息をかぞえて

禅・こころとからだ

相手にせず、邪魔にせず。

坐禅中やってくる雑念に対して、「相手にせず、邪魔にせず」ということが言われます。青木先生が何年も口ぐせのように言っているので、僕の中でも当たり前のこととして定着してきました。

 

日によって雑念の多い時少ない時、気になる時気にならない時があるので、最近は雑念まみれの坐禅でも(気持ちはよくないけど)「まあいいか」と思えるようになってきました。そういう時もあると。

 

雑念にまみれていても呼吸に専念することが大切で、それができていれば、そうあろうとする気持ちがあれば、とりあえずは良しとしようと。

 

どんな雑念も必ず消えていくのに対して、呼吸は決して途切れないですからね。

 

で、ずっと思ってたのですが、坐禅で雑念を「相手にせず、邪魔にせず」扱う習慣がついてくると、日常生活でも応用ができるようになってくるんですよね。

 

目の前で起こる出来事に対しても「相手にせず、邪魔にせず」と感情のコントロールができるようになってくる。

 

無視する、無関心でいるとは、ちょっと違うんですよね。感情の発露を無理矢理ガマンする、とも違う。状況も感情もきっちり把握しながら「待つ」ことができるようになる。

 

その気になればいつでも動ける状態なので「テンパる」ことが無くなってくると思います。

 

数年前まで僕もそうだったのでよくわかるのですが、思うようにならないと大声を出してブチ切れる人。テンパってて余裕がないんですよね。目の前しか見えてない。ここ最近で2人目撃したのですが、「みすぼらしい」というか、みじめな感じがしました。怒りというか、当人が伝えたかったはずの(言葉でも表現できる)思いは相手に伝わっていないんですよね。ただポカンとされてるだけ。逃げられてるだけ。それじゃまったくのキレ損じゃないですか? 「トイレに行きたい」と言えなくてウンコもらしちゃった子供を見てるようで、せつない気分になりました。

 

歩きスマホでぶつかってくる人とか、お相撲さんのゴタゴタとか、売るだけで修理をしないコンピューター会社とか、カチンと来ることはいろいろとあります。おかしいものはおかしいしダメなものはダメだけど、いちいちキレてたらきりがありません。

 

怒ってばかりいると、いいことが起きていても見つけられなかったりしますしね。

 

とある坐禅会

ひさしぶりに見ず知らずの坐禅会に行ってみました。寺や禅堂ではなく、外国人のカトリック神父さんが主宰されている会です。

 

カトリックの「空気」ってあるのだなあと思いました。場の空気ね。やわらかいヴェールで包まれているような。ただ静かなだけではなくて。すわっていると、その空気が乗り物のように運んでいってくれる。禅定とか瞑想のあるところに。だからよくすわれるんです。

 

いつもの聖心会の坐禅会で感じている空気と、同じ感触のものを感じました。

 

お寺にはお寺特有の空気があって、神社には神社の空気があるように、カトリックにはカトリックの空気があるんですね。僕はカトリックではないけど、カトリックの空気はしっくり来るみたいです。荷物を下ろせる感じ。お寺や神社にはちょっとない感覚です。

もちろん、どこでも一緒というわけではなく、そこを管理しているというか、その場所を守ってきた人びとの心のありようが、その場に反映されているのだと思います。

 

神父さんは物静かですが、瞳の輝きが深く優しい人でした。青いみずうみのよう。

 

坐禅の後にはささやかなお茶会があって、シュトーレンやチョコレートでもてなしていただきました。もうすぐクリスマスですからね。

 

ひとりずつ簡単な自己紹介をしたのですが、みなさん、それぞれに切実な想いをもって坐っているのだなあと思いました。坐禅中はだまって坐っているので、知る由も無いのですが。みんな、なかなか大変だ。

 

キリスト教の場所、ということも影響してるのかもしれませんが、坐禅ってやはり「何かを得る」ものではなく、むしろ放棄する、「重荷を下ろす」ものなんだなあと。こころや状況がつくりあげた重荷をおろしていく。

 

だから「ここまでやればオッケー」というのもなくて、日々続けていくものなんだと思います。

ヨーガの成瀬雅春先生

いま発売中の月刊秘伝1月号で、ヨーガの成瀬雅春先生の対談記事を構成しました。成瀬先生といえば「空中浮揚」。すわったまま1メートル近く宙に浮いてる写真がその昔週刊誌に載ったとかで、オウムの麻原やストⅡのダルシム江頭2:50など、良くも悪くもさまざまなフォロワーを生み、「ヨガ=怪しいもの」というイメージを生んだ張本人だと思っていました。

