息をかぞえて

禅・こころとからだ

思いを逝かせてあげる

ジョージ秋山の「弘法大師空海」のセリフで「生きたまま成仏するのが人だ。人間だぞ」というのがあって、なんか心に残ってます。

 

「成仏(じょうぶつ)」というと迷信のようだけど、死んで極楽に往生することを望むのではなく、思い残すことなく生きて死ぬことなんだと思います。死ぬ前の後悔や思い残し。「あんなに働かなくてもよかった」とか? 「もっと家族と過ごせばよかった」とか? 末期患者のことばを集めた看護師の記録が、ちょっと前に話題になりましたね。

 

果たせぬ思い。坐禅や瞑想では「思いが浮かび、消え、あるいは残る」さまがみえてくるわけだから、日々のストレスや過去のトラウマとかも含めて、無念を晴らすのに効果がある気がしています。すわることで思いをシュワシュワと逝かせてあげる。イメージとしてはまさに「成仏」なんですよね。幽霊や妖怪が蒸発していくような?

 

ダイエット中に「ラーメン食いたい!」とか死ぬほど思ってたのが、坐禅を終えるとシュワシュワ消えていたり。これも一応「思い」の「成仏」です(・ω・)ノ

 

ほっとけば消えてく思いは見送り、しつこく残る思いは見守るといった感じでしょうか。幼少期のトラウマ(記憶、つまり思いの塊)や10年20年居座ってるようなベテランの雑念は、すでにアイデンティティの一部と化しているので、共存していくしかない。いつか関係性に変化が生まれるかもしれない。to be continued...です。

 

死ぬまぎわの、あんなに働かなくてよかったはどうなんでしょうね? ちょっとズルい気もします。働かなかったら働かなかったで「ちゃんと働いておけば...」とか思うでしょうし、家族と過ごしてたらもっと後悔してたかもしれません。何かを選択すれば別の選択肢が「もしも」と枝分かれして出てくるのが、思考の仕組みなわけで。「白」といえば「黒」がうまれ、「右」といえば「左」がうまれます。

 

坐禅をやっててわかってきたことですが、何を選んでも後悔するように人のアタマはできているようです。

 

あの時ああしておけば。死ぬ前ということで美化されてますが、これ、坐禅中に浮かんでくる「雑念」と変わらないんですよね。「ラーメン食いたい」と一緒。

 

働きづめだった人も、そこに喜びや充実感を感じていたかもしれない。だけどそれを忘れて、たまたま死ぬ前に来た「あんなに働かなくても」との「雑念」にとらわれる。死にたくないからしがみつく。最後の最後まで「思い」に振り回される。

 

「成仏せい」って感じですよね。楽しい思いもしただろ?って。

 

思い(雑念)がやむことはないし、何を選んでも人は後悔するから、日々浮かぶ思いに自覚的であることは大事なのだ、とも思います。今の状況に満足できてなくても、このまま進んだら後悔しそうでも、その思いを自覚できてたらいいのではないか。そのとき少なくとも「思いの奴隷」にはなってないわけで。

 

身動きとれない状況でも、こころは自由でいられます。これがけっこう大事な気がする。

 

高望みしてもどこにも行けないですからね。自分なりに良いと思ったことを選びつづけて、皆、今の状況にいるはずで。そこで他人と比較を始めると「あの時ああしておけば...」となるけれど、それもやはり「雑念」が生む「妄想」です。

 

逝かせることのできる思いは逝かせて、今できることをやるのみです( ̄^ ̄)ゞ

ジョージ秋山「弘法大師空海」

ジョージ秋山のマンガ「弘法大師空海」を文庫で読みました。1997年に集英社の「MANGAオールマン」で連載されていたんですね。幽体離脱、超能力、セックス。半分以上が秋山先生の体験談と人生訓なので、空海の学習マンガを期待してたマジメな読者はブッ飛ぶと思いますが、僕には面白かったです。

 

