息をかぞえて

禅・こころとからだ

ティク・ナット・ハン『ブッダの <気づき> の瞑想』

前回からの続きです。ヴィパッサナー瞑想の合宿で聴いたゴエンカ氏の講話。心身の感覚と瞑想の仕組み、その関係性について初めて聞く話があったので(今後の修行に希望を与えてくれる話で、驚いたというか嬉しかったので)、その元ネタを知りたくて仏教や瞑想の本を調べている、という話でした。

 

いつも本を漁る時はアマゾンで調べて、まずは吉祥寺のジュンク堂書店に行きます。品揃え豊富だし、ベンチに座って立ち読みできるし。1000円以下の文庫や新書ならまだしも、専門書は2000円、3000円しますからね(>_<)

 

ただ一冊全部を読み切るのは「緩慢な万引き」みたいで気がひけるので、じっくり読みたい時は国会図書館へ。一度に3冊しか借りれないし、本が来るまで20〜30分かかるけど、国内の本はほぼ全てあります。

 

で、パラパラパラと元ネタ探しをしてたのですが、ハッと手が止まりました。

 

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ティク・ナット・ハン『ブッダの <気づき> の瞑想』の一節。当初探していた情報とはまた違うのですが、それ以上にいまの僕に必要な言葉がありました。実はこの本、数年前に一度買ってて、ブックオフに売っちゃってたんですよね(´Д` )。「なんだ、そんなこと全部知ってらあ」とその時は思いました。

 

ティク・ナット・ハンのことも「マインドフルネスの人?」くらいの認識でしたが、臨済宗の禅僧だったんですね。僕も禅から探求を始めているので、親しみや信頼感もわいてきます。

 

 

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「心の解放(解脱)とは、 人生から逃避したりそれを台無しにすることではありません。仏教とは人生を否定する教えだとか、物質・感覚・認知・思いの形成・意識という五蘊の世界を超越することだという人が少なくありませんが、そうした主張は、いのちは無でありすべては無価値だと悟るために修行があるというのと同じです」 (p104)

 

いやあ耳が痛い。ついハマっちゃう落とし穴なんですよね。虚無主義ニヒリズム。すべては移ろい、人生に意味はない。いつか死ぬならさっさと消えたい。自分もすっかりハマってました。

 

「苦しみの原因は、人生や五蘊やあらゆるものの無我・縁起の性質ではなく、私たちの無智(無明)が不幸を生むのだということです。人は無常、無我、縁起こそがいのちの本質だと理解できずに、存在するものは変わらないと思いこみ、物事に執着します。(中略) 無常、無我、縁起を否定してしまうと、生きることは不条理で受け入れがたいものになるでしょう」(p105)

 

ティクさん、オレが見えてるのか? (;゚Д゚) くらいに、最近の僕、まさにそんな感じでした。「世の中どんどんおかしな方向に進んでいくなあ。おれも無駄に年とるだけだし。この先の人生、消化試合みたいなもんだ」と。

 

瞑想してる時やヨーガを教わってる時はいいんですよ。いのちに戻ってる実感がある。赤ん坊のころから変わってない感覚。みる、きく、ふれるがはっきり分かれてない、あたたかいぬくもり。

 

でもそこからまた日常に戻らないといけない。くたびれてきたこの体、この環境から逃げられない。40後半、相変わらずパッとしない。そろそろ先も見えてきた。世間の価値観からはどんどんズレていく。ひとり寂しさを感じている。

 

これを「無常」と勘違いしてたんですよね。なまじ瞑想とかしてるだけに「移り変わる世の中、はかない人の心がよく見えるのだ」くらいに思ってました。

 

自分で自分の目標を設定して、自分の独断で成功だの失敗だのの判断を下して。うまく行ってもいかなくても結果に執着して。そのつど「自分」が浮いたり沈んだり。それを「世界で起きていること」と錯覚している。

 

やってるのは全部「自我」で「無常」は何もしてないんですけどね(・ω・) ただ変わり続けてるだけで。人生がうまくいかないのを「無常」のせいにしてはいけない。

 

そしてそのことに気づいてないのが「無智」であり「無明」なんでしょうね。まさにティクさん言うところの「無智(無明)が不幸を生む」です。

 

 

むなしさを感じてるうちは、まだまだ自我が健在なのでしょう。「消化試合」がいざ始まると、勝ちに行ってるオレがいたり(´・_・`)

 

ティクさんの本でもう少し書けるかな? つづく、かもしれません。

 

「ブッダの瞑想」の元ネタは?