 

なので僕の中ではずっと「要注意人物」のひとりだったのですが、実際にお会いしてみると、いろいろな意味でパブリックイメージと違う方だったので、「マスコミの情報ってやっぱり信用できないなあ。自分で確かめてみないとわからないなあ」との思いを新たにしたのでした。

 

この日の取材では空中浮揚はなかったのですが、いわゆるハタヨーガの呼吸法を見せていただいて、それが十分に凄かったんですね。この人、めちゃめちゃ真面目に修行してるじゃん! 「秘伝」にも写真が載っていますが、激しい鼻呼吸から息を止める「バストリカ・プラーナヤーマ」。

「息をこらえてる」んじゃなくて、「止まっている」んです。息だけじゃなくて全身が。ピタッと。いやスッと。うーん、表現が難しい。ふさわしい擬音がちょっと見つからない。「止める」んじゃなくて「止まる」ってこんな感じなんだな、初めて見るわ。って感じの止まりかた。デジタルの動画を一時停止したような感じ。薄皮一枚、成瀬先生の周りだけね。部屋全体の空気は、相変わらず動いてるんです。

 

この状態で瞑想や坐禅をしたら、さぞやよく坐れるだろうなと思いました。止まった状態、「止」の状態。瞑想では「止観」ということが言われて、「止(サマタ)」「観(ヴィパッサナー)」と便宜上分けたりもします。波立つ意識を何かに集中させて「止まった」状態にして、水鏡のようにそこに映る想念を「観ていく」と。

「止まる」も「観る」も呼吸上というか意識の内側のテクニックだと思っていたので、「見える化」はできないものだと思い込んでいました。だけど呼吸が(きちんと)止まれば、それは身体上にも「静止」として現れ、それに伴い意識のさざ波もしずまっているのだろうなと。

 

坐禅中に、我慢くらべみたいに「ジッと動かずにいる」のとは明らかに違うんです。それってそれこそ「グッと息をこらえて」全身を緊張させてるだけで。むしろ雑念を増殖させるだけというか。

 

こころを調えるには、まず体からなんだなあと痛感させられる成瀬先生の呼吸法でした。

 

「あの人、心の広い人だねとか言うけど、心が広いとか狭いって、どうやって測るの? 物の量が多いとか少ないというのとは違うじゃないですか? じゃあ、どこまで広くたって構わないわけですよ。人間の意識領域というものは、どこまでも拡げられるんです。可能性としてね。だから瞑想する必要があるし、『いっぱいまで自分の意識を拡げる』という表現も出てくるんです。『宇宙の果てまで行ってきた』っていうのも、意識をそこまで飛ばして戻って来る、ということなんです」(成瀬雅春・談)

 

取材中には「空中浮揚」やそれの動力源だという「クンダリニー」エネルギーの話題も出てきましたが、成瀬先生は淡々とした様子で多くを語らず。なんというかご本人的には他人事というか遠い過去の出来事といったご様子で、もうそういうの飽きたんだよ的な印象を受けました。

クンダリニー開発は今も指導されてるようですけど、「基本はハタヨーガをコツコツやることですよ。でもみんな地味な事はやりたくないんだよね(笑)」とおっしゃってました。

 

順番前後で恐縮ですが、上記のバストリカ・プラーナヤーマで激しい鼻呼吸を成瀬先生が行なってる際、足元がグラグラ地震のように(震度2くらいの微震ですが)揺れる体感があって、ビックリしたなあ。2メートルくらい離れたところで動画撮ってたんですけどね。

同行の編集者に後で電話で話したらおもいきり黙られたので、感じていたのは僕だけ?

 

と、「半分目に見えない世界」を語っていくのは難しいなあ。手がかりとなる自分の体感を、まずは信じるしかないと思うんですけどね。

Imagine no possessions?

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ジョン・レノン「イマジン」に"Imagine no possessions"という一節があります。「所有できるものはないのだと思いなさい」といったところでしょうか。歌の原案者といわれるオノ・ヨーコ風にいうなら。ヨーコさんの著書を見ると、幼いころに仏教を学んだとの記述もあります。他にも「ネコが話しかけてくる」「私は草に話しかける」など、なかなかぶっ飛んでるお方のようです。

 

さて「所有できるものはない」。そうですね。坐禅の後って、ふとした気づきが何かしらあります。すわってる最中は自我が起こりにくくなっているようで、そこで「ふだん自我とくっついてる価値観」が、はらりとはがれてるのかもしれないですね。

 

