息をかぞえて

禅・こころとからだ

自分発、で生きていく。

気分というのは明るいものであれ暗いものであれ、人々の心に「共鳴」を起こすところがあります。前回の記事では、いま世界を騒がせている新型ウィルスにかけて、人々の間で恐怖心が「感染」していると表現しました。それは一種の「集団ヒステリー」であるとも。そして坐禅や瞑想は、それらに対する予防法になるとも。

 

坐禅や瞑想といってもさまざまな流派や方法があると思うのですが、共通しているのは、ある決められらた形をとり(脚を組んですわるとか)、何か対象を決めて、そこに繰り返し気持ちをむけていくこと(呼吸の出入りをみるなど)だと思います。

 

ひとつ動かないところを作っておいて(すわる)、動きつづけるもの(吸う息、吐く息)に気持ちをむけつづける。そうして自分自身を定点観測するんですね。

 

土台となる「動かないところ」とは、まずは自分の体です。だから大きな怪我をしていたり、体調がものすごくわるい時などは、その土台をつくることもできません。脚を組んですわるにも、それなりの体力が必要です。

 

もう一方の「気持ちをむける対象(動きつづけるもの)」には、呼吸の出入り、数(ひとつふたつと数える)、体の一部(鼻先とか下腹部とか)、ロウソクの炎、目の前の壁、マントラ(「オーン」などの宗教的音韻)、シンボル(神仏などの象徴的図像)、特になし!(特定の何かではなく、なにもかもに気をむけることができている)など、さまざまなものがあります。

さまざまなものがあるのですが、むけている気持ちと、その気持ちをむけている主体は、対象がなんであれ、いつだって同じものです。

 

見えているもの、聞こえてくるものがなんであれ、「それらを見聞きしている主体」はいつも同じなのです。けして変わりません。

 

見るものが違っても、まわりが騒がしくなっても、心はコロコロ変わっても、決して変わらぬ同じところから、みたりきいたりしています。東京にいても、大阪にいても、外国に行っても、変わりません。

 

だから人って本当は、つねに自分発、なんですよね。私たちはいつも自分から、気持ちや意識を全方向に発信して、色、音、においなど、さまざまな対象を認識しているんです。寝て、起きて、そうして世界ができていく。

 

朝、目がさめる時、まぶしい光がさしこんできたり、鳥たちの声が入ってきても、(自我の感覚としては「光が目に、音が耳に、入ってきた(向こうから来た)」と受動的ですが)、その「光や音の通り道」となる意識を、まずは自分から発信しているんです(自我から、ではありません。いつも「オレだよオレ!」と自己主張している自我、エゴ、自意識は、この段階ではまだ寝ぼけてます...zzz ややあって、意識がとらえた光や音をみてから「オレは見た! オレが聞いた!」と一番乗りを自称するのです。やれやれ。。。

ここでの「自分」とは「意識の根源」のようなもので、それを体験的にしっていくのが坐禅や瞑想の試みです)。

 

眠りの深い闇からさめ、ふたたび(五感や自我をふくむ)意識を全方向に発信しているから、そこを通って、光や音も「やってくる」ことができているんです。

 

人はみな自分発で意識をひろげて、世界を認識しています。「あたしはいつも受け身〜」な人も。「まわりに流されやすいんですぅ」とおっしゃる方も。それは自我や性格が受動的なだけで、おおもとの意識は、誰もが自発的です。人だけでなく、生きものは皆そうでしょう。

 

だからたとえば1日5分瞑想するなら、それは5分間の「自分発」の時間をもつことになります。15分なら15分、1時間なら1時間、坐禅や瞑想を行うことで、「自分発」の時間、つまり自分から意識が発信されて、まわりの世界を認識していく(そしてそのプロセスをつぶさにみる)時間をもつことになります。

 

そのとき認識される「まわりの世界」には、「私の体、私の心」の感覚もふくまれています。

 

ぐぐーぅっと腹の底から持ち上がる力につられて伸びる背骨。ドクン!と脈打つ仙骨のあたり。びりびり、ちりちり、微弱な電気のように、そこここを走る血流。

 

たっぷり風呂釜に沸いたお湯をかきまぜるように、全身が液体や気体のように循環しているのを感じます。それは血液かもしれないし、神経の電気信号かもしれないし、「気持ちと生命力がまざりあったもの?」が流れているようでもある。

 

想いや記憶、さまざまな感情のうごきも、身体感覚とごっちゃになって流れだします。

 

想念や感情もやはり微弱な電気のように、ちりちりぴりぴり走っています。大きなものは、かたまりのようです(熱をもった毛糸の球みたい)。不思議なもので想念は、体の内側だけでなく、外側からもやってきて、くんずほぐれつ、「私の心」を形成していきます。ということは、心は体の外側にもあるのか!?

 

身体感覚、想念、感情、記憶。それらを全部ごった煮にしたエネルギーのような感覚。ドロドロの寄せ鍋のように赤黒く濁っていきますが、ある時点でウソのように清冽にすみわたります。すーっとすっきり、全身の意識が明瞭になります。ピカピカにみがいたガラス窓のように、そこから見える世界も晴れやかになります。

 

 

体も心も、じつは「一番ちかいところにある世界(の一部)」なんですよね。意識の奥からみていくと。「オレの一部」である前に「世界や自然の一部」なんです。

 

そのように自分自身を定点観測していくと、かすかな息の乱れや、体や心のわずかな違和感にも、気づくようになっていきます。

 

そして息や体が、つねに循環しながら、みずから均衡を保とうとする様子もわかってくるので、(自我をもってそれに逆らう行動をしないかぎり)心身の調子を大きく崩すこともなくなっていくように思います。

 

坐禅や瞑想には「場を平らげる」ような力があると思います。荒れる波の大海に、呼吸で錨(いかり)を深くおろし、プカプカ浮いていられるような。波がおだやかになるまで、ずっとそこで浮いていられる。

 

ふかく落ち着いていれば、ものごともよくみえ、浮足立つこともなくなります。

 

必要のない情報や、集団ヒステリーの死の風も、右から左に吹きぬけていきます。

 

「自分発」の順番で世界とかかわっていけば、人の意見や社会の空気に、左右されなくなるものです。表面上の変化に惑わされなくなる。いちいち反応しなくなる。心の変化は、まわりの状況にも影響を及ぼします。「私の心」も「世界の一部」なのですから。

 

「ウィルスこわい」や「〇〇国の人、だいきらい」といった集団ヒステリーも、落ち着いて見られるようになると思います。無視したり、上から目線で逃げるのではなく。「渦中にありつつ、巻き込まれてはいない」みたいな、ぎりぎりの心構えで事にあたれるようになる。

 

 

文明や人々の心がどんな方向にむかっている時でも、自分にとって一番近しい「息」や「体」に慣れ親しむ時間をもち、そこから一日を始める。基本的な安心感がちがってきます。

 

息や体って、人が作ったものじゃないんですよね。もともと自然にあるもので、どこまでも人工物である文明や、どうしても近視眼的になる人間の考えでは及ばない、大きな流れのなかにあるように思えるのです。そして坐禅なり瞑想なりを毎日おこなうことで、その恩恵にあずかれるものだと、僕は思っています。