息をかぞえて

禅・こころとからだ

うなぎと禅


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やぼ用で静岡県三島市まで行ってきました。浜名湖も近いことだし、用がすんだら「自分へのごほうび」でうなぎでも食べようと。

 

三島ってコロッケがご当地グルメなんですね。「みしまコロッケ」ってハート形のコロッケ。コロッケを売ってた肉屋のおばちゃんにオススメの鰻屋を聞いて、教えてもらったのがここ「桜家(さくらや)」さん。なんたって創業安政三年です! 安政の大獄井伊直弼の時代から?(゚o゚;;

 

もうね、こんなおいしいうなぎ、はじめてでしたよ。

 

箸をあてると通るんです。「スッと切れる」どころじゃないの。「通る」んです。でね、ふんわりとした上品なうなぎって物足りないことも往々にしてあると思うんですけど、ここのは食べでがあるの。ほどよく脂がのってて、ガチムチではないけど、ほどよい密度で身が詰まってるんです。

 

ああしあわせ*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

 

なまぐさくないしね。小骨もちょびっとあるけど、小骨までやわらかい。どーなってんだ!

 

すっかり食レポになってますが続けさせてください(・ω・)ノ 山椒がねえ、またこんなの初めてで。青い刺激が鼻にスッと来るんです。でも舌にはしびれすぎないの。うなぎのうまみ、タレの照りだけを引き立ててるんですよね。箸がすすむこと。

 

三島のみなさん! いいもの召し上がってますなあ(T . T)

 

建物も歴史を感じさせる木造の二階建てで、若山牧水の生原稿など飾ってあります。ひいきにしてたのかな。で、ここからが本題です。

 

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達筆すぎてよくわかりませんが(´Д` )、左に「玄峰」とな?

 

まさかと思いましたが、三島といえば臨済宗(りんざいしゅう)の龍澤寺(りゅうたくじ)があったかも。龍澤寺といえば、かの玉音放送にも影響を与えたという禅僧・山本玄峰(やまもとげんぽう)老師が住職をつとめていたような。

 

お店の方にたずねてみたらビンゴでした。

 

こういう(なんでもかんでも結びつける)物言いはアレですが、これって「仏縁」とか「坐禅の功徳」ってヤツですか? m(_ _)m  おれもよく気づいたわ。

 

こういう思いがけないことが起こるから旅って面白いですよね。桜家さんの隣、曹洞宗の寺だったし。

 

 

頭ではわかってるんですけど?

 いけないことだと頭ではわかってるんだけどやめられない、受け入れられないことってありますよね。飲むと変わるのに飲んでしまうとか。既婚者どうし好きになっちゃったとか。

僕のばあいブログに書けるのだと、最近は夜のポテトチップスとカップラーメンがやめられないです。ストレス解消のヤケ食いですね。坐禅してるくせに!

おかげさまでお腹もずいぶん出てきて、このままじゃいけないと頭ではわかってるけど、パリパリチュルチュルといってしまいます。スーパーやコンビニに行くと新しいのが並んでるしね。どれにしようか迷っちゃう(≧∇≦)

 

そもそものストレスをなくすには、ストレスの原因となっている出来事をなんとかするしかないんですけど、そう簡単には解決しないしねえ。。。

 

問題の解決にむけて長期的に取り組んでいくには、日々の坐禅は「継続する力」とか「大局観」みたいなものを与えてくれる気がしてます。でも即効性に欠けるんですよね、目に見える範囲だと。ついイライラしてしまう。そしてまたポテチとカップ麺だよ。

 

「このままじゃいけない」と頭ではわかってるんだけど。

 

ん?

 

いや、わかってるのは「頭」じゃないですね。

 

うん、頭じゃない。

 

(((この感じ違うよ)))と違和感を発してるのは、胸の奥とか腹の底あたりに感じられるなにものかですよ。ここ2〜3日の禅でわかってきました。

 

体はわかってるんですよ。ポテチとラーメン入りすぎって。それを「自分へのごほうび!」とか頭が「言葉」で事実をねじ曲げてる。現場からの情報を握りつぶしてウソの報告をする、ダメな上司みたいなやつです。

 

いったい君は何を守ろうとしてるのか?