一歩町へ出るとまた自我で暮らしていくので、ベッタリと「我の強い人」にもどってしまうのですが。。。

でもわずかに違っている気もします。ガムテープでも一度はがしたら粘着力よわくなるじゃないですか? またくっつけられるけど、前ほどしっかりしてはいない。坐禅と日常生活の繰り返しで、自我というガムテープが何度もはがされていくのかもしれません。

 

「自分」という存在が前ほど「絶対」とは思えないので、それが損なわれた時に「自信をなくす」ことも減ってきてると思います。以前はささいなことでもドーンと落ち込んで、自意識過剰すぎました。

 

さて「イマジン」からの「所有」の話です。これは一昨日の坐禅明けの話なのですが「自我、つまり私という存在が思い込みの産物だとしたら、所有なんてできないよな」と。「自分」という所有者が、(社会生活を送るうえでの便宜的な)仮のものだとしたら、「自分のもの」という所有物もなくなるよなと。所有者がいないのだから。所有権とかもあくまで社会の契約上「だけ」の話で。

いや、実はひとつそのまえに「人は人を所有できないんだ」という別の気づきがありました。「イマジン」の"possessions"は物や土地、財産なども含む「所有、所持」全般を指していると思いますが、一昨日起きたのは「誰も他人を所有できないのだ」という気づき。これが今日の本題です。

 

たとえば恋愛でも、お互いの気持ちが相手だけに向いているうちは「相手をものにした」気分になっていると思います。その反対に「自分という存在を相手に捧げる」タイプの人もいるでしょう。いずれにしても「ひとつになっている」というか。心も体もひとつになれる、みたいな。

親が幼い子に対して抱く感情にも、これはあるでしょうね。ぐずったりもしますが、幼な子ってほぼ自分を全肯定してくれるから。「目に入れても痛くない」という言葉もあります。自分の体と同化できるくらいの気持ちなのでしょう。

 

自分よりも大切に思える誰かがいる。それはとても素晴らしいことで、そういう瞬間に出会うため、人は生きているのかもしれません。

 

この時の感動を忘れずに、変わっていく相手とか成長していく子供と、そのつど最適な関係を築いていければいいんだけど、なかなかむずかしいですよね(´Д` )。それは理想論で、現実は「一番良かった頃の相手」というキラキラした思い出にしがみついてしまう。思い出ありきで(今の)相手を見て、従来のやりかたで進めようとする。時間とともにうまくいかないことが増えてくる。え、なんで?となる。こんな人だと思わなかったと。そんな子に育てた覚えはないと!

それは相手を人というより物扱いしてるからというか、「オレだけのお前!」「ワタシだけのあなた!」といった思い込み、つまり「所有」の概念にとらわれているからではないか。

 

自分がやってる時は気づかないんですけど、やられる側になるとよくわかりますよね(笑)。「あなたのためを思ってって、それ自分のためだろ(´・_・`)」って。誰にも覚えがあると思います。そんなこと頼んだおぼえないぞって。

 

一度手に入れた相手を失なう恐怖もありますね。そのために相手を縛って、さらに失なう方向に進んだり(>_<)。子供の自立を阻む親もそうだな。

 

やっぱり「自分」という思いから起こる「所有」の概念のしわざだと思うんです。「この人は自分のものだから自由に扱っていい」と。「自分のやりかた」で。そうしてこちらの「自分」とむこうの「自分」がぶつかる時、衝突が起こる。

愛が憎しみに変わると「そっちがそういっただろう!」とか相手を「そっち」呼ばわりしたりね。もはや人あつかいしてないです(笑)。その時は自分も「こっち」になってるのですが。そこにはなかなか気づかない。

 

自分で自分を見るのって、できないというか普通の状態では難しいから。

 

坐禅はさいしょ呼吸に意識を向けることによって、ふだんベッタリくっついてる自我と距離をおくことができます。くり返される呼吸に命綱のようにつかまって「自我が起こるさま」を見ることができる。自我から離れることで、自分が見えてくる。

 

思い出したくもない、目を背けたくなるような自分も、わりと落ち着いて見られる気がします。

 

「変わったのは相手だけでなく自分もだなあ。いまも考えコロコロ変わってるもんなあ」とかね。ひと呼吸ごとに違った、矛盾した考えが浮かんでくるのを見ると「一貫した変わらない自分」なんてどこにいるの?って思います。さまざまな考えを都合よく「編集」して「理想の自分」をでっち上げてるだけじゃないのか?って。

 

自我の起こるさまを完全に見切れるようになると、タネがばれた手品のように、もう二度と自我にはダマされなくなるともいいます。「私が〇〇している」とはすべて錯覚だったと。思い込みの中にだけ「私」は存在していたと。

 

