息をかぞえて

禅・こころとからだ

坐禅と温泉

先日、小田急ロマンスカーで箱根湯本まで行ってきました。

おそばを食べて温泉につかって、日帰り。

僕、長湯ができなくて、いつも2〜3分つかったらもういいやってなっちゃうんですけど、この日は途中から雷雨となったので、出るに出られず1時間くらい入ってたのかな?

簡単な屋根を張ってるだけの露天風呂だったので、豪雨のまっただなか感が半端なかったです。バラバラバラバラ、トタン板に叩きつける雨音が怖くて。上でゴロゴロいってるし。山だから近いし。

なかば閉じ込められた形での長風呂となりましたが、その気になればできるもんですね。いま思えばいい時間だったなあとおもいます。出たり入ったり、じっくり入る温泉はいいです。水道水とはやはり違うんですよね。とろみがある。熱くなくても体の中まで温かさがはいってくる。お肌もすべすべになる♪( ´▽`)

 

坐禅も温泉みたいなところがあると思います。長く浸かってられないけど、何かの拍子で長湯したら、あとで気持ちよかったと思える。ジムトレーニングとかの動き回る気晴らしとはやはり違うんですよね。あとからじわじわ効いてきて、こころに、からだに、温度みたいなものが残る気がします。

片手の拍手でズンズズン

 只管打坐、数息観と話をしてきました。今回は公案(こうあん)です。

公案は一般には「禅問答」として知られていると思います。「無字」だとか、有名どころだと「片手の拍手を聞かせてみよ」とか。「一休さん」の「このはし、わたるべからず」。うーん、あれは違いますよね。ああいうふうに「頭でわかる答え」が出るものは、公案にはなりません(「渡るな!」と言われてもズンズン渡る行為は、じつに禅的だと思います。でも「はし」と「まんなか」をかけて、うまいこと言う必要はないんです。ああいう作為が入ると公案はアウト)。

 

「片手の拍手」。正確には「隻手(せきしゅ)」という公案で、白隠(はくいん)という江戸時代のお坊さんがつくったと言われています。拍手はパン!と両手で打つものですが、そこに「片手の拍手はどんな音がする?」と来ます。聞かせてみろと。公案の中では比較的知名度が高く、僕の経験でも禅の話をしてて「公案」と出てくると、「あー、片手の拍手ね」と返されることが多いです。空振りのビンタみたいなジェスチャーで。そして聞かれます。「で、結局なんなの?」

僕、まだこれに答えられたことがなくて。いつも「うーん…(-_-)」となってしまいます。聞いた方も困りますよね。え、知らないの?(´・_・`)みたいな。今日はがんばってみるぞ。

  

「隻手」の公案。僕のばあい効果はてきめんでした。ひっこみ思案で腰がひけてたのが「ずん!」と前に出るようになった。否定されても、邪魔が入っても、ずん!ずずん!と前に出られるようになった。禅堂を離れて日常に戻っても。よくもわるくもストレートに自分が出るようになりました。おかげで窮地をしのいだり、窮地におちいったり∑(゚Д゚) 

そう、時と場合でどっちにも転ぶんです(笑)。でも裏目に出ても不思議と後悔しなくなる。状況のよしあしや損得よりも、その時「こうだ!」と思う方に進むことが大事になってくるんですよね。

 

で結局、片手の拍手ってどんな音がするの? これにはやはり答えられないです。

公案は老師(指導者)から弟子(生徒)に与えられるもので、独参室(どくさんしつ)とよばれる部屋で点検が行なわれます。生徒は与えられた問いに対して答えを示し、指導者の眼にかなえば通過、次の公案。ダメな場合は「もう一度」となります。「もう一度」が5年10年とつづく場合もあります(僕はいまのところ最長で1年半)。

独参室は師匠と弟子のふたりきり。何が起きたかは他言無用、ネタバレ禁止です。だから居酒屋とかで「隻手」のことを聞かれても、あまり話せないのです。秘密主義、というよりはあらすじだけ聞いても「フーン」だと思います。オチのないコントですべった感じ?

公案が通らず「もう一度」となったら、持ち帰ってすわります。「隻手」なら「片手の拍手?」とひたすら「すわる」のです。「すわって考える」と言えなくもないのですが、考えてはいけないのです。頭を使うと絶対にこたえられません 。

そもそも公案に正解はありません。いくら考えても「答え」はないのです。

でも投げられた問いに対して、何かしらのリアクションはしないといけない。「答え」はなくても「応え」ないといけない。苦しまぎれでも。そこんとこ、人生と似てます。

答えのない問いに、どうこたえるか?