秋山先生は自己流の瞑想もされていたようで、最終回はその伝授だったりします。これが最近はやりのマインドフルネス瞑想とよく似ていて、時代を先取りしているというか大事な所は外してないというか。20年前ですからね。

 

珠玉のセリフ満載で。愛することができる人間に宗教なんかいらない、とかね。「すべての自殺は自意識が強いゆえじゃ」とか。

 

そうなんですよね。「あー死にてえ」とか「いっそ死んだら楽なのに」とか思ってるのは自分の頭の中だけで、首から下はそんなこと思っちゃいない。手や足に聞いてみてください。「死にたい」とは絶対返ってこないから。

 

「お前なんか死んじゃえ」的なニュアンスの、心ない言葉を投げてくる人もいるかもしれません。でもそれらのメッセージをどう扱うかも「自分の頭の中」の出来事です。真に受けてぐるぐるとループさせるのも「お前にオレの何がわかる」と切り捨てるのも、選択権は自分にあります。

 

自意識が強くなるほど、自分が傷つくことに弱くなるんですよね。一見、逆に思えますが。「自分」関連のワードが来ると、よいものもわるいものも磁石のように引きつけてしまう。真に受けてスルーできなくなる。僕自身がそうなので、よくわかります。自意識過剰はある種の「磁力」を生みます。磁力を帯びた者どうし引きつけあったり反発したり。

 

ただやはり坐禅や瞑想で自分の頭の中をみる、自意識の正体を見きわめていくと、その磁力も弱まっていく気がします。集中してる意識がバラけて、セルフイメージがぼやけてくる。「こうありたい」というナルシシズムから解放されていく。無意識過剰になっていくというか。

 

しかしどういうわけか禅や瞑想で我が強くなる場合もあるので( ´Д`)y━・~~、独学(ひとりよがりになる)はやめた方がいいし、指導者えらびは大事だと思います。指導者やグループぐるみで我が強くなったり、妄想しがちになったらサヨナラです。閉鎖的なのは危険ですよね。自分たちの頭の中に閉じこもってしまうから。

 

弘法大師空海」が連載されていた1997年はオウム真理教事件(95年)の直後。秋山先生によるオウム事件への回答、時代への問いかけだったのだと思います。僕が大学を出た頃で、まだ学生だった同じ大学の後輩が秋山先生のロングインタビューをとってきて、自分の同人誌に掲載したり。その後そのインタビューが商業誌の「クイックジャパン」に転載されたり。オウムや宗教の話もしてたと思います。

当時は「近くで起きてる遠くの出来事」と思ってましたが、いつの間にか近くまで来てました。

 

脚と腰を取り戻す

組むと痛いし。正座は正座でしびれるし。すわる時、この両脚がとかくわずらわしく感じられました。ふだんもそうだな。ぶつけて痛い時とか、かゆくてかく時くらいしか、脚のことは意識しなかったかも。

「下半身」という呼びかたも、ちょっと下に見てますよね。足腰をパーツあつかいしてるというか。えらいのは脳みそだけで、あとは部品みたいな? 僕はさいわい腰痛もちではないのですが、「腰が痛い」というのも腰をパーツ、部品あつかいして無茶、無理してきたからでは?と思います。

坐禅を長年続けている先輩の多くが膝や腰を悪くしているのを見て、結跏趺坐やだ(>_<)と避けていた部分もあります。みんな準備体操もストレッチもしないんだもの。

 

すこしずつ脚が組めるようになり、脚とおしりを床につけてすわれるようになり。ここにきて「自分が脚と腰になった」感覚が出てきてます。脚も腰もからだの一部なわけで、いまさら「なる」もないのですが。でもそれくらい、今までおざなりにしてたんだと思います。ずっと一緒だったのにね。

 

歩いたり、立ったりするだけじゃないんだぞ。

 