こうなるには「命綱」をうっかり手放す必要があるようです。まだできてないんですけどね。坐禅中、自我を手放してるつもりでも、呼吸や身体感覚に巧妙に「偽装」した自我にしがみついている。今度は呼吸や身体感覚に執着している。なんだかんだでまだ、自分を「所有」していたいのだろうなあ。全部手放すの、こわいもん。

 

 

 (追記) 

この命綱を手放せると「イマジン」の歌詞も「夢想家」のものではなくなるかもしれません。「自分」がなくなれば「天国」も「地獄」もなくなる。経験主体の自我がないのだから上下の区別も差別もなくなるはずです(完全な自我喪失を体験したわけではないので推測ですが)。

いっさいの自他の区別がなくなれば、我々(自分)の上にある「空(そら)」と我々の下にある「大地」、それらの境い目も消えてなくなる。そこから新たに世界を構築していくのが禅修行の後半戦だとも聞いています。

そうなった時「イマジン」という歌も、よく言われる「現実離れの甘い理想論」などではなく、全然違った聴こえかたをしてくるのかもしれません。ネコや草と話のできるヨーコさんのように。常識を信じて疑わない人には、怖い歌かもしれないですよ。

ウーフはウーフでできている

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練馬区ちひろ美術館でやっている、故・井上洋介先生の展覧会に行ってきました。子供の頃から読んでた「くまの子ウーフ」の原画をたくさん見ることができました。ウーフの絵が、青い色づかいのものが多くて意外でした。にこやかで、ゆかいで、とぼけてるけど、ブルーなんです。

 

ここからは物語の話になりますが、ウーフって「あそぶことが大すき。たべることが大すき。そして、かんがえることが大すき」なんですよね。好奇心いっぱいなんです。物語ではウーフのさまざまな「どうして?」が描かれます。

 

「ウーフは おしっこでできてるか??」のお話では「ぼくは、何でできているのか?」という禅や哲学にも通じる問いかけがなされます。「私とは何ものか?」と。

 

小学2年対象なので、むずかしい言いまわしはないですけどね。こんな感じです。

 

「ねえ、ツネタくん。めんどりはなんでできてるか、あてたらえらいよ。」

「そんなこときまってら。めんどりは、ガラと肉とはねでできてるのさ。しらなかったのかい。」

 

ツネタはウーフの友達なんですけど、キツネなのでずるがしこいんです。ニワトリは骨と肉と羽でできていると。リアリストですね。めんどりは毎日たまごを産むから、たくさんのたまごが体じゅうに入ってて、だからめんどりはたまごでできてるの!というウーフに、「すると、きみはいったいなんでできてるんだい?」とツネタは聞き返します。

ここからのツネタが憎たらしいんです。「めんどりはたまごをうむ。けれど、ウーフはうまないよ。うまないかわりに、からだからだすのはおしっこさ。はは、ウーフはね、おしっこでできてるのさ。じゃ、このたまご、もらってくぜ。ばいばい。」

 

ウーフがめんどりからもらったばかりのタマゴを、ツネタはかっさらっていくのでした。おいかけて転んだウーフの膝からは血が。痛くて涙もこぼれます。ここでウーフが、

 

「あっ、ちだ。」

 

とつぶやくのですが、ここの描写、僕大好きなんですよね。子供が自我にめざめる瞬間をたった六文字で、これだけありありと描けるなんて本当にすごい。一番最初に教科書で読んだ時、バッと焼きついた記憶があります。

 

もちろん「血」も「涙」も「おしっこ」も、どれも「私」ではありません。でも「自我にめざめる出来事」って、この「あっ、ちだ。」的なできごとだと思うんです。誰にとっても。小学生の頃、自転車で転んで、すりむいて、血が出た時の、あの感じ? 傷口にツバをつけたら、しみた。血をなめたら味がした。サビみたいな味がした。

そういう「はじめての経験」の積み重ねで、こころの動きを知っていく。からだを我がものとしていく。そこに「ぼく」「わたし」という自我が育っていく。

 

ただ、そうやって築いてきた「自分」って結局何なのか?

 

銀行員? 主婦? 日本人? いやいや、そういう「肩書」や「役割」や「属性」じゃなくって。。。と改めて問いかけていくのが、坐禅なんだと思います。

 

「自分とは、この肉体だ!」

 

うん。よくある答えで、僕もいまだに「この胸の鼓動が生きてる証拠だ!」とか思ってしまうんですけど、「肉体」も「感覚」も「自分」ではないんですよね。それだと「おしっこでできてるのさ。」のツネタと変わりません。

 

ちょうどいま取り組んでいる公案で、ここのところを聞かれています。 「手をもがれ、足をもがれ、首をもがれ、胴体ももがれた時、お前はどうなる?」と。

 

五体が消えた時、そこに残るものは???

