息をかぞえて

禅・こころとからだ

「毒親」のその先。

なぜすわるか? 僕の場合、そもそものきっかけは親との関係だったように思います。表面上は「何不自由ない家庭」だったけど、コミュニケーションがなかった。親は家庭や子供を管理することばかり考えていて、檻に閉じ込められているようだった。感情を自由に表現することや、本心を言うことが許されなかった。息苦しくて息を殺していた。

 

20代半ばで問題が表面化してから、解決のための試行錯誤を続けてきました。父は途中で亡くなりましたが。

 

今から約10年前、35歳の頃にカウンセラーの青木義子先生と知り合えたことは本当にラッキーでした。約1年カウンセリングを受け、その後先生が紹介してくれた坐禅会に通うようになり、思考や感情をみる「内観」や「アサーション(感情を交えず事実を伝える方法)」の習慣を身につけていきました。

 

こころの自由なありようや、人との関係の基本を学びました。親や学校の先生は教えてくれず、友達からも学べなかったことを学びました。

 

 

話を単純化するために使いますが、両親はいわゆる「毒親」だったと思っています。「毒になる親」。メンタルヘルスの世界ではポピュラーな言葉ですよね。元ネタになったのは『毒になる親』(スーザン・フォワード著、玉置悟訳)。親との接しかたの具体的なテクニックや心構えも書かれている本で、僕もお世話になりました。著者はカリフォルニアのセラピストで日本で刊行されたのは1999年。けっこう前の本ですね。

 

f:id:nowhereman-yes-love:20180105111554j:plain

 

こういった本のおかげもあって、僕は「毒親」との決着をつけることができました。親からの一方的なコミュニケーションを、双方向的なものに改善することができた。20代後半から20年近く費やして(笑)。肉体的暴力こそ振るいませんでしたが、刺し違える覚悟で向き合いました。「対決」の最中は、心から親を憎んでいたと思います。「殺したい」までは行かなくても「死ねばいい」とは思ってた。父にも母にも何度も「死ね!」って言いましたね。それくらい話が通じない人たちでした。自分の言いたいことだけ言って、人の話を聞こうとしない。くやしくてくやしくて。

 

カウンセリングと坐禅。それから読書による気づきなどで(子供の頃から習慣づけられていた)僕の心持ちが変わり、また親の方も年老いて弱り、子供の話を聞き入れるようになってきた。自分の非を認めるようにもなった。コミュニケーションが双方向的になるにつれ、言い争いが減り、ずっと平行線だった会話が「通じる」ようになった。「人間扱いされるようになってきたなあ」と感じたことを覚えています。

 

一番大きな変化は、あやまることができなかった母親が「ごめんなさい」を言えるようになったこと。最初のうちは無理やり謝らせてましたけどね(笑)。

両親から受けてきた「許せない仕打ち」は大小いくつもあって、今もその影響は残っているのですが。でも3年前の夏、ひととおり水に流すことができました。

 

こころもからだも軽くなってビックリしましたね。人を恨んだり憎んだりするのって、ものすごいエネルギーを使うんだなあと。

 

いまは一定の距離を置きつつ、母が一人で暮らす実家をたまに訪れています。父の墓参りも近くを寄った時に。人の基本的な性格や相性は変わらないので、相変わらず母はしゃべりだすと止まらなかったり、受け応えもヘンだったりするのですが(笑)、こんな日が来るとは。

僕も「聞き流す」ことができるようになってきた。以前は「聞き流すのは失礼だ」というガチガチのポリシーがあったのですが、てきとうでもいいんだと。

同じ空間を共有して、そこにいるだけでもいいのかも。生きてる人との関係だけでなく、墓参りとかもたぶんそうですよね。

 

でもここでハッピーエンドじゃないんですよね。母はこの先さらに老いていき、身体も認知も衰えてゆく。そして基本的な性格は変わらず(これまでの蓄積もあって)、ある部分はますます頑なになっていく。

 