ブッダの瞑想」ことヴィパッサナー瞑想の合宿で気づいたこと、気になったことを書くにあたり、いくつか調べたいことがあったので、瞑想や仏教の本を読んでいます。日本ヴィパッサナー協会( S.N.ゴエンカ氏 )の他にも、ヴィパッサナーの流派って複数あるんですね。それぞれの流派や指導者で解釈が違い、面白いと思うと同時に疑問が深まったり。「結局、釈迦がやってた瞑想法って何だったの?」って。

 

どの流派(本)も「これがそうです!」とばかりにそれぞれの瞑想法と、根拠となる文献(経典)を挙げてくれてはいるのですが、どれも決定打に欠けるように思えます。それぞれの流派(著者)による「解釈」がまざっているというか。まあそれでいいというか、そうするしかないとも思いますけど。もともとの文献(経典)が釈迦の修行のすべてを網羅する形では残っていないようですし。そもそも現代のような「マニュアル本」の発想で記録されていないようだし。釈迦とその弟子の時代、「教え」は口伝えや謡(うた]の形式だったといいます。そうなると言葉を「理解」するというより、向き合った間合に漂うものや、音の持つ響きなどから、∑(゚Д゚)!!!と「気づく」かたちで「伝わった」教えもあるはず(以心伝心。質問に沈黙で応えたという「無記」もそのひとつだと思います)。

 

紀元前5世紀頃といわれる釈迦の時代から2500年以上経った現代、「現存する部分的な文献」を手がかりに「釈迦の修行」を再現しようとするなら、全体像として見えない部分、虫食いになっている空白部分は、やはり個人個人で、瞑想や八正道、戒の実践で起こる「気づき」をもって埋めていくしかないと思います(八正道や戒の厳密な実践は、出家しないと無理な気がしますが)。ヴィパッサナー諸流派の「それぞれの解釈」も、おそらくそういうプロセスを経て生まれてきたものだと思います。

「気づき」となると学問的には認められないでしょう。よくいえばインスピレーション、わるくいえば「論理の飛躍、破綻」ですし、「瞑想体験」という「100%の再現性がないもの」は事実(データ)として扱えない。そもそも瞑想の場である「意識」が科学的には「観察の対象外」です。

 

そうなると「(体験から得た)解釈」に誤りがないか、「客観的に」判断することはできないことになる。各自が「追体験」して「主観」で判断していくしかない。ただ何が「正しい」で何が「誤り」かという基準じたい言語化できないので、自分の主観が「正しい」かどうかは「瞑想をよくわかってる人」に確かめてもらうしかない。

 

それは結局「信頼できる指導者を持て」ということになるのかな。これまた主観的な。。。

 

 

そもそもの釈迦が「科学的に正しい」と証明された人ではないですからね。仏教という宗教行為を学問的に解釈しようとしたり、「科学的に証明された」とかのものさしを当てようとする方が「まちがってる」のかもしれない。

 

もちろん、自分が行なう行法の「元ネタ」である文献や経典には目を通しておくべきでしょう。漢訳や原典との比較もできるに越したことはないでしょう。

 

でもそれにも限度があるというか、文の解釈が目的になってしまったり、「文献にないものは受けつけない」みたいな原理主義になると、本末転倒な気がします。学者ならまだしも、行きすぎた学問的態度は、実践者にとってむしろ障害となる。すわらないことの口実にも。

 

いちばん良くないのは、頭で「わかって」しまうこと。知的理解で止まる。知的好奇心が一時的に満たされるだけ。

 

わからないこともあるけど、今はすわろうね(´・ω・)的な「大ざっぱさ」も大事だと思うんです。

 

いや、わからないからすわるんだよな。その答えは、ことばの中にはないはずで。

 

先日の合宿で聴いたゴエンカ氏の講話の中にも、初めて聴く話がいくつかあり、「釈迦そこまで言ってたっけ? 元ネタは?」と思いました。合宿中、ずっとぐるぐるしてたな。そこで冒頭で書いたように瞑想や仏教の本をあたっているのですが、今のところ見つかっていません。

 

そのへんはゴエンカ氏の「瞑想体験」にもとづく「解釈」なのかな?と思いつつ、何かの文献に元ネタが見つかるといいなと思い、同時に「見つからなくても、講話と同様の『体験』ができればいいな」と思ってます。

