息をかぞえて

禅・こころとからだ

なだらかな息、ぶつからない心。

ずっと晴れ続きでしたが、うす曇りの空。ぐっと冷え、ここ国分寺では粉雪もぱらつきました。一年さいごの日、冬めいてきた感があります。

 

今年は学び多き年でした。特に塩澤賢一先生のヨーガから多くのことを学びました。ここ数年マイペースで続けていた坐禅でつちかっていたものに、別の角度から、はっきりと光を当てることができるようになってきました。

 

「仕組みを理解する」ことが坐禅の目的ではないと思います。が、「坐禅中に起きていることを知る」ことで、すわりかたが工夫でき、結果「よくすわれるようになる」のはよいことだと思います。坐禅を続け、深めることができる。

 

坐禅でもヨーガでも「呼吸」に注目していきます。さまざまな呼吸法やアーサナで息をととのえていく。呼吸と、体の動きと、心の動きが一致するように、調和するように。「浅く短い息」から「深く長い息」へ。「荒く乱れた息」から「静かで穏やかな息」へ。

 

図にしてみます。

 

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心電図ぽいですが、吸って、吐いて、をくりかえす「呼吸の波」です。山から谷への振幅が大きいですね。荒い息、乱れている状態です。で、「呼吸=心」ということにして話を進めます。

 

ここに頭の中の雑念や、外部からの刺激(視覚、聴覚、皮膚感覚など)が飛んできます。

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 飛んできた雑念や刺激は、呼吸(心)の波に衝突します。波の振幅が大きいほど、ぶつかりやすくなります。言いかえれば、呼吸の揺れ、心の揺れが「壁」となり、思いや刺激と衝突する。いちいち反応してしまう。ビクッとしたりカチンときたりウジウジ悩んだり。。。神経過敏で情報過多な状態とも言えます。

 

さて、息をととのえます。

 

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もうちょっと。

 

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ずいぶん落ち着いてきました。

 

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これくらいなだらかになると、雑念や刺激が来ても、すうっと流れていきます。

 

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ね? 雑念も刺激もよく見えます。決して「心を閉ざす」とか「鈍感になる」ではないんです。繊細さはそのままに、マイペースでいることができます。

 

すっきりと、ゆとりある心。なだらかで、ぶつからない。

 

流さず吟味した方がいい雑念や、反応すべき刺激には対処ができる状態です。一喜一憂せず「見守る」ことができる。

 

 

僕の実感をもとに作った図なので、「なぜ呼吸イコール心といえるのか?」の証明は、ごめんなさい、まだできてません。なので具体例になってしまいますが。

 

よくすわれた朝は、満員電車に乗っててもイライラしづらいな、とか。密着してる人の体温とか、ヘッドホンから漏れてくる音、ぶつけてくるカバンにこもったいらだち、停車、遅延を告げるアナウンス。。。みんな何故か「ちょっと遠く」に感じられます。

 

物理的な距離感は、もちろん変わらないんですけどね。ぎゅうぎゅうのスシ詰め。でもそこと重なりあうように、心のスペースはひろびろとしてるのがわかるんです。

 

透明なプラネタリウムの中にいる感じ。快不快含め、自他の感情含め、全ての出来事はごちゃごちゃとその中で起きている。

 

こころイコールからだ、ではないのだなあと最近は思います。こころの容量は肉体を超え、じわじわ拡げていくことができる。鍵となるのは呼吸。息。

 

なだらかな呼吸は、ぶつからない心をつくる。心がぶつからなくなると、人や出来事との衝突も減っていくのだと思います。

 

雲の切れ間から陽がさしてきました。大みそか、除夜の鐘は煩悩の数。すわるにはうってつけの夜です。