人は利己的であるほど孤独になります。「さみしい」と言いたくても、他人(家族も含みます)との適切な距離がわからない人は「どう伝えれば伝わるか」もよくわからない。求めれば求めるほど、周りの人が離れていったり。。。

 

以前なら「毒親!」の一言でかたづけて、「自業自得だから自己責任で!」と放置することもできましたが、今や「元・毒親」ですからね。毒が抜ければただの「親」です。

 

親子なのでね。似たもの同士というか、父や母だけのものと思っていた「自閉気味の性格」や「自己愛的な性格」は、自分にもあるんだなあと思い知らされたり。もっと言えば、親の親、そのまた親から連鎖してるのかもしれない。

 

すわってると、そのへんの全体像が見えてきたりもします。

 

自分も親もその親も、時代時代の「価値観の枠組み」に縛られ、その中で苦しんできただけじゃないのか? その苦しみは代々繰り越され、雪だるま式に膨らみ、風船のように破裂する。もしくはシワシワにしぼむ。その繰り返し。加害者も被害者もいない。

 

 『毒になる親』はアメリカ人が書いた本なので、「個」の視点で書かれてるんですよね。「自分」と「親」の「個 vs 個」の関係から問題を解決していく。それは限定されたわかりやすい視点で、はじめの一歩には最適だと思います。だけど、このやりかたでは途中までしか行けないかな?とも思います。「毒親から逃れる」とこまではきっちり書いてあるけど、そこでプッツリ切れてるしね。その後どうすんの?って感じ。いま読むと、ちょっと「冷たい」んですよ。

 

毒親は悪者 → 切り捨てる → 後は自己責任」的な。癌は切って治す的な? 「悪者」や「邪魔者」をみつけて「排除」していく発想。でも排除してもね、それは「消えて無くなる」わけじゃないんです。視界の外に消えただけで、全体でみれば生きてますよ。

癌もむやみに切らず「共存して経過をみていく」治療方針が支持されてきてるんですよね? 「切る」とか放射線で「焼く」では体を傷つけ、「転移」や「再発」を招くばかり。根治に至らない。今そういうとこまで来てる。癌に限らずいろんなことが。

 

かつての毒が薄れ、でもやはり自分の毒で苦しんでいる「親」。その毒は自分にもあって、自我をもつ「人間」であるかぎり誰にでもある。「毒」とはたぶん「強くなりすぎた自我」のことです。自我が強くなりすぎるのも本人だけの責任とは言えない。周りの環境や社会的要請で余儀なくされることもある。

 

他人の自我はいじりようがないので(そこをいじろうとしたら、それこそ毒親)、今できることは自分の「自我」を禅やヨーガで「解毒」していくことかな、と思っています。どうやらそれって、空間全部に波及していくみたいだし。

 

元・毒親の母に、もう少しやさしくするにも。

うれしい初詣

年が明けました。朝イチで短くすわり、天気も良いので洗濯して、自転車で近所の大国魂神社へ。おみくじは大吉。ここ数年どこで何を引いても末吉ばかりだったので、「やっと来たか」と。末吉って末広がりとか言うでしょ? 徐々に開けていく運勢。だから「今は苦しいがそのうち良くなる」みたいなことが書いてあるんです。毎年毎年ね。

 

 

 

とりあえずひと安心です。

 

f:id:nowhereman-yes-love:20180101140349j:plain

なだらかな息、ぶつからない心。

ずっと晴れ続きでしたが、うす曇りの空。ぐっと冷え、ここ国分寺では粉雪もぱらつきました。一年さいごの日、冬めいてきた感があります。

 

今年は学び多き年でした。特に塩澤賢一先生のヨーガから多くのことを学びました。ここ数年マイペースで続けていた坐禅でつちかっていたものに、別の角度から、はっきりと光を当てることができるようになってきました。

 

「仕組みを理解する」ことが坐禅の目的ではないと思います。が、「坐禅中に起きていることを知る」ことで、すわりかたが工夫でき、結果「よくすわれるようになる」のはよいことだと思います。坐禅を続け、深めることができる。