 

 

 

前置きが長くなりました。本当は元ネタ探しで読んでいた本のなかに、当初の目的とは違う「気づき」をもたらす一冊があったので、その話をしたかったのです(・∀・) つづく。

ずっと動かずにあるもの

ヴィパッサナー瞑想の合宿で感じたことを、考えがまとまった順に書いていこうと思います。

 

まずは時間の感覚について。

 

コースは正味10日間あって、1日最後のグループ瞑想の時間に「○日めが終了しました」とのアナウンスが流れます。

 

「1日めが終了しました」「2日めが終了しました」、まだまだ先長いなーって感じです。

 

「5日めが」「8日めが」、あーもう終わっちゃうな、やばいなって感じ。

 

なんかね、あれよあれよという間に終わってしまった。時間が経った感じがしなかったんです。場面場面では退屈や焦りを感じつつも。全体的には「不動」な感じ?

 

5日めくらいかな。「これひょっとすると、1日めから一歩も動いてないぞ」って思ったんですよね。終始ずーーーーーーーーーーーーっと同じところにいる感じ。

 

「変化」はしてるんですよ。ヒゲは剃らなかったのでボーボーだったし、シャワーは3日に一度で髪は重くなるし(ともに自分の意思で、コースの規則ではありません。毎日洗顔も入浴もできます。宿泊施設も清潔で快適です)。食事もおいしかったので、うんこもでるしね。

 

瞑想中に「足いてーなー、早く終わんねーかなー」とか。講話を聴いて「話なげーなー。校長先生の朝礼みてーだなー」とか。

 

体も心も「活動」してるし「変化」している。そのつど意識も「時間」を認識している。「なげーよ!」も「やっと終わった!」も時間のうちです。

 

だけど同時に「ずーっと動いていない感じ」がある。これは「退屈」とは違うんですよね。むしろ退屈からは最も遠い感覚です。「大きさのない中心」のようなものが全体的に感じられ、すべての感覚や出来事は、その中で表面的に起きては消えていく。

 

「1日めが終了しました」「2日めが終了しました」と消えていく。

 

「変化」はするけど「時間」は経たない。

 

瞑想が深まると、こころが静かになると、こころの動きが小さくなると、それがわかる。いつもは聴こえてないところから、ものがみられるようになる。

 

普段の生活では外側からの刺激や情報にこころごと「持っていかれて」、時間に流されてしまっているのでしょうが(そのおかげで時間ともに1日が展開していくのですが)、静かなところで毎日12時間すわり(コース中の9日間は「沈黙の行」で私語不可)、こころの動きが限りなく小さくなると、「ずっと動かないところ」「大きさのない中心」を感じるようになる。時間に流されず、とどまれるようになる。

 

この「ずっと動かないところ」を絵にしてみました。

 

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うーん、ちょっと違う。日づけが「1」から「9」に進んでいく連続性が、いかにも思考による後づけですよね。このやじるしの方向性が消えていたから、1日めが5日めになっても「ずっと動いてない」感じがしてたのに。。。

 

 

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これならどうでしょう? こころを時計にたとえます。こころは「針」のようにチクタクと動き、「1時だ」「35分だ」と、時間を構築してくれる。ふだんの意識が「針」の部分。

 

それが瞑想が深まると、針の根っこの「中心」を感じられるようになる。赤のココ!に意識が移っていく。普段なかなか自覚できない意識の深部。針がチクタク何周しようが決して動かない部分。

 

針は動き続けても、中心は動かずにいられる。時計を止めなくても、とどまっていられる。「動かない」からといって、「心が死んでる」わけでもありません。「中心」だって「針の一部」なのだから。変化とともにあり、時間から自由でいられます。

 

ヒゲはのびるし、うんこもでます。痛いと思ったり。退屈を感じたり。

 

その時その時でこころを働かせながら、「ずーっと動かずにあるところの」安心感とともにいられる。

 

写真で撮ることはできないし、言葉での表現もむずかしいのですが、この安心感を体験することは深い自信につながる気がします。自分の深い深いルーツを身をもって知る。

 

「社会での成功」とか「持ってる財産」とかの外的な要素に左右されない、根本的な自信。生まれたからには誰もが持ってる、本来の自信。

 

仮にどん底の環境にあっても、ここは何ひとつ変わらない。壊すことも汚すことも誰にもできない。この感じを知っておくのはでかいと思いますね。

 