 

 

 

くまの子のウーフはお話の最後で「ウーフは、ウーフでできてるんだよ」と、おしっこでも血でも涙でもない「ぼく」をみつけます。「いたいと思ったり、たべたいと思ったり、おこったり、よろこんだりする」ぼくに出会います。

 

じゃあその「ぼく」とは何ものなのか? 「ウーフでできているウーフ」とは、どこからきて、どこにいるのか? 取り出して見せることはできるのか?

 

大人になっても「どうして?」は続きます。これは頭で考えても出ない答えなので、さあ、すわらなくちゃ。

 

ねえウーフ、ぼくってなんなんだろうね?

たのしそうな修禅寺

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静岡の修善寺温泉に行ってきました。東京でも温泉の出るスーパー銭湯にはよく行くのですが、お湯の「度数」がやはり全然ちがいますね。発泡酒芋焼酎くらい違います。修善寺の湯は濃くて熱くて体の芯に来ます。おかげで疲れがすっかりとれました( ´ ▽ ` )ノ

この温泉街の真ん中に「修禅寺」というお寺がありまして、弘法大師こと空海が開いたと言われています。のぞいてみたらなかなか個性的なお寺だったので、写真をカシャカシャ撮ってきました。上の2枚は神社でおなじみの手水場ですが「大師の湯」と。「飲むことができます」と。

 

チョロチョロ出てる水にふれてみると、これが温かい! ふつう手水は冷たいので面食らいますよ。しかもわざわざ「飲めます」と。せっかく来たんだろう? 飲んできな!と言わんばかりの、おもてなし感。ふつうここって「浄めの場」のはずですが、「温泉街なんだからいいじゃないか」くらいの寛大さというかな。空海イズム全開というか。そもそも修善寺温泉じたいが、空海が掘り当てたと伝えられてるんですよね。一説にはうどんを発明したり、鍼灸を中国から持ち帰ったり、刀の上を歩く大道芸を持ち帰ったりと、空海ってよくわかんないけど楽しそうな人です。

 

と思っていたら今はここ、空海真言宗じゃないんですね(´Д` ) 後に臨済宗となり、曹洞宗となり、今では曹洞宗の禅寺となっているようです。それにともない寺号も「修禅寺」になったと(地名は修善寺のまま)。なんですけど今でも護摩を焚いて祈祷をしたりと真言宗の伝統も残してるようで、うーんカオス。

禅寺といえばモノクロの質素な印象があったので、なかなかのカルチャーショックでした。おみくじまでありましたしね。

 

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マインドフルネス瞑想のイベントも行なっているようで、地元だったら行ってみたかったです。ウェブを見てみたら、住職さんが殺処分になるところだった柴犬を保護した話とかも出てきたり。。。U^ェ^U

 

古くからの、ありがたい教えもいいんですけどね。

 

さとりや解脱という大きな目標をもって坐禅に励むことも大事だけど、ちいさな命を救うとか、イベントをひらくとか。そういう現世的なことを実行してくことも、とても大事なんだなあと。このお寺、地蔵や石仏のセンスもとても良くってね。参禅したわけではないけど、楽しいひとときをすごすことができました。

 

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「無門関提唱」山本玄峰

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Amazonで古本を入手しました。箱無しということで相場の半額くらい。本そのものは書き込みも汚れもなく美品です。いい買い物をしました。箱を読むわけじゃないですからね。

 

「無門関」とは公案集で、「提唱」とは公案についての解説みたいなものです。本書は、山本玄峰老師が昭和30年から33年にかけて三島の龍澤寺で行なった「無門関」の提唱が再録されています。

 

いままで手にとった禅の書籍で圧倒的に一番です。言葉がどんどん入ってくる。昔の人の言葉なのになぜか全然古くない。「禅の修行って、公案って、そういうことなんだな!?」の連続です。でもだからといって、すべてをすぐには呑み込めないのがまた凄いところ。問いが問いのまま、ずしんと残っていきます。知的な理解を許しません。

 

 

だからレビューが書けない(笑)。

 

 

指導者について坐禅はしてるけど、公案がいまいちピンとこない人、漢文が漢字だらけで苦手な人(僕です)に絶対おすすめです。生きた言葉がダイレクトに入ってきます。こういう本は絶版にしちゃいけないと思うな。

 

ちょうどいま青木義子先生のもとで「無門関」をやっているので、最高のタイミングで出会うことができました。 

 

本っていいですね。いまは直接会えない人でも、目の前にいるようです。