もちろん組んでいるので、脚も付け根もジンジンしてます。ノーストレスではない。でも下克上というかな、「ああ、この脚と腰、生きてるわ!」みたいな。ずっと司令部があった頭脳から、主導権が足腰という「現場」に移った感覚? 意識の主導権が逆転して、これまでにないくらい脚と腰がいきいきとしてます。脚と腰を「取り戻した」感があります。

そのかん頭はお留守です。ガラガラのお店みたいにテンションがひくい。

 

雑念も少なく、30分40分、あっという間にすぎます。脚と腰の感覚を味わっているうちに。

 

しびれた時にね。「このままじゃ血流がアレだから動きなさい」とか、的確なアドバイスを頭脳はくれます。それも大事なのですが、その最中も脚はただジンジンしてるだけなんですよね。頭脳とは別世界で、ジンジンと生きている。

20分30分すわっていると、自律してる何かを感じるようです。脚にも腰にも、未開の感覚、感性が埋まっている気がします。それでいて、あーだこーだと考えたり悩んだりしないのがいいとこなんですよね。頭にはできない芸当です。

すわるまえの、ヨガ

股関節がカタくて。昔のガンプラなみの可動域で。両脚を組む結跏趺坐(けっかふざ)はおろか、片っぽだけの半跏趺坐(はんかふざ)もきつかったので、7〜8年ずっと、お尻に座布をはさんで正座してました。

まずそれが許される環境でラッキーでしたね。体験でまわった禅堂の中には、結跏趺坐を強要してくる人もいてψ(`∇´)ψ 。こういう理由で坐禅を敬遠したり、挫折する人もいるだろうなあと思いました。コツを教えるでもなく、ただやれ、我慢しろ!ですから。しかも指導者でもない。ドヤ顔してるベテランさんです。

 

「足よりも背骨。背筋をのばして呼吸に専念すればよし!」という指導者に会えたので、足にハマらず、続けられたのだと思います。あたたかい目で見守っていただきました。

 

それが最近ね、ヨガをはじめたおかげで、半跏趺坐ならなんとかなりそうなとこまで来ました。

 

7年たって今更?とか。体が固いのにヨガ???とか。書きながら「?」が点灯してますが。

 

脚くんですわるの、いいです。浮き輪で海にういているよう。上半身(背骨?)の無理がなくなる。息がらくになる。いくらでもすわれそう。だからってプカプカとゆるふわなかんじでもない。カメラのピントが合ったように、こころもからだも引き締まってきています。

 

脚は邪魔もの。くらいに思ってたのですが、手順をふめば、変わりようはありますね。いきなり結跏趺坐、は無理ですけど。

坐禅と温泉

先日、小田急ロマンスカーで箱根湯本まで行ってきました。

おそばを食べて温泉につかって、日帰り。

僕、長湯ができなくて、いつも2〜3分つかったらもういいやってなっちゃうんですけど、この日は途中から雷雨となったので、出るに出られず1時間くらい入ってたのかな?

簡単な屋根を張ってるだけの露天風呂だったので、豪雨のまっただなか感が半端なかったです。バラバラバラバラ、トタン板に叩きつける雨音が怖くて。上でゴロゴロいってるし。山だから近いし。

なかば閉じ込められた形での長風呂となりましたが、その気になればできるもんですね。いま思えばいい時間だったなあとおもいます。出たり入ったり、じっくり入る温泉はいいです。水道水とはやはり違うんですよね。とろみがある。熱くなくても体の中まで温かさがはいってくる。お肌もすべすべになる♪( ´▽`)

 

坐禅も温泉みたいなところがあると思います。長く浸かってられないけど、何かの拍子で長湯したら、あとで気持ちよかったと思える。ジムトレーニングとかの動き回る気晴らしとはやはり違うんですよね。あとからじわじわ効いてきて、こころに、からだに、温度みたいなものが残る気がします。

