息をかぞえて

禅・こころとからだ

サンガくらぶ番外編 塩澤賢一3連続ヨーガ講座「呼吸をしずめ、心をしずめる」(全3回をふりかえって)

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今年の
10月から月イチでやってきた3連続講座も、おかげさまで無事終了しました。この3連続講座の内容をもとに、塩澤賢一先生のヨーガの本をつくります。2020年7月、(株)サンガより刊行予定です。よろしくお願いします。

 

さて、1212日(木)におこなわれた第3回のテーマは「アーサナ」でした。「アーサナ」は「姿勢」を意味する言葉で、一般的には「ポーズ」とよばれることが多いかもしれません。「猫のポーズ」とか「戦士のポーズ」とか。僕もヨーガをはじめる前は、「ヨガって、ストレッチ的な体操?」とか思ってました。

ところが塩澤先生によると、すべてのアーサナは「パドマアーサナ(蓮華坐)」の変化形ということで、要は、脚を組んで手で印を結ぶ「瞑想坐法」がまずあり、そのヴァリエーションとして、まげたり、のばしたり、ひねったりの、多種多様なアーサナがあるということになるんですね。

ですので、アーサナはストレッチ的な体操ではなく、さまざまな形の姿勢をとりながらおこなう、瞑想の一種ということになります。

 

またそれはハタヨーガの原則でおこなわれるもので、呼吸は酸素だけでなく、生命エネルギーであるプラーナを意識して(最初は、なんとなくのイメージでよい)、骨や筋肉や皮膚といった肉体にとどまらず、エネルギー的な身体へと、徐々にはたらきかけていきます(これも最初はイメージするというか、感じようとすればよい)。

 

プラーナを感じる方法として塩澤先生が紹介したのが、「手のひらを感じる」というもの。

静かなところで、息が落ち着いた状態でおこなうとわかりやすいのですが、手のひらにじっー…と意識をむけていると、呼吸と同調して、手のひらの触覚も、わずかにふくらんだりちぢんだりを繰り返しているのが、感じられてくるんですね(坐禅をしている人なら、「法界定印を組んでいる時の手の感覚」といえば、ピンとくるかもしれません)。

 

これがプラーナの動きというか、プラーナを体感する第一歩となります。エネルギー的な身体としての「手」を感じる。僕の場合、指先がビリビリ、じんじんするような感覚も出てきて、これは毛細血管の血流とも関係しているようです。あとは手のひら全体が、サラミソーセージのような赤白のまだら模様になったり。

 

「まず最初に生命の風であるプラーナが流れ、その先導で血液が流れていく」というのが、塩澤先生いうところのハタヨーガ的な身体観となります。

 

アーサナも、このような身体観、身体感覚のもとでおこなっていきます。

 

というと、なんかむずかしそうですが(というか怪しい!?)、やることとしては、息と体と相談しながら、背骨を中心に体のいろいろなところをまげる、のばす、あるいはひねる。動きそのものは、どれもシンプルで自然なものです。呼吸と動作を同調させるコツをつかむまで、一定期間の反復練習は必要ですが、老若男女、だれにでもできるものだと僕は思っています。

 

一般的に普及しているフィットネス的なヨガとの一番のちがいは、やはり「呼吸の質」でしょうか。

 

アメリカを経由しているフィットネス系のヨガは有酸素運動でおこなうものが大半だと思います。なかには「空気中のプラーナを吸って!」とのインストラクションがなされるものもありますが、とある大手のヨガスタジオで僕が体験したものは、あくまで概念的に「プラーナ」と言っているだけで、おこなっているのはやはり有酸素運動であり、筋肉と骨格のみを対象としたストレッチ的、筋トレ的な体操でした。それはそれでスッキリして、気持ちいいんですけどね。でもプラーナが通うときの感覚とは、似て非なるものです。

 

プラーナをかけておこなうアーサナは、もっと深いところまで、体の奥や末端のすみずみまで、意識と呼吸がゆきわたっていきます。やっている最中、終えた後。すーっと澄みわたる感じが出てきます。

 

そのあたりがやはり瞑想的なんですよね。スポーツでいい汗かいた後の爽快感とは、ちがうんです。

 

ハタヨーガは、プラーナやエネルギーの体といった「見えないもの、さわれないもの」と、肉体(見える、さわれる、感じられる)を、ひとつのものとして動かしていくので、そこがむずかしいといえば、むずかしいのかもしれません。特に「見えないものは信じない」価値観の人がおこなう場合には。

ただ、プラーナもエネルギーの体も、「見る、さわる」はできなくても、「感じる」ことはできるだろう?というのが、経験にもとづく僕の考えです。

 

とはいえ「感覚」もあくまで主観的なものなので(もちろん他者と共通する部分もありますが)、不特定多数の人に、本や文章で伝えていくのは、なかなかむずかしいかもしれません。

 

なるべく多くの人が読めて、役立てることのできる本を、作りたいと思っています。