息をかぞえて

禅・こころとからだ

すべてを失っても、なくならないもの

ブログの更新頻度はめっきり落ちましたが、坐禅とヨーガ瞑想は順調につづいています。

以前は接心や合宿で数日すわりつづけて訪れていた心身の状態が、朝の20〜30分で訪れています(そこからが本番で、まだまだですけど)。

聖心会の青木義子先生、アーディヨーガの塩澤賢一先生。すわる場を提供してくださり、適切であたたかい指導をしてくださる先生方にもめぐまれているのだと思います。

坐禅と瞑想のちがいも、さほど気にならなくなってきました。別物ではあるのですが、それは「うどん」と「そば」くらいのちがいで、どちらでも腹はふくれると感じています。もちろん、うどんはうどん、そばはそばなので、ごちゃまぜにはしない方がいいと思いますけど。

 

坐禅であれ瞑想であれ、すわっていると思いがしずまっていきます。一時的に、ある思いが激しくなることもありますが、ひとしきり暴れると、その思いもエネルギーを使い果たし、(心を乱すだけの)力は持てなくなります。

しずかな状態に、なじんでいきます。

 

すわり終えると、またさまざまな思いが戻ってくるわけですが(その日のスケジュールとか、ずっと気にかけていることとか)、人の生活って、思いに支配され、思いに追い立てられているのだなあと実感させられます。「今日中にこれやらなくちゃ」「それが済んだら、あれやらなくちゃ」といった具合に。思いが数珠つなぎのように延々と続き、気の休まる暇もない。「思いの奴隷」のように、人が思いにこき使われている。

(ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる「時間どろぼう」も、行き過ぎた「思い」の連鎖から生まれたものかもしれません)

 

「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」

「あれが足りない、これも足りない」

人が生活していくうえで必要最低限の「やるべきこと」「手に入れるべきもの」は、確かにあると思います。

ただ多くの場合それは、「思い」によって「必要以上のもの」に増幅され、誇張されたものがアナウンスされている気がします。それぞれの人の「心の声」として。結果、いらないものまで求めてしまう。

 

人の生活は、日々、何かを得たり、失ったりの連続だと思います。一日生きれば一日ぶんの寿命を失い、一日ぶんの新たな経験を得る。その経験の中には人間関係や、健康、仕事、お金、持ち物、さまざまなものが含まれます。さまざまなものを誰もが「得たり」「失ったり」しているのが、人の暮らしなのだと思います。

 

誰でも「今の自分が持っているもの」を思い浮かべることができます。それは現物を伴う財産だったり、目には見えない経験だったり何かの技能だったり、アイデンティティとなる思想や立場だったり、愛情や心のつながりだったり、さまざまなもので構成されています。

また反対に「自分が失ったもの」も浮かんできます。こちらは大体、過去の思い出や後悔とむすびついているはずです。

 

坐禅や瞑想がうまくいくと、「自分が得たもの」からも「失ったもの」からも、しずかに離れていきます。

そしてここからが大事なのですが、「得たもの」から離れていっても、「失ったもの」から離れていっても、何も無くなっていないところで、すわっているのです。

「これまで得てきた一切合切をなくしても、身体の一部や機能を失っても、何も無くならないのだな」という、たしかな自信に出会います。

 

これは自分の持ちものに依存しない、根拠のない自信です。傷つけることも、汚すこともできません。

 

この自信に気づき、それが持続するようになれば、生活のなかで何かを得ても失っても、大さわぎすることはなくなると思います。環境や他人の思惑にふりまわされることも、減っていくように思われます。

状況はごちゃごちゃしたままなのですが、それがとてもクリアーにみえているというか。傍観や現実逃避とも少しちがって、必要な時は体がうごきます。おそらく、その時最適な行動をとるようになる(それで問題は解決しなくても、その時とれるベストの行動をとる)。

 

まずは「すわっている時の状態」をよく自覚する。その感覚になじんでいく。それが定着するにつれ、普段の生活でも「すわっている時の自信」が、はみだすようになってくる。

変化は少しずつで、時間もかかりますが、そうすると自然なペースで生きられるようになる。「生きづらさ」のようなものから、解放されていくのだと思います。