息をかぞえて

禅・こころとからだ

片手の拍手でズンズズン

 只管打坐、数息観と話をしてきました。今回は公案(こうあん)です。

公案は一般には「禅問答」として知られていると思います。「無字」だとか、有名どころだと「片手の拍手を聞かせてみよ」とか。「一休さん」の「このはし、わたるべからず」。うーん、あれは違いますよね。ああいうふうに「頭でわかる答え」が出るものは、公案にはなりません(「渡るな!」と言われてもズンズン渡る行為は、じつに禅的だと思います。でも「はし」と「まんなか」をかけて、うまいこと言う必要はないんです。ああいう作為が入ると公案はアウト)。

 

「片手の拍手」。正確には「隻手(せきしゅ)」という公案で、白隠(はくいん)という江戸時代のお坊さんがつくったと言われています。拍手はパン!と両手で打つものですが、そこに「片手の拍手はどんな音がする?」と来ます。聞かせてみろと。公案の中では比較的知名度が高く、僕の経験でも禅の話をしてて「公案」と出てくると、「あー、片手の拍手ね」と返されることが多いです。空振りのビンタみたいなジェスチャーで。そして聞かれます。「で、結局なんなの?」

僕、まだこれに答えられたことがなくて。いつも「うーん…(-_-)」となってしまいます。聞いた方も困りますよね。え、知らないの?(´・_・`)みたいな。今日はがんばってみるぞ。

  

「隻手」の公案。僕のばあい効果はてきめんでした。ひっこみ思案で腰がひけてたのが「ずん!」と前に出るようになった。否定されても、邪魔が入っても、ずん!ずずん!と前に出られるようになった。禅堂を離れて日常に戻っても。よくもわるくもストレートに自分が出るようになりました。おかげで窮地をしのいだり、窮地におちいったり∑(゚Д゚) 

そう、時と場合でどっちにも転ぶんです(笑)。でも裏目に出ても不思議と後悔しなくなる。状況のよしあしや損得よりも、その時「こうだ!」と思う方に進むことが大事になってくるんですよね。

 

で結局、片手の拍手ってどんな音がするの? これにはやはり答えられないです。

公案は老師(指導者)から弟子(生徒)に与えられるもので、独参室(どくさんしつ)とよばれる部屋で点検が行なわれます。生徒は与えられた問いに対して答えを示し、指導者の眼にかなえば通過、次の公案。ダメな場合は「もう一度」となります。「もう一度」が5年10年とつづく場合もあります(僕はいまのところ最長で1年半)。

独参室は師匠と弟子のふたりきり。何が起きたかは他言無用、ネタバレ禁止です。だから居酒屋とかで「隻手」のことを聞かれても、あまり話せないのです。秘密主義、というよりはあらすじだけ聞いても「フーン」だと思います。オチのないコントですべった感じ?

公案が通らず「もう一度」となったら、持ち帰ってすわります。「隻手」なら「片手の拍手?」とひたすら「すわる」のです。「すわって考える」と言えなくもないのですが、考えてはいけないのです。頭を使うと絶対にこたえられません 。

そもそも公案に正解はありません。いくら考えても「答え」はないのです。

でも投げられた問いに対して、何かしらのリアクションはしないといけない。「答え」はなくても「応え」ないといけない。苦しまぎれでも。そこんとこ、人生と似てます。

答えのない問いに、どうこたえるか?

坐禅なので、すわります。「呼吸で考える」というか。呼吸にしたがい、こころとからだに聞いてみる。すわってすわってすわった時、やむにやまれず出てくる声や動きというものがあります。それを「こたえ」として突きつける。目の前の指導者に。

 

だから公案では指導者がとても大事です。独学では絶対できないし、うまく公案を使える指導者は、こちらが日常で直面してる問題を直撃するように、導き、ゆさぶってくれます。見透かしたかのように。

「片手の拍手の音は?」って、つくづく無意味な質問です。でもその無意味な質問のおかげでズンズンいけるようになりました。使う人次第ですが、公案って本当によくできてると思います。当時の老師と禅堂の方々には感謝してもしきれません。