息をかぞえて

禅・こころとからだ

ティク・ナット・ハン『ブッダの <気づき> の瞑想』

前回からの続きです。ヴィパッサナー瞑想の合宿で聴いたゴエンカ氏の講話。心身の感覚と瞑想の仕組み、その関係性について初めて聞く話があったので(今後の修行に希望を与えてくれる話で、驚いたというか嬉しかったので)、その元ネタを知りたくて仏教や瞑想の本を調べている、という話でした。

 

いつも本を漁る時はアマゾンで調べて、まずは吉祥寺のジュンク堂書店に行きます。品揃え豊富だし、ベンチに座って立ち読みできるし。1000円以下の文庫や新書ならまだしも、専門書は2000円、3000円しますからね(>_<)

 

ただ一冊全部を読み切るのは「緩慢な万引き」みたいで気がひけるので、じっくり読みたい時は国会図書館へ。一度に3冊しか借りれないし、本が来るまで20〜30分かかるけど、国内の本はほぼ全てあります。

 

で、パラパラパラと元ネタ探しをしてたのですが、ハッと手が止まりました。

 

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ティク・ナット・ハン『ブッダの <気づき> の瞑想』の一節。当初探していた情報とはまた違うのですが、それ以上にいまの僕に必要な言葉がありました。実はこの本、数年前に一度買ってて、ブックオフに売っちゃってたんですよね(´Д` )。「なんだ、そんなこと全部知ってらあ」とその時は思いました。

 

ティク・ナット・ハンのことも「マインドフルネスの人?」くらいの認識でしたが、臨済宗の禅僧だったんですね。僕も禅から探求を始めているので、親しみや信頼感もわいてきます。

 

 

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「心の解放(解脱)とは、 人生から逃避したりそれを台無しにすることではありません。仏教とは人生を否定する教えだとか、物質・感覚・認知・思いの形成・意識という五蘊の世界を超越することだという人が少なくありませんが、そうした主張は、いのちは無でありすべては無価値だと悟るために修行があるというのと同じです」 (p104)

 

いやあ耳が痛い。ついハマっちゃう落とし穴なんですよね。虚無主義ニヒリズム。すべては移ろい、人生に意味はない。いつか死ぬならさっさと消えたい。自分もすっかりハマってました。

 

「苦しみの原因は、人生や五蘊やあらゆるものの無我・縁起の性質ではなく、私たちの無智(無明)が不幸を生むのだということです。人は無常、無我、縁起こそがいのちの本質だと理解できずに、存在するものは変わらないと思いこみ、物事に執着します。(中略) 無常、無我、縁起を否定してしまうと、生きることは不条理で受け入れがたいものになるでしょう」(p105)

 

ティクさん、オレが見えてるのか? (;゚Д゚) くらいに、最近の僕、まさにそんな感じでした。「世の中どんどんおかしな方向に進んでいくなあ。おれも無駄に年とるだけだし。この先の人生、消化試合みたいなもんだ」と。

 

瞑想してる時やヨーガを教わってる時はいいんですよ。いのちに戻ってる実感がある。赤ん坊のころから変わってない感覚。みる、きく、ふれるがはっきり分かれてない、あたたかいぬくもり。

 

でもそこからまた日常に戻らないといけない。くたびれてきたこの体、この環境から逃げられない。40後半、相変わらずパッとしない。そろそろ先も見えてきた。世間の価値観からはどんどんズレていく。ひとり寂しさを感じている。

 

これを「無常」と勘違いしてたんですよね。なまじ瞑想とかしてるだけに「移り変わる世の中、はかない人の心がよく見えるのだ」くらいに思ってました。

 

自分で自分の目標を設定して、自分の独断で成功だの失敗だのの判断を下して。うまく行ってもいかなくても結果に執着して。そのつど「自分」が浮いたり沈んだり。それを「世界で起きていること」と錯覚している。

 

やってるのは全部「自我」で「無常」は何もしてないんですけどね(・ω・) ただ変わり続けてるだけで。人生がうまくいかないのを「無常」のせいにしてはいけない。

 

そしてそのことに気づいてないのが「無智」であり「無明」なんでしょうね。まさにティクさん言うところの「無智(無明)が不幸を生む」です。

 

 

むなしさを感じてるうちは、まだまだ自我が健在なのでしょう。「消化試合」がいざ始まると、勝ちに行ってるオレがいたり(´・_・`)

 

ティクさんの本でもう少し書けるかな? つづく、かもしれません。