片手の拍手でズンズズン

 只管打坐、数息観と話をしてきました。今回は公案(こうあん)です。

公案は一般には「禅問答」として知られていると思います。「無字」だとか、有名どころだと「片手の拍手を聞かせてみよ」とか。「一休さん」の「このはし、わたるべからず」。うーん、あれは違いますよね。ああいうふうに「頭でわかる答え」が出るものは、公案にはなりません(「渡るな!」と言われてもズンズン渡る行為は、じつに禅的だと思います。でも「はし」と「まんなか」をかけて、うまいこと言う必要はないんです。ああいう作為が入ると公案はアウト)。

 

「片手の拍手」。正確には「隻手(せきしゅ)」という公案で、白隠(はくいん)という江戸時代のお坊さんがつくったと言われています。拍手はパン!と両手で打つものですが、そこに「片手の拍手はどんな音がする?」と来ます。聞かせてみろと。公案の中では比較的知名度が高く、僕の経験でも禅の話をしてて「公案」と出てくると、「あー、片手の拍手ね」と返されることが多いです。空振りのビンタみたいなジェスチャーで。そして聞かれます。「で、結局なんなの?」

僕、まだこれに答えられたことがなくて。いつも「うーん…(-_-)」となってしまいます。聞いた方も困りますよね。え、知らないの?(´・_・`)みたいな。今日はがんばってみるぞ。

  

「隻手」の公案。僕のばあい効果はてきめんでした。ひっこみ思案で腰がひけてたのが「ずん!」と前に出るようになった。否定されても、邪魔が入っても、ずん!ずずん!と前に出られるようになった。禅堂を離れて日常に戻っても。よくもわるくもストレートに自分が出るようになりました。おかげで窮地をしのいだり、窮地におちいったり∑(゚Д゚) 

そう、時と場合でどっちにも転ぶんです(笑)。でも裏目に出ても不思議と後悔しなくなる。状況のよしあしや損得よりも、その時「こうだ!」と思う方に進むことが大事になってくるんですよね。

 

で結局、片手の拍手ってどんな音がするの? これにはやはり答えられないです。

公案は老師(指導者)から弟子(生徒)に与えられるもので、独参室(どくさんしつ)とよばれる部屋で点検が行なわれます。生徒は与えられた問いに対して答えを示し、指導者の眼にかなえば通過、次の公案。ダメな場合は「もう一度」となります。「もう一度」が5年10年とつづく場合もあります(僕はいまのところ最長で1年半)。

独参室は師匠と弟子のふたりきり。何が起きたかは他言無用、ネタバレ禁止です。だから居酒屋とかで「隻手」のことを聞かれても、あまり話せないのです。秘密主義、というよりはあらすじだけ聞いても「フーン」だと思います。オチのないコントですべった感じ?

公案が通らず「もう一度」となったら、持ち帰ってすわります。「隻手」なら「片手の拍手?」とひたすら「すわる」のです。「すわって考える」と言えなくもないのですが、考えてはいけないのです。頭を使うと絶対にこたえられません 。

そもそも公案に正解はありません。いくら考えても「答え」はないのです。

でも投げられた問いに対して、何かしらのリアクションはしないといけない。「答え」はなくても「応え」ないといけない。苦しまぎれでも。そこんとこ、人生と似てます。

答えのない問いに、どうこたえるか?

坐禅なので、すわります。「呼吸で考える」というか。呼吸にしたがい、こころとからだに聞いてみる。すわってすわってすわった時、やむにやまれず出てくる声や動きというものがあります。それを「こたえ」として突きつける。目の前の指導者に。

 

だから公案では指導者がとても大事です。独学では絶対できないし、うまく公案を使える指導者は、こちらが日常で直面してる問題を直撃するように、導き、ゆさぶってくれます。見透かしたかのように。

「片手の拍手の音は?」って、つくづく無意味な質問です。でもその無意味な質問のおかげでズンズンいけるようになりました。使う人次第ですが、公案って本当によくできてると思います。当時の老師と禅堂の方々には感謝してもしきれません。