 

アル中も不倫もヤケ食いも、本当に楽しんでやれてる人って、どれだけいるんでしょう? 苦しまぎれにハマってるだけの人が多いんじゃないだろうか。僕はポテチもカップ麺もそこまで好きじゃないです。ノドかわくし。でも「つい」食っちゃうんですよね。頭で「まだいいだろ(´Д` )」って命令して。

 

小声で、ボソッとね。

 

「頭ではわかってるんだけど」と言ってることって、じつは「頭だけがわかってない」ことなのかもしれません。

 

だから頭の中の考えや、体を通して感じられるものに自覚的であることで、ほどけていくのかもしれないですね。自然な方へとながれてゆきたいです。

姿勢が良くなっていく

ずっと姿勢が悪いんです。小学校の健康診断では「脊柱側彎症(せきちゅうそくわんしょう)」を疑われました。その後、精密検査や治療を行なった記憶はないのでそのまま成長したと思われますが、いまウィキで調べてみたら「これ俺じゃん(゚Д゚)」みたいなレントゲン写真が出てきて鬱。

 

やっぱそうだったのね(T ^ T)

 

背骨がねじれて、ゆがんでるんですね。性格にも反映してるかも。健全な心は健全な体に宿るとか言うじゃないですか。

 

なんで今さら蒸し返すのかというと、脚を組んですわるようにしてから、目につくようになってきたんですよね。正確に言うとヨーガの教室で、鏡に映る姿を見るようになってから。

 

組んだ脚腰を床につけようとするでしょ? 横方向にがっつり固定することで、縦方向の背骨のゆがみがごまかせなくなるというか、ハッキリ出てくる。もう平行四辺形かってくらい、肩が、頭が、右に傾いてるんです。

 

でね、本題はここからで、ヨーガの坐法でジーッとすわってると、だんだん体がまっすぐになっていくんです*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

背骨とか肩甲骨とか肋骨のまわりのいろんな筋肉が、勝手に動きだす。のびたり、ねじれが戻ったり。

股関節や膝まわりもジワジワゆるんでいきます。脚腰と床とのすき間がピタッとついていく。吸盤みたいになっていく。

 

3分とか5分くらいかな? 体のそこここの、ひととおりの違和感がなくなる頃には、ほぼまっすぐになってます。坐の形が平行四辺形から、かなり三角に近づいてる。背骨が垂直な感じ。まわりの方々とくらべてみると、まだまだですけどね。だけど、ずいぶんマシになってきてます。

 

もとの姿に戻っていってるのかな? 側彎症になる前の状態に。坐を解いてやり直すと、また右に傾いてるんですけどね。坐法の中で、まっすぐになっていく。

 

人の体って不思議ですね。脚腰を組んで固定する、いわば「型にはめる」ことで形態や構造を変えていく。思ってる以上に流動的なのかもしれない。姿勢にしてもたぶん最初から固定した形があるのではなく、環境にすごく影響されている。こちらは悪い例と思われますが、いわゆるデスクワークも体を「型にはめて」ますよね。1日7〜8時間、同じ姿勢でカリカリと。何年、何十年と。肩がこったり、腰が痛くなったり。。。

  

最近の坐禅は、呼吸もさることながら、体をこね直してる感があります。粘土をこねては、ろくろを回していくような。自分の体を材料にした陶芸? 生きてくための「器」を作り直している。お茶飲む時も、ちゃんとした器でいただくとホッとするじゃないですか?

 

ヨーガの塩澤賢一先生

僕、ライターの仕事をしてるのですが、「月刊秘伝」という武道・武術の専門誌に寄稿していて、いま発売中の10月号ではヨーガの塩澤賢一先生についての原稿を書かせていただきました。テーマは「瞑想坐法」、つまり「すわりかた」です。

 

これ、坐禅やマインドフルネスにも使えますよ(・ω・)ノ

 

禅や瞑想では呼吸法についてはそれなりの説明があると思うのですが、坐法、すわりかたはおざなりというか、できてることを前提に話が進んでいく印象があります。

 

でも実際にはちゃんと座れてなかったり、無理な姿勢のために禅定や瞑想が深まらなかったり、足腰を痛めたりするケースが多いように思われます。もったいないですよね。僕自身もそうでした。

 

足腰がすごく固くて半跏趺坐でも4の字固めみたいに悶絶してたので´д` ; 足は捨てて座蒲をはさんで正座してました。それでも禅定は訪れたのですが、いま思えば、頭→胸→腹どまりの直線的なものだったと思います。強さはあったけど、浅く、狭かったですね。腰もガッチガチに張ってたなあ。マッサージに行くたび驚かれてました。

 

それが塩澤先生の教室に出ると、1回目で骨盤の中がどこまでもどこまでも海のように拡がっていく感覚が。。。

 

もう2年くらい経ちますが「骨盤の中って、こんなに広かったんだ!?」という驚きと、海に浮き輪でプカプカ浮いてるリゾート感で「これなら何時間でもすわれるわい♪( ´▽`)」と楽しくなったのを、きのうのことのように覚えています。

 

特別なこと、エキセントリックなことは一切しないんですけどね。でもこころとからだが確実に変わっていくんです。塩澤先生、すごいんです。

 

その時もやったスカアーサナ(安楽坐・あんらくざ)のやりかたを図解してるので、「月刊秘伝」10月号みてみてください。本屋のスポーツ誌の棚に1〜2冊あると思います。

 

 

おれの禅を邪魔するのは誰だ?