坐禅なので、すわります。「呼吸で考える」というか。呼吸にしたがい、こころとからだに聞いてみる。すわってすわってすわった時、やむにやまれず出てくる声や動きというものがあります。それを「こたえ」として突きつける。目の前の指導者に。

 

だから公案では指導者がとても大事です。独学では絶対できないし、うまく公案を使える指導者は、こちらが日常で直面してる問題を直撃するように、導き、ゆさぶってくれます。見透かしたかのように。

「片手の拍手の音は?」って、つくづく無意味な質問です。でもその無意味な質問のおかげでズンズンいけるようになりました。使う人次第ですが、公案って本当によくできてると思います。当時の老師と禅堂の方々には感謝してもしきれません。

一度にふたつはかぞえられない

1から10までくりかえし息をかぞえる、数息観の話。

数字には1→ 2→ 3という連続性があって、1ずつ増えていく。そこでは1+1=2、2+1=3といった「足し算」を連続的にしている。ここで足し算という「思考」をやめると「1たす1は、1と1」になる。2、3といった数がなくなるので、1→ 2→ 3の連続性もなくなる。ひと呼吸ひと呼吸、そのつど完結する。数息観もそうなってくると、しめたもの。

 

前回、そんな話で終わっていたと思います。ではこの文章はどうでしょう?

 

「たき木、灰となる。灰がたき木に戻ることはない。それなのに灰は後、たき木は先と見てはいけない」

 

前半は大丈夫ですね。当たり前のことしか言ってません。ところが「それなのに」以降の後半は???となると思います。たき木が燃えて灰となった時、「灰が後で、たき木が先」という順番で見てはいけないと言うのです。

たき木→灰。過去→現在。生まれる→死ぬ。どれも常識的な時間感覚ですが、ここではこの「→」を否定してるのです(゚O゚)\(- -

時の流れ、時間の連続性を否定してる???

これは道元(どうげん)という鎌倉時代のお坊さんが書いた「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」という書物の一節を意訳したものです。最初に知ったのは7〜8年前。当時の老師のもとですわりはじめた頃でした。

「たき木が燃えて灰となる」のに「たき木が先」で「灰が後」ではないと?  坐禅中は線香を立てるので、たき木に見立ててずーっと見てたりしました。チリチリと赤くなり、煙となり灰となり、ポロッと落ちる。ひとーつ、ふたーつ、息をかぞえる。線香は短くなっていて、時計の針は進んでいます。燃えつきて灰となる25分。やはり時間は先から後、過去から未来へ流れているように思えました。意訳、続けます。

「たき木はたき木として(時間をはらんで)存在し、(その時間には)前があり後がある。(時間の中では)前と後があるけれど、その前と後は(それぞれ「いまこの瞬間」の痕跡でしかなく)断絶しているのだ。(だからたき木とは断絶して)灰は灰として存在し、前があり後があるのだ」

たき木の時はたき木、灰の時は灰、瞬間瞬間でみればたしかにそうです。時間という仮想現実、それを瞬間的にたちきる断絶。そんな空白が坐禅中に訪れることがあります。原文では「前後際断(ぜんごさいだん)」という言葉で出てきました。当時、よくわからないながらも何か刺さる言葉で、「断絶!」みたいな感覚がうえつけられました。カッコ内は現在の僕なりの補足です。当時はわかりませんでした。7〜8年すわって、ちょっとわかってきた? もうちょっとはっきりさせたいなあ。

 「たき木→灰」から「たき木。灰」へ。「過去→現在」から「過去。現在」へ。「1→ 2→ 3」から「1。2。3」へ。やじるしを、時間の連続性を、すわることで「断絶!」していきます。

要は「さっきまでの記憶」と「いま現在」を、頭の中の「→」でつなげないということです。時間を示す「→」は頭の中にしかなく、目の前のどこを探してもないのだから。時計があるじゃないかって? ダメですね。時計で針が一度に指せるのは文字盤の一か所だけです。「さっきまでの針と文字盤の位置」と「今の針と文字盤の位置」を頭でさし引いて、はじめて時間が生まれます(それで「時間」を感じられる人間の頭も、時計を発明した人類も、すごいと思いますが)。

