息をかぞえて

禅・こころとからだ

我々はどこで「見ている」のか?

「こころの声を聴く時」にもつながる疑問なんですけど、記憶を思い出している時、そのイメージの映像って、我々はどこで見てるんでしょうね? 「記憶やイメージが思い浮かぶ時、それはどこに映っているのか?」でもいいんですけど。

 

こころの中? 頭の中? 脳味噌の中?

 

Googleで検索したり、一般向けの脳科学の読み物(『意識をめぐる冒険』(クリストフ・コッホ著)『意識はいつ生まれるのか』ジュリオ・トノーニ著)など)を読んでみましたが、はっきりした答えはみつかりません。

 

視床ー皮質系の堅固な中核には、刺激に対する反応のレパートリーが潤沢につまっており、見たり聞いたり感じたりすることにおいては感覚器官の影響を受けるが、感覚器官の協力がなくてもやはり、見たり聞いたり感じたりできる。だから、大脳皮質のニューロン(※神経細胞の名称。筆者註)に電気的な刺激を直接与えると、ある感覚が意識に浮かぶということが起きるのだ。目を閉じても情景を思い浮かべたり夢に見たりできるのも、同じ理由からである」(『意識はいつ生まれるのか』より)

 

といったぐあいに、大脳皮質のある部位が記憶(にまつわる映像などの感覚)の想起に関係してはいるようです。ただ一般向けの読み物のせいか、どこを刺激すれば見たり感じたりできるのか、その具体的な位置の特定がされていないので、もうひとつスッキリしないんですよね。大脳皮質って要は脳の表面ぜんぶのことだと思うので、「大脳皮質のニューロン」っていわれてもなあ(視覚的記憶が浮かぶ時に脳のどこが働いているか、ご存知の方がいたらご教示ください)。

他方、目で物を見る時の「視覚映像」となると、後頭部にある「視覚野」とよばれる脳の領域で(目からはいった光の情報を電気信号に変換し、視神経を通して)処理することで、映像の認識が起きているようです。

 

ただいずれにしても「映像が見えている時、脳のどこが機能しているか」はわかったとしても、そこがはたらくことでなぜ「見える」(映像の認識)が起こるのか? そもそも「認識する」とは、どういうことなのか? それに対する説明は見あたらないんですよね。

脳味噌のどこかがはたらく時、記憶なり物質の「映像」がなぜ我々には「見える」のか?
さいしょの質問に戻るなら「記憶やイメージが思い浮かぶ時、それはどこに映っているのか?」

 

頭の中で、映画やプロジェクションマッピングのような(投影)、あるいはイルミネーションや液晶モニターのような(発光)、なんらかの映像現象が起きているから、我々にもそれが「見えている」のか?
もしそうだとすると、脳内でその映像を見ているのは何ものか? この設問は「ではその何ものかの内側で、それを見ているのは何ものか?」といった終わりなき問いを生むことになり(マトリョーシカのように「中の人」が何重にも入ってる入れ子構造の視点が無限に生まれ)、答えが出ません。

 

「見える」とはどういうことなのか? 「認識する」って言うけれど、その「認識」とやらはどこで起きてるのか? 認識しているときに脳のどこが作動しているか、ではなしに。認識の「場」は、どこに立ち上がっているのか?

 


ここでちょっと瞑想的なアプローチをとってみます。

目をつむります。

 

見えなくなります。

 

本当に?


たしかにまぶたで光が遮られるので「暗く」はなっています。でもそれって「見えない」(視覚が無い)ことになるんでしょうか?

「暗い」という感覚はわかっているわけで。そこに視覚は残っていて、「暗いを見ている」状態ではないのか?

 

まぶたを閉じたまま正面を「見よう」としていると、暗いなかで左右の目がそれぞれ前方にフォーカスしようとする感覚が出てきます。
そのうち両目の先にふたつあった焦点が、中央に寄ってきて一本化されます(眉間の前あたり)。
さらにひとつになったその焦点を後方で、扇形のようにひろがって受け入れようとする視座がでてきます(後頭部のあたりから、さらに後方の空間まではみ出る感じ)。

 

「ああ、見るってこういうことなんだなあ。ふだん目をあけて見てる時も、こうして見ているんだろうなあ」と感じられます。

 

そのまま続けていくと、前後にわかれていた「焦点」と「視座」も眉間の奥あたりでひとつの点にまとまり、そこから同心円状に(波紋のように)ひろがる感じがでてくる。ここまで来るともう「見る」ではなく、瞑想的な意識に移行していますね。

 

一致しているかはわかりませんが、瞑想状態に入る前の「扇型の視座」が感じられる後頭部のあたりって、ちょうど脳の視覚野と重なる領域のようです。視覚野は頭蓋の外まではみ出してはいないですけど。

  

「イメージや記憶の映像って、どこに浮かんでいるのか?」 そもそもの疑問を持つようになったのは10年近く前、坐禅をはじめてすぐの頃。浮かび続ける雑念に「ああうざい、こいつら実体もないくせに、どこに浮かんでるんだ?」と思ったのがきっかけでした。

その疑問につられるように「まてよ、じゃあ目の前に映る実世界の映像はどこに浮かんでいるんだ?」との疑問も出てきました。それまでは「見える」ことが当たり前すぎて、考えたこともなかったけど。

そうなると「想念が浮かんでいるところ」と「視覚映像が浮かんでいるところ」はそれぞれどこなのか? 違う場所なのか同じ場所なのか? という疑問も生まれてきます。

 

我々はふだん「視覚の映像」と「想念の映像」を二重写しのように同時に見てますよね。たとえば僕はいまタブレットでこのブログを書いていますが、画面を見ながら、1時間ほど前に食べたつけ麺(あつ盛り)のビジュアルを思い浮かべています。こがね色の麺からふわあっ!とあがる白い湯気、とろりとからむ茶褐色のつけ汁…タブレットの画面と二重写しで、同時に見えています。(よっぽどおいしかったんですね)

「目の前にあるタブレット」と「さっきのつけ麺」。現存するものの映像と、記憶が想起する映像。映ってるのはいったいどこだ? 同じ場所?違う場所?


まだ確証はもてないのですが、ヒントになりそうな気づきはあります。

 

坐禅を組む時って、まぶたを半分を閉じた「半眼」の状態で行なうので、眼の下半分が「視覚映像」となり(映るのは壁と床と手足だけですが)、上半分は空白の「想念の浮かぶ場所」になってくるんですよね(さいしょ暗いけどぼんやり明るくなってきて、普段より想念が見やすくなる)。そして映っているのはひとつの目玉なので「視覚映像」と「想念」が(質はちがうけど)等価値にみえてくるんです。前者にフォーカスしすぎると現実のまま禅定に入れないし、後者に寄りすぎると妄想にハマる危険性が出てくる。その間のちょうどよいところ。釈迦が説くところの「中庸」を保つことが、ここでも求められるわけです。(つづく)