息をかぞえて

禅・こころとからだ

「見える」が映っているところ

前回からの続きで、なかなか理解してもらえない感覚かもしれないんですけど、さいきん「見える」ってすごいことだなあと思うようになってきています。

 

「聞こえる」「さわれる」「味わえる」「においがする」も。

「寒い」とか「熱い」と感じられることも。

「思い出せる」とか「考えることができる」ということも。

 

全部あたりまえのようにやっていることだけど、「なぜそれができるか?(そういう現象が起きているか?)」をよくよく考えてみた時、「自分を含め、じつは誰もよくわかっていないみたいだ」ということがわかってきて、「見えるって不思議なことだったんだなあ」と思うようになってきています。

いま僕は編集画面でこのブログのこの文章を「見ていて」、みなさんはアップされたブログとしてこの文章を「見ている」と思うのですが、その「見える」はどこで起きているのか?
「ブログを書いている僕」と「ブログを読んでいるあなた」は、時間的にも場所的にも違うところで「この(同じ)文章」を「見ている」わけで、常識的にかんがえればそこにはズレが生じています。

違う時間に、違う場所で、それぞれに「見て」いる。僕はいま吉祥寺のフレッシュネスバーガーにいて、2019年の1月31日、19時14分にこの文章を「見て」いるのですが、あなたはいま場所的にも時間的にもちがうところでこれを「見て」いるはずです。

生理的な機能(視神経とか脳とか)でいえば、僕もあなたも同じところが同じように機能しているはずで(同じ「ヒト」という生き物なので)、「同じ仕組み」で「見えている」のだと思います。
ただ僕が問題にしているのは「仕組み」ではなく「この目の前の(いまでいうならこのブログの)映像がうつっているのは、どこなのか?」ということで。前回からさんざん言ってますが。

 

「このブログの、この映像は、どこに映っているのか?」

 


まだ仮説の段階で確証はないのですが、さいきん思うようになってきたのが、「それがあるところに、映像そのものとして映っている」「映るということが見えるということである」という可能性です。

 

もうすこしわかりやすく言うなら、無色透明ですくなくとも3D以上の構造をもつスクリーンのようなものがこの「世界」とか「意識」とよばれているもので、このブログの文章、私のタブレット、あなたのスマホもしくはPC、手、机、などなど、「いま目の前に映っているもの」はすべてその「意識」に映っている。それを「世界」と呼んでいる。このブログをはじめた頃から、同じようなことは言ってたと思いますが、より確信は深まってきています。

 

意識は無色透明で、いまのところ観測のための機器も発明されていないようなので、科学の「観察対象」にはならず、科学的に語ることはできないけれど、科学的に語れないというだけで、我々みんな体ごと、どっぷりとそこに浸かっている。

 

禅や瞑想をやっている人でもないかぎり、なかなか理解してもらえない感覚だと思うのですが、私が見ているこの映像も、あなたが見ているこの映像も、「(意識という)おなじところ」に映っているのではないか? 

 

「おなじところにうつっているもの」を、別々の場所、別々の時間に、別々のからだを介して「見て」いる。

(前回から問題にしていた、記憶や想念、それらが想起するイメージも、それそのものとしてそこ(意識)に浮かんで、見えているのではないか、と思っています)

厳密には「映るものを見る」(見る→映っている)という関係性ではなく、「映っている時点で見えている」(見る=映る)という関係性で、「別々の場所、別々の時間、別々のからだ」というのが「観念がみせている錯覚」であり、我々はそれぞれの自意識を通して「個々が分離しているという幻想」をみていることになっています。禅や瞑想の世界観ではね。

 

 

「意識」って、「空間」や「空気」や「日光」とおなじように、「みんなで共用してるもの」だと思うんですよね。地面は「土地」(所有)の概念をもちだして「ここからここまでウチの土地だ!」と独占することもできるけど、空間や空気、陽の光となるとさすがに無理があります。このさき世の中がもっとせちがらくなって、「空気使用料をはらいたまえ!」とか言い出す輩が出てこないともかぎりませんが、彼らにしても本当の意味での「所有」はできません。むちゃくちゃないいがかりをつけてるだけで。空気も空間も(本当は海も大地も)みんなで「共用」しているものです。


「共用」しているからみんな、同じ空間の同じ座標上に、たとえば「1個のリンゴ」といった同じものを認識することができる。果物屋でおばちゃんが「このリンゴひとつちょうだい」と言って、店のおっちゃんが「これな?」と応対する時も、「同じ意識のスクリーン」を「共用」しているからこそ、そういうことができる。別々の人どうし、同じリンゴを見ることができる。


全体的な「意識」と個々人の「こころ」の関係は、「広場」と「ブルーシート」にたとえることができます。

 

ちょっと先になりますが、お花見のシーズンともなると、みんな公園の広場にブルーシートをしいて酒盛りをしますよね。「ここからここまでがウチらの場所!」というのがブルーシートが持つ意味で、それってまさに自我的な「こころの範囲」と同じ線引きだと思うんです。

ブルーシートはたしかに「ウチらの場所」でもあるんでしょうけど、そのブルーシートが敷けているのは誰のおかげじゃ? と問われれば、その下にある「地面」のおかげなわけです。「大きな広場」があるから、その上にのっかってみんな「うちらうちら」とシートが敷ける。

 

「広場」が「意識」で、「ブルーシート」が「個々人のこころ」です。

 

半畳くらいの狭いシートもあれば、柔道場くらい広いのもあるでしょう。かたちもいろいろでしょう。

 

何かの拍子で隣のグループと揉めることもあるでしょうし、見知らぬどうし仲良くなることもあるでしょう。

 

どちらにせよ、広場全体が地続きになっているから、シート間の行き来ができてるわけですよね?

 

個々人のこころも、別々ながらに交流できるのは、それぞれが「意識」で地続きになっているから、だと思うんです。

 

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このバラバラの青い枠に、一斉にリンゴが映ったりもします。その時、「みんなでリンゴを見ている」が起きている。

 

 でもってワクをとっぱらえば、広場全体にすわれるよというのが、坐禅であり瞑想なのだと思います。広場全体にリンゴが映ります。広場全体がひとつのリンゴです。禅の公案に「庭前柏樹子」、悟りとは何か?と問われ、そのとき庭に見えた柏の樹を示した、という問答がありますが、この時は意識全体に柏の樹が映り、意識全体が一本の柏樹だったと思われます。そしてここがミソですが、庭前柏樹子(9世紀の中国での出来事)で柏を映した意識は、いまこのブログ(2019年の日本での出来事)を映している意識と全くおなじものというところです。時代も場所も関係がない。庭前柏樹子も、果物屋での「リンゴ」「これな?」も、起きてることは同じこと。そういうところに我々もいる。

 

図では便宜的に緑の点線で「広場」を表現しましたが(面積があるように見えますが)、じっさいは「意識」なので、大きさも範囲もかたちもありません。ということはそこにあるブルーシート、つまり個々の「こころ」も、大きさも形もないことになってきますね。書いてて今気づいたけど、なんてこった。

 

坐禅や瞑想中は、形も重さもある肉体をもちながら、大きさもかたちもない、時代も場所もない、意識の広場にすわっていることになります。肉体として物質の世界に存在しつつ、形なきこころ(意識)の世界に踏み込んでいるようです。