 

同様に、数息観で一度にかぞえられるのもひとつの数だけです。「ひとーつ」の時は「1」がすべて。「ふたーつ」の時は「2」がすべて。そうしてすわっていくと、時間の感覚もなぜか変わってくる。頭の中で増えすぎた「→」が取れ、自由になっていく気がします。日常でもだんだんと。

 

吸って吐くとき、ひとつだけ。ふたつ以上はかぞえられないんです。

1たす1は、1と1。

数息観でもうひとつ。

このブログのタイトルでもありますが、数息観では「息をかぞえて」いきます。1から10までくりかえし、くりかえし。気が散るのを「次は2、その次は3」と数をかぞえることで、注意をとどめることができます。1→ 2→ 3→ といった「数の連続性」が、呼吸への専念を助けてくれる。見えない息に「番号」をふっている、とも言えます。

 

1から10までの数字のかわりに、リンゴ、ミカン、バナナ、イチゴ、スイカ、メロン…とかの「フルーツ」とかだともうダメです。連続性ないから。丸暗記しても「メロンの次は何だっけ?」とか絶対なります。

 

リンゴ、ミカン、タマゴ。ほらもうダメε-(´∀`; )

 

十二支とかなら、まだね。ね、うし、とら、うー。そのあと、あやふやですが。しりとりなら? こぶた、たぬき、きつね、ねこ。うん、これなら連続性あるし、いけるかも@(・●・)@

 

何が言いたいかというと「数は便利だけど、連続性にまどわされるな!」ということです。よくわからないと思うので、説明します。

 

数息観でやりがちなんですが、「1から10までくりかえし数える」が目的になってしまうことがあります。あと、間違えずにかぞえられたら「やった、俺!」とか。数のカウントが先行して、そっちに息を合わせてたり。

どれも本末転倒です。本来、息に専念するための「数」なのだから。数にひっぱられちゃダメです。

 

数には1から10までの連続性があるがゆえに、「惰性で10まで数えられる」ようになる、そういう落とし穴もあります。かぞえてるつもりが「1から10まで数えてるという雑念」に持ってかれてるだけで、息からは離れてるという。だから「慣れは禁物」だったりします。ひと呼吸、ひと呼吸、二度とない瞬間を、かぞえる。

 

坐禅の原則に照らしあわせても、過去から未来へ向かう時間の連続性は「ない」はずなので、数の連続性も「ない」はずです。

 

1→ 2→ 3→ の「→(やじるし)」が消えて、1。2。3。とひと呼吸ごとに完結してく感じ? この感覚が出てくるとしめたものです。

 

1の次は2、その次は3、次は4という「連続性のやじるし」を一度消す。

「1たす1は2 」という足し算思考を教わる前の世界に、一度もどる。

「1たす1は、1と1」の世界?

 

よくわからないと思うので説明しますね。一度切ります。 

呼吸はいつでもマイペース

もうむかつくくらいにね。マイペースなんです。呼吸の話、数息観の話をします。吸って吐いてる息にあわせて、ひとーつ、ふたーつと1から10までくりかえし数える方法が「数息観(すそくかん)」。数をかぞえるだけなのでシンプルだし、宗教くささもうすいので、坐禅をはじめるのには一番良い方法だと思います。電車とかでもできるし。手足組まなくても、立ったままでも。

 

前も書きましたが、1から10までくりかえし続けるのが、意外とむずかしい。「…六ーっつ…むっつ…あれ、七つだっけ?」と途中で数が飛ぶ。飛ぶんです。

紙にも書かず、声にも出さず、つまり外部からの映像や音声の力を借りず、イメージだけで1から10まで数えつづけるのって、けっこう大変なんです(呼吸してるという触覚の助けは借りてますが)。外側に意識をむけずじっとしてるって、普段やらないから。

手足を使わずおしゃべりもせず、なんかムズムズ、イライラ。そのムズムズやイライラにどう対処すればいいか、これがまたわからない。

坐禅してない人でも、電車ですわってる時とか、じっとしてられないでしょう? 手持ちぶさた。何かせずにはいられない。

スマホいじったり音楽を聞いたり。外部から映像や音声の刺激をいれることで、ムズムズやイライラをまぎらわせる。スマホには指でタッチするという触覚の刺激もありますね。ゲームしてる人とかすごいですもんね。ブオーーーーーーー((((;゚Д゚)))))))ってすっごい勢いで何か飛ばしてる。タマみたいなやつ。

