん逆に散漫になる気がしますね。雑念がやたら気になって、なかなか本番の瞑想や禅定に入れない。結果的に時間のムダかも。

 

結跏趺坐は雑念にも強いというか、思いが浮かんでも、それにひっぱられない「空白」としてすわれる気がします。

 

「ひと休み」みたいな休息感があるんですよね。力まず、構えず、ちっちゃなテントで休んでるような。そしてそれは外の世界を遮断しない。むしろ外との「一体感」が出てくる。外野の声や雑音が気にならなくなるというかな。耳をふさぐことなく。

 

禅を組んでる時の「静けさ」と現実世界の「喧騒」を、どう折り合いをつけようかと苦心してきたけど、この感じならイケるかもしれない。

 

「雨降らば降れ、風吹かば吹け」と詠んだ一休さんも、ここにいたのかな?なーんて思ってます。