じっくり落ち着いてすわれる時と、そわそわ落ち着かない時があります。今朝はそわそわしてました。すわるやいなや「あの原稿プリントしなきゃ」とか「ガス料金払わなきゃ」とか、後でいくらでもできることを頭が催促してきます。督促状が重なるようで、いても立ってもいられません。同時に、ムズムズする感じが腹や腰のあたりから胸へとあがってきます。これが「プリンタのインクあったっけ?」とか「預金残高そろそろヤバいし」とか頭の中のゴチャゴチャに引火すると、もう手おくれ。

 

ボン!と爆発します(°_°)=3

 

坐を解き、立ち上がったその足でプリンタの電源を入れ、ガスの請求書を手に。。。朝からひとりで半ギレです。ばかみたい。まだ7時前です。何もいま行くことはないじゃないか。

 

と、今日はそのまますわることができました。ムズムズとゴチャゴチャの「引火」を食い止めることができた。坐禅(脚腰)が引っ張ってくれました(^_−)−☆

 

坐禅中は脚腰と頭が綱引きをしているようで、頭でっかちな時(多忙や金欠などでテンパってる時、エロい妄想でパンパンの時\(//∇//)\など)は「重い頭」が勝つ傾向にあります。ええーい! と立って逃げてしまう。

 

今日はというか最近は、脚腰の方が優勢なことが多いです。姿勢がしっかりして、すわりに安定感が出てきている。気持ちがうわついていても「腰が重くて」上がりません。錨(いかり)を下ろした船のように。

 

今日は体にわいてくるムズムズも、頭の中の「インクがー!」「残高がー!」のゴチャゴチャも、よーく見えました。

 

体のムズムズが「火種」で、頭の中のゴチャゴチャ(考え、雑念)が「燃料」なんですね。両者が接触すると引火して(ブチ切れて)坐を立ったりするけど、それぞれ単体では大した力はないんです。頭の中の考えは、やがて新鮮味というか力を失っていきます。おかげさまで「朝めし早く食わなきゃ」とか新たな考えが次々と浮かんできますしね(・ω・)

 

で今朝はね、わきあがるムズムズの「形」が見えました。体感がヴィジュアル化できた。このムズムズに負けると「怒りの炎(頭の中に引火してボン)」や「おれ今日だめだ(中断して二度寝コース)」などに形を変え、ムズムズ本来の姿が見えなくなるのですが、今朝はよく見えた。坐禅する力が、ムズムズに勝ったんですね。小っさい勝負ですが根くらべの粘り勝ちです。

 

「ムズムズ」はホチキスの針のようでした。あれくらいの細さ小ささです。すげーしょぼいんです。

 

ホチキスの針みたいなやつがチョロチョロと、魚の骨が引っかかったように腹や胸をひっかきまわしてる。だからムズムズするんですね。

 

この針の正体はまだよくわからないけど(さまざまな未消化の思いから出来ている?)、こいつが坐禅の邪魔をしてたんですね。人づきあいでたまに衝動的にふるまってしまうのも、陰でチクチクそそのかしてるのは多分こいつ。全部が全部じゃないだろうけど、ひとつ自分の行動の仕組みが見えました。おれ、ホチキスの針くらい小さなやつに振り回されて、いつも右往左往してるんですね。

 

自分が、自分の邪魔をしていますψ(`∇´)ψ

 

 

 

ニンニクヤサイマシマシで。

坐禅を組んだ後はなんらかの気づきがあります。しょうもない気づきも多いのですが、今日は二郎のラーメンがこんもりと浮かんできました。ニンニクヤサイマシマシで。「ああ坐禅と二郎って似てるなあ」と。

 

(´・_・`)

 

ドンブリ部分が首から下の本体。マシマシのヤサイとニンニクは頭の中の雑念、イメージの世界です。こんもりしてますよね。こんなに喰っていいのか?という背徳感と金持ちになったような満足感。ある意味、着丼の時点で完結しています。開店前から並んだ甲斐があったというものです。