外側の条件に依存しない「根拠のない自信」。その「ない根拠」を(時間を超えて)つかまえられるのが、瞑想や禅なのだと思います。

 

(2/24に一部加筆修正)

 

ヴィパッサナー瞑想の合宿

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千葉の茂原で行われているヴィパッサナー瞑想(日本ヴィパッサナー協会)の合宿に行ってました。2/7夜から2/18の朝まで正味10日間。これまで多くの方々がさまざまなところで体験記を書いているので、瞑想センターの様子やコースのあらましなどは今さら書く必要もないかと思います。

 

瞑想は即効的な効果が出るものでもないと思うし(早く効くものは効きめが消えるのも早い)、ヴィパッサナー瞑想について少し調べておきたいこともあるので、総括的な話も今すぐは無理かなあ。

 

とはいえ昨日ね、塩澤健一先生のヨーガに行ってみたら体がスッキリと動いたので、それはビックリしましたね。ガチガチだった股関節や脇腹が、過去最高の可動域と伸展性をみせてくれました。背骨もしっかり立ってくれた。自由度の高い体でやるヨーガって、とても楽しいんですね。

 

 

合宿では1日合計12時間、×10日の瞑想時間が与えられていたので、それはたっぷりとすわれました。ふだん家で朝晩15分とか25分すわるのとは全然違いました。禅やヨーガで培ってきてること、今の自分の力や見識で確かめられることは、ひととおり確かめることができたと思います。

 

やはりまとまった時間と集中、それを可能にする「外圧」って大事。片手間でひとりだと、どうしても甘く、適当になります。現状維持で精いっぱいというか。。。

 

コース終了前後に参加者の数人と意気投合し、深いところで話ができたこともよかったです。僕が歩めない人生を歩んでいる人たち。自分ひとりの目で見られることって限られている。時間としては半日に満たないほどでしたが、刺激的で新鮮な、新たな視点から世界を見聞することができました。

 

あと星空ね。山あいの、ビルもネオンもない空だから、星の数がすごいんです。申しわけ程度にオリオンが見える、東京の夜とはおおちがい。冬の星座、全部あったんじゃんって思いました。なくなるはずもないんですけどね。でもずっと見えずに暮らしていると、「なくなったんじゃないか?」って錯覚してしまう。あるはずのものを見失ってしまう。

 

星ってよくみると、近くに見える大きな光はチカチカとついたり消えたりしてるんですね。光と闇が、チカチカと息をしている。

 

できることなら、首を上げてずっと見ていたいと思いました。

 

枯れた花は「もやせるゴミ」?

黄色いバラなどの切り花をもらい、水をやり、部屋に飾っていたのですが、半月以上経ち花がしおれてしまいました。

 

花弁の中のおしべめしべや茎はまだ元気で、全体としてはまだ「生きている」ので、「もやせるゴミ」の袋に入れるのは気が引けました。数もあったし。ネギの切れはしやタマゴの殻はポンポン投げ込んでるんですけどね。切れはしや殻も、生きてるといえば生きてるのですが。

 

「土に還そう」と思い、大きな公園へ。害にならず、迷惑をかけず、景観も損ねないところを探して。

 

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どうでしょう?

 

不法投棄になるのかな?

 

花や小鳥なら埋めれるくらいの庭が、暮らしていくには必要なのかも。

 

 

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帰り道にも花や草木がありました。

 

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呼吸の容量が増える

ヨーガの成果だと思うのですが、最近みぞおちが開きました。

 

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今までグシャッと潰れてたのが、グググッと内側からのびてくる感じ。数年前、武術の稽古をしていた時も似た経験はあったのですが、今回は範囲が大幅に広がりました。前回がテニスボール大なら、今回はマスクメロンくらいの大きさ( ´ ▽ ` )ノ

 

みぞおちに伸びが出てくると、背筋もスッと伸びるんですね。くの字だったのがまっすぐに。呼吸の容量が増え、歩くのも息をするのも楽になりました。猫背の人、姿勢の悪い人も、背骨や背中の筋肉というより「腹」の力が弱いのかもしれない。

 

呼吸の容量がふえると、坐禅もスムーズに行なえる気がします。たっぷり息があると呼吸も乱れにくくなるし、自然と「静かで細い息」になる。禅定に入るまでの時間が短くて済むようになる。15分程度の短い坐禅でも「きっちり坐った感」が出てくる。荒い(粗い)息を整え、それにともない心の揺れもしずまってくるというのが、坐禅の最初のプロセスなので。