一度にふたつはかぞえられない

1から10までくりかえし息をかぞえる、数息観の話。

数字には1→ 2→ 3という連続性があって、1ずつ増えていく。そこでは1+1=2、2+1=3といった「足し算」を連続的にしている。ここで足し算という「思考」をやめると「1たす1は、1と1」になる。2、3といった数がなくなるので、1→ 2→ 3の連続性もなくなる。ひと呼吸ひと呼吸、そのつど完結する。数息観もそうなってくると、しめたもの。

 

前回、そんな話で終わっていたと思います。ではこの文章はどうでしょう?

 

「たき木、灰となる。灰がたき木に戻ることはない。それなのに灰は後、たき木は先と見てはいけない」

 

前半は大丈夫ですね。当たり前のことしか言ってません。ところが「それなのに」以降の後半は???となると思います。たき木が燃えて灰となった時、「灰が後で、たき木が先」という順番で見てはいけないと言うのです。

たき木→灰。過去→現在。生まれる→死ぬ。どれも常識的な時間感覚ですが、ここではこの「→」を否定してるのです(゚O゚)\(- -

時の流れ、時間の連続性を否定してる???

これは道元(どうげん)という鎌倉時代のお坊さんが書いた「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」という書物の一節を意訳したものです。最初に知ったのは7〜8年前。当時の老師のもとですわりはじめた頃でした。

「たき木が燃えて灰となる」のに「たき木が先」で「灰が後」ではないと?  坐禅中は線香を立てるので、たき木に見立ててずーっと見てたりしました。チリチリと赤くなり、煙となり灰となり、ポロッと落ちる。ひとーつ、ふたーつ、息をかぞえる。線香は短くなっていて、時計の針は進んでいます。燃えつきて灰となる25分。やはり時間は先から後、過去から未来へ流れているように思えました。意訳、続けます。

「たき木はたき木として(時間をはらんで)存在し、(その時間には)前があり後がある。(時間の中では)前と後があるけれど、その前と後は(それぞれ「いまこの瞬間」の痕跡でしかなく)断絶しているのだ。(だからたき木とは断絶して)灰は灰として存在し、前があり後があるのだ」

たき木の時はたき木、灰の時は灰、瞬間瞬間でみればたしかにそうです。時間という仮想現実、それを瞬間的にたちきる断絶。そんな空白が坐禅中に訪れることがあります。原文では「前後際断(ぜんごさいだん)」という言葉で出てきました。当時、よくわからないながらも何か刺さる言葉で、「断絶!」みたいな感覚がうえつけられました。カッコ内は現在の僕なりの補足です。当時はわかりませんでした。7〜8年すわって、ちょっとわかってきた? もうちょっとはっきりさせたいなあ。

 「たき木→灰」から「たき木。灰」へ。「過去→現在」から「過去。現在」へ。「1→ 2→ 3」から「1。2。3」へ。やじるしを、時間の連続性を、すわることで「断絶!」していきます。

要は「さっきまでの記憶」と「いま現在」を、頭の中の「→」でつなげないということです。時間を示す「→」は頭の中にしかなく、目の前のどこを探してもないのだから。時計があるじゃないかって? ダメですね。時計で針が一度に指せるのは文字盤の一か所だけです。「さっきまでの針と文字盤の位置」と「今の針と文字盤の位置」を頭でさし引いて、はじめて時間が生まれます(それで「時間」を感じられる人間の頭も、時計を発明した人類も、すごいと思いますが)。

 

同様に、数息観で一度にかぞえられるのもひとつの数だけです。「ひとーつ」の時は「1」がすべて。「ふたーつ」の時は「2」がすべて。そうしてすわっていくと、時間の感覚もなぜか変わってくる。頭の中で増えすぎた「→」が取れ、自由になっていく気がします。日常でもだんだんと。

 

吸って吐くとき、ひとつだけ。ふたつ以上はかぞえられないんです。