 

イライラやストレスもいっしょに飛んでけばいいのですが、「気晴らし感」みたいなものはあっても「頭スッキリ」とはならない。カッカ、ざわざわした感じが残る。ムズムズ、イライラのもとです。いわゆる「雑念」というやつ。これがそのうち「あれ食べたい、あそこ行きたい」とかの形をとり、あいかわらずの手持ちぶさたと結託して、食べログで検索を始めるとかの行動に移るわけです。

レビューのわりには麺がのびてたりすると、またイラついたり。おおもとのイライラの原因は「麺」じゃないんですけどね。ずっと放置している自分の雑念です。

 

この雑念とイライラのループを止めるのに、数息観は有効です。

 

吸って吐いてる息に1から10までの数を合わせていくことで数だけに専念する、息に専念する。結果、ムズムズやイライラに気を取られなくなってくる。ザワザワしてた頭が静まりはじめる。「あれ食べたい!あれ食べたい!あれ食べたい!」と雑念がしつこい時は、「あとで! あとで! あとで!」と頭の中で返します。これで案外黙ります。

 

この「あとで!」はどんな雑念にも効きます。「あとで!」もまた雑念なのですが、雑念で雑念を消すというひとつのテクニックです。で、大事なのは同時に「六ーっつ、七つ」と息をかぞえるのを忘れないこと。雑念を消すのが目的ではありません。呼吸に専念することです。

 

やってるうちに実感すると思いますが、呼吸ってマイペースなんです。すっごい鈍感なウシ?みたいな。こっちはイライラ、ムズムズ、腹ぺこなのに、我関せずと息をしている。どんな時も雄大に。失業しても、フラれても、不幸のどん底でも・゜・(ノД`)・゜・

本当にこっちの気持ちや事情にお構いなしなので、ちょっとむかつきますけど。でもたのもしいやつです。

 

呼吸が息をしている。こっちの事情にお構いなしで。この感覚がわかりだすと、数息観がおもしろくなります。 

只管打坐ができるようになった その3

坐禅のブログをはじめてから「テキトーなことも書けないな」と、前よりまじめにすわるようになりました。いままた師匠のシスター青木から公案をいただいているので、公案に参じてもいるのですが、「公案に参じる準備」として数息観からやり直すことにしました。その後に公案公案は「試合」というか指導者との「実戦スパーリング」のようなものだと僕はとらえているので、基礎の練習をしておかないとリングに上がれないのです。だからまずは「数息観」。

 

数息観は、呼吸に合わせ数をかぞえることで自覚や観察ができるようになる、すぐれた方法だと思います。1から10まで飛ばさずやるの、意外とむずかしくて。僕もしばらくなまけていたので、久々にやってみたらうまくいきませんでした。六っつまで数えたか、七つだったか、なぜかそこで「?」と止まる。1からまたやり直しです。

 

そうしてしばらくのあいだ、ひとつおぼえのように数息観ばかりやってたのですが、「ひとーつ、ふたーつ」というカウントがだんだん邪魔になってきました。なのでカウントをはずして、鼻の息の出入りをみていく随息観にしました。これもしばらくはよかったけど、今度は「鼻」がうざくなってきた( ´Д`)y━・~~

(「数」にしても「鼻」にしても、形のない息にかたちを与える「目印」にすぎず、禅が深まると息と一体化して、同化して「消えた感じ」になります。なので気にならなくはなるのですが)

 

なんかこう、こころからだ全部で息をしたくなってきた。数字や鼻といった目印をつけることなく。空間をあますことなく。全方向で。外からも内からも。

同じころ、坐禅中に表面からアイスのように溶ける感覚が出てきました。また今まで窮屈でしかなかった「坐禅の姿勢」、半跏趺坐(はんかふざ)と法界印(ほっかいいん)で手足の自由をうばうアレ。あれがひとつにまとまってきたというか。あの姿勢、「よくできた折りたたみ傘」のようにコンパクトで、ハマると気持ちいいんです。手足の自由をうばわれ、むしろ自由!?みたいな。日常の身体感覚とは逆方向の「統一感」みたいなものがでてきた。「溶ける感覚」も全身均等です。肌の表面も、内側も、体の奥の方も。同時に、頭からみぞおちあたりまではがらんとした空洞で、チクタク、チュンチュンと時計の針や鳥の声が響いています。表現が難しいのですが、「トロトロ」と「がらんとした」、ふたつの身体感覚が重なりあってる感じ。

 

私たちのいる、この空間です。

 

からだとこころがトロトロにとけ、ほどよく混ざっている感じ? そこには呼吸も雑念も、時計の針も鳥の声も、その時そこにあるものが全部混ざってます。「何十品目の野菜ジュース」みたいな?