 

 

何かひとつに原因は特定できませんが、みぞおちが開き、呼吸の容量が増えたのは、ヨーガでやっている「ウディアナバンダ」の効果が大と思われます。

 

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前かがみで腕をつっかえ棒に上体を固定、アゴを鎖骨につけ「のどに栓をする」形で、息をみぞおちまで吸い上げます。しばらく止めて、ふわっとリリース。何度か繰り返します。

 

僕の場合は、やってるうちに胴体に「ボトル感」みたいな感覚が出てきました。気体が出入りするボトル。解剖学的に見れば胃や太陽神経叢、呼吸をつかさどる横隔膜や胸郭、肺のエリアとなるのでしょうが、体感としては空間性のある「ボトル」です。

 

ヨーガ的には、みぞおち、太陽神経叢のエリアは、エネルギーが集中する「チャクラ」のひとつと言われています(マニプラチャクラ)。シンボルは光り輝くヒマワリで、視える人には色つきでみえるのだとか。いいなー、面白そう。

 

みぞおちが開いた感覚、空間性、熱感みたいなものは、そのあたりに感じるんですけどね。色つきでは見えないなあ (´・ω・`)

 

星空

禅にかぎらず何でもそうだと思うのですが、始めた頃の動機とはまた別のテーマが、続けていくうちに出てくると思います。国民的マンガとなった『ドラゴンボール』も、最初は世界にちらばる球を集める「冒険マンガ」でしたが、いつしか魔族や宇宙人から地球を守るため「悟空がひたすら修行する」マンガとなっていきました。息子の悟飯が主役に推された時期もありましたが、いまいち盛り上がらなかったのは「悟飯は修行マニアではなかったから」。僕はそうみてるのですが、どうでしょう? あの世に行っても修行してましたからね、悟空は。

 

さて。僕が坐禅を始めた動機は「つらいので楽になりたい」「こころを強くしたい」といったものでした。その遠因が前回も書いた「両親との不和」で、坐禅を続けることで僕の心持ちも、親との関係も変わっていきました。

 

で、「気持ちを楽にする」とか「親との関係を改善する」とか当初の目的もいまだ継続中なのですが、そのための「手段」だった坐禅が、ある時期からそれそのものへの「目的」へと変化していったと思います。禅をきわめたい、深めたい。行くとこまで行ってみようと。

 

すわっているといろんなことを思い出したりもします。先生から与えられた公案や、リアルタイムで外の世界で起きていることと絡みあって、新たなテーマになっていったり。

 

去年のことですが、とある精神世界の勉強会に参加した時、「死」がテーマになって、僕にも発言の順番が回ってきました。その時に話した、小学3年の頃の記憶。

 

夏の臨海学校で夜、浜辺でキャンプファイヤーをしていたのですが、星がきれいで空を見ていたら「ああ僕も死んじゃうんだ」って思ったんですよね。

 

無邪気にはしゃいでる友人たちも、みんな死んでしまうんだと思いました。

 

ここで、ハア?と言われそうですが、星空になぜか、『あしたのジョー』の力石の顔が浮かんでたんですよね。さみしそうに笑って、消えていきました。

 

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音のない空。地上にひとり。何かが決定的に変わってしまった。

 

その日を境に僕は沈みがちになり、「ママ、死なない薬発明されないかな?」と母親に相談したり、本棚の『家庭の医学』をこっそり調べたり。頭の中は「死ぬ死ぬ死ぬ!」の大合唱ですよ(>_<) しばらくして「えらいお医者さんがそういう研究してるって、ラジオで言ってたわよ」とか母が答えてくれたっけ。ヒステリックな人だったけど、いいとこもあるじゃないですか。

 

こうして思い返すと、いろいろと突っ込むとこはありますね。「小3までお前、死なないと思ってた?( ゚д゚) とか。うん、そうみたい。というか「死」が何なのかわからなかったというか「知らなかった」のだと思う。

 

いくつかの死に出会ってはいました。はじめて飼ったペットのジュウシマツ。おばあちゃん。そして力石。

 

ジュウシマツはたぶん最初の「身近な死」です。かわいがってたから。友達だったから。キューキュー鳴いて、鳥かごを飛び回ってたのが、ある日動かなくなっていた。何が起きたのかわからなかったけど、「元に戻らない」ことはわかりました。つめたさ。さみしさ。目の前の動かない体と、昨日までの記憶にギャップがありすぎて、どうすればいいかわかりませんでした。母にうながされ、庭に埋めてお墓をつくりました。たぶん最初の「死んだものを見送る」経験でした。