 

坐禅でもヨーガでも「呼吸」に注目していきます。さまざまな呼吸法やアーサナで息をととのえていく。呼吸と、体の動きと、心の動きが一致するように、調和するように。「浅く短い息」から「深く長い息」へ。「荒く乱れた息」から「静かで穏やかな息」へ。

 

図にしてみます。

 

f:id:nowhereman-yes-love:20171231113322j:plain


心電図ぽいですが、吸って、吐いて、をくりかえす「呼吸の波」です。山から谷への振幅が大きいですね。荒い息、乱れている状態です。で、「呼吸=心」ということにして話を進めます。

 

ここに頭の中の雑念や、外部からの刺激(視覚、聴覚、皮膚感覚など)が飛んできます。

f:id:nowhereman-yes-love:20171231115253j:plain


 飛んできた雑念や刺激は、呼吸(心)の波に衝突します。波の振幅が大きいほど、ぶつかりやすくなります。言いかえれば、呼吸の揺れ、心の揺れが「壁」となり、思いや刺激と衝突する。いちいち反応してしまう。ビクッとしたりカチンときたりウジウジ悩んだり。。。神経過敏で情報過多な状態とも言えます。

 

さて、息をととのえます。

 

f:id:nowhereman-yes-love:20171231121053j:plain

 

もうちょっと。

 

f:id:nowhereman-yes-love:20171231121521j:plain

 

ずいぶん落ち着いてきました。

 

f:id:nowhereman-yes-love:20171231122830j:plain

 

これくらいなだらかになると、雑念や刺激が来ても、すうっと流れていきます。

 

f:id:nowhereman-yes-love:20171231123415j:plain

 

ね? 雑念も刺激もよく見えます。決して「心を閉ざす」とか「鈍感になる」ではないんです。繊細さはそのままに、マイペースでいることができます。

 

すっきりと、ゆとりある心。なだらかで、ぶつからない。

 

流さず吟味した方がいい雑念や、反応すべき刺激には対処ができる状態です。一喜一憂せず「見守る」ことができる。

 

 

僕の実感をもとに作った図なので、「なぜ呼吸イコール心といえるのか?」の証明は、ごめんなさい、まだできてません。なので具体例になってしまいますが。

 

よくすわれた朝は、満員電車に乗っててもイライラしづらいな、とか。密着してる人の体温とか、ヘッドホンから漏れてくる音、ぶつけてくるカバンにこもったいらだち、停車、遅延を告げるアナウンス。。。みんな何故か「ちょっと遠く」に感じられます。

 

物理的な距離感は、もちろん変わらないんですけどね。ぎゅうぎゅうのスシ詰め。でもそこと重なりあうように、心のスペースはひろびろとしてるのがわかるんです。

 

透明なプラネタリウムの中にいる感じ。快不快含め、自他の感情含め、全ての出来事はごちゃごちゃとその中で起きている。

 

こころイコールからだ、ではないのだなあと最近は思います。こころの容量は肉体を超え、じわじわ拡げていくことができる。鍵となるのは呼吸。息。

 

なだらかな呼吸は、ぶつからない心をつくる。心がぶつからなくなると、人や出来事との衝突も減っていくのだと思います。

 

雲の切れ間から陽がさしてきました。大みそか、除夜の鐘は煩悩の数。すわるにはうってつけの夜です。 

相手にせず、邪魔にせず。

坐禅中やってくる雑念に対して、「相手にせず、邪魔にせず」ということが言われます。青木先生が何年も口ぐせのように言っているので、僕の中でも当たり前のこととして定着してきました。

 

日によって雑念の多い時少ない時、気になる時気にならない時があるので、最近は雑念まみれの坐禅でも(気持ちはよくないけど)「まあいいか」と思えるようになってきました。そういう時もあると。

 

雑念にまみれていても呼吸に専念することが大切で