 

豚? もちろん「頭の中」です。アブラ? カラメ? ややしこくなるのでここではナシで。全部を二郎でたとえると無理が出てきそうなので、坐禅ベースで話を進めます。二郎の作法からみると「それは違う!」的なたとえも出てくるでしょうが、ひとつ大きな心で。何言ってるかわからない人は「ラーメン二郎」で画像検索してみてください。言わんとしてることがすごくよくわかると思います。

 

二郎のビジュアルって食欲の権化というか、人が頭の中で描く「これがオレ様だ!」といったセルフイメージに似てるんですよね。ほっとくとエスカレートして肥大化していくところが特に。ヤサイの盛りも本家よりインスパイア系の方が凄かったりするじゃないですか?

 

「天地返し」ってやりますよね? たべる前に麺を底からひっくり返して、ヤサイを沈めるやつ。麺を潜在意識、ヤサイを顕在意識(頭の中の雑念)にたとえるなら、麺がゴソッと表に出てヤサイが引っ込む感じは見性(けんしょう、さとりの一時的体験)に似てるかも。なかなか起こらないし、狙ってできるものでもないけど、本来の自己が全面に出てくる。ヤサイは沈むというより跡かたも無くなっちゃうけど。

 

じっさいには、日々の坐禅では、天地返しは行なえず(100%成功する方法は発見されてないので)、マシマシになった大量のモヤシとたまに出てくるキャベツを箸でつまんで、モグモグモグと噛みしめていく感じです。なかなか麺までたどりつけません。だから坐禅が続かない人が多いのかもしれませんね。

ドンブリの温かさをたしかめ(首から下の身体感覚になじんでいく)、ニンニクと脂とカネシ醤油のまじった湯気を楽しめるようになれば(雑念をちゃんとみる。くっさいやつも)、二郎同様やみつきになるんですけどね。

 

ドンブリの中身、つまり麺とスープを潜在意識としましたが、ここにはまっさらな「本来の自己」と、混沌とした過去の記憶(阿頼耶識前前前世? まだ見てません)があるようです。ここのところ僕はまだよくわかってないので、このさきハッキリさせていかないといけません。

 

二郎は神保町とひばりが丘が好きですε-(´∀`; ) 関内にも行ってみたい。

 

沙門空海 唐の国にて鬼と宴す

夢枕獏の小説で、心ある人から薦められていたのですが、いやすごかったです。完結まで17年かかったとか色々とすごいのだけれど∑(゚Д゚) ひとつ挙げるなら「たっぷり坐禅を組んだ後に街を歩くときの感じ」が再現されている。空海真言宗禅宗ではないけれど、こまかいことはいいじゃないですか。色も音も匂いも、人の気持ちや吹く風も。あたたかさを伴った霧のように、こまやかに流れ込んできます。

 

ハイな状態で録音されたビートルズボブ・マーリーの音源が、独特の響きを持っているのにも似て。もうすこし、おだやかですけどね。知覚のゆがみやズレはない。

 

般若心経の描写とか唸らされます。大音声(だいおんじょう)で響きわたる。僕の場合は「音なき音」という感じだったのですが、以前の接心(せっしん、坐禅の合宿みたいなものです)で似たような体験をしたことがあります。

お経なので声を出してギャーテーギャーテーと唱えるわけですが、「ああ声に出さなくても常に鳴ってるんだな」と、声を出しながら気づいたというか。オーディオでたとえるなら、ヴォリュームはゼロだけど音源はつねにギャーテーギャーテーと再生されている。声を出すのは、ヴォリュームのつまみを上げていくくらいの役目にすぎなくて。音なき音として常にこの空間で鳴っている。

 

お経だけでなく音だけでなく、色や思いも同じ仕組みで現れたり消えたりしているのだろうなと。

 

そんな不確かな世界で、じゃあどう振る舞うか?という話になってくるのですが。夢まぼろしのような世界でも、死んだ人は生き返らないし、昨日には戻れないですからね。哀しいかなそれだけは確かなことで。この作品はそこのところに喰らいついていきます。

 

夢枕獏先生の作品を通して読んだのははじめてだったのですが、同時代のお坊さんや学者が書いている仏教の書籍で、ここまで目のさめる思いをするものはなかった気がします。もちろん仏教関連の書籍ぜんぶに目を通してるわけではないですが。

 

エンターテインメントで宗教からも逃げてないって、すごいなあ(((o(*゚▽゚*)o)))