 

おばあちゃんは、お棺に入れる前の布団で横たわってる時に、体をゆさぶった記憶があります。「おばあちゃん!」って。死に顔は覚えてないけど、呼びかけてもゆすっても、動かなかったのを覚えています。僕も、まわりの人も、泣いていたのをおぼえています。

 

そして力石徹。『あしたのジョー』のライバル。架空の人物です(・ω・)。だけど死にざまが壮絶でした。過酷な減量でガリガリにやせ細り! 死闘の末にジョーをKOし! そして試合後に悲劇が…。宿敵だった力石を認め、握手を求めるジョー。力石もほほえんで応えようとしますが、ジョーの手とすれ違うように前のめりに倒れていきます。。。

 

当時TVアニメが放映されていましたが、みんなで真似しましたね。「あしたのジョーごっこ」の最後で、力石役が前のめりに倒れる。そのままいくと顔面を強打するので、みんな膝で着地してましたが(笑)。あれはいま思えば成長期の少年が「死」を共有する儀式だったのかもしれません。それくらいに力のあるマンガとキャラクターだったんだなあ。

 

しばらくして、臨海学校の夜空に出てくるほどに(笑)。僕の中で「死を理解する」タイミングだったんでしょうか?

 

 

 

あらためて、「死」って何でしょう?

 

幼い僕の記憶をたどると、ジュウシマツとおばあちゃんが「動かなかった」時、親から「死」というよくわからない言葉を聞かされ、強い印象で焼きついたと思うんです。

 

他にもいちいち覚えてないけど、生活の中であふれていた「死」の情報? 殺人事件や死亡事故のニュース。ワイドショーとか。ガーン!の効果音やショッキングな映像も含めて。それら無数の記憶が意識下に沈澱し、知らず知らず「死のイメージ」が形成されていった。基本的にこわいもの悲しいもの、おどろどろしいものとして。『フランダースの犬』の最終回もショックだったなあ。ネロとパトラッシュが天に召される場面は美しく、そこだけ見ればあたたかいですが、そこまでの展開が寒すぎますよね。。。

 

いずれにせよイメージ。それらはあくまで「イメージ」だったのに、どこかで「死そのもの」のように勘違いしてしまった。実体があるかのように。自分の死を経験したかのように。人って、ほっとくとそうなるように出来てるのかもしれない。経験したのは「他者の死」で、その記憶を持ち歩いてるだけなのですが。

 

僕に「死」の説明をした、親などの大人にしても同じことだと思います。子どもの頃、まわりの大人から聞かされるままに、死とはこういうもの「ということにして」育ってきた。その親もそのまた親も、代々みんなそうしてきた。

 

人にとって「死」とは言葉とイメージだけの存在で、その実態は「よくわかってない」んじゃないでしょうか?

 

でもわかったつもりでやりすごしている。たまに思い出して不安になる。「死んだらどうなるんだろう?」って。

 

前述の勉強会でもそうだったのですが、多くの人が「死んでみないとわからない。でも、たぶん死ぬと真っ暗で何も無くなる」と考えているように思います。天国も地獄もない。理性と科学の時代を生きる現代人には、「真っ暗で何もない」が一番信用できるイメージなのでしょうか。

 

 

でもなんでみんな「真っ暗で何もない」って言えるんだろう? その根拠は何なんだろう? 科学的に証明されてるわけでもないのに。

 

 

「まっくらで何もないところ」は、どこにある?

 

遠く? 近く?

 

つめたいところ? あたたかいところ?

 

 

 

いくら考えても答えは出ません。

 

。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

坐禅では息をかぞえてすわることで、思考から離れたところに戻ります。ものごころついてから頭の中でこしらえてきた、いろんな「イメージ」や「思考回路」がばらけていく。今回の僕の例でいえば、小3以前の「死を知らない」状態に一時的にもどるようです。どうやら、すわってる時はそうなってる。

 

あのとき見てた星空? 

 

 

「死ぬのがこわい病」にかかった小3の夜。そのままメソメソと死んでいくのかと思ってましたが、いま禅の修行をしてることはいいクスリになってるのかもしれません。「死」はどうやら「不治の病」ではない。

 

治ったら「あの世で修行」できるかもしれねえぞ。 なっ!