 

そうだ、「坐禅してる状態」を「野菜ジュース」にたとえましょう。たとえば雑念が「良くないもの」だとして、子供の苦手な「ピーマン」や「ニンジン」だとします。たぶんちょっと前までは、うまくミキサーにかける(ただすわる)ことができなかったので、まざってない大ぶりのピーマンやニンジンの味がすると(雑念に気づくと)「まずい!」と吐いてたんです。「俺の坐禅は雑念だらけでダメだ!」と。

それがなぜか最近のジュースはよくまざってるので、どこからどこまでが「ピーマン」か「ニンジン」か「雑念」の味なのか、わからない感じなんです。トロトロとなんとなく、最後まで飲めちゃう( ´ ▽ ` )ノ

「数息観」や「随息観」は、「塩」や「砂糖」といった調味料のようなものかな? 入れると飲みやすくなるけど、野菜のおいしさがわかればなくてもいい。ない方がいいのかもしれません。

 

もちろん雑念が少なければ、それはよくすわれます。なんだけど、雑念があってもなくても、ただ「すわれる」ようになってきた。「俺の禅はダメ」という自己嫌悪や自己否定を、禅が押し流すようになってきた。いいから、すわれ!と問答無用な感じが出てきました。ただすわる、「只管打坐」の準備ができたのかなと思っています。 

 

 

 

 

只管打坐ができるようになった その2

只管打坐の話をするのでしたね。「ただすわる」、その前提として「考えや感情をはっきりと自覚できる」ことが必要で、そのために「数息観」や「随息観」から始める、というところまで説明しました。

 

僕の場合でいえば本当はその後、当時の老師から「無字」に代表される公案(いわゆる禅問答をイメージしてください)をいただき、それを腹に据えてすわる「看話禅(かんなぜん)」を経ているのですが、今回の記事ではそのプロセスは省略します。大事なプロセスなのですがいろいろと書きにくいので、日を改めて書くことにします。

 

さて数息観や随息観ですわれるようになりました。ひとつ、ふたつと息をよすがに、頭の中の考えや胸をよぎる感情、体のあちこちの感覚が自覚できるようになります。

息の吸う吐くがちいさくなって、しいんと静かになってきます。考え、感情、感覚もしだいにネタ切れを起こして、たまに「何も考えてない」空白が訪れたり。人間、ずーーーっと雑念にまみれてることもできないんですよね。やっかいな雑念ちゃんにもスキはある(゚O゚)。この「何も考えてない空白」は初心者のうちから経験できるので、これに気づくのを初期の目標にするのはいいと思います。ひとつの達成ととらえ、その瞬間を増やしていけばいいと思います。ポイントをためるように。

空白が多い時、調子の良い時は時間を忘れます。きづいたら25分過ぎてたり。10秒たらずのいきおいで。

 

ですがいつも調子がいいわけではないので、たいていは雑念、つまり何らかの考えや記憶がまつわりついた状態ですわることになります。耳の奥で「ジョジョの奇妙な冒険」の主題歌が鳴ってたりね。他はほぼ空白でパーフェクトなんですけど、オララ、オララとシミのように。ついコーラスをかぶせたくなるけど、ちょっと待って。

こういう時はこの「オララ」という雑念を「相手にせず、邪魔にせず」ということが推奨されます。つかまえない。追いかけない。ほっとけば消えてくから。と教わります。観察の立ち位置を忘れないことですね。スタンドなんて幻覚です。

だけどしつこいやつはなかなかどかないし、どいても別の雑念が来ます。オラオラオラオラオラオラオラオラ。。。それらも全部ほっとけばよいのですが、終わった後に「今日も雑念だらけだったなあ」とモヤモヤしたり。「またジョジョかよ」とかね。最近のオレの坐禅はダメだ!日常でもろくなことがないし!とか、くじけそうになるんです。坐禅なんかやっててても、いいことないじゃないかって。

 

なんですけど最近ね、それもひっくるめてすわれるようになってきたんです。これがたぶん只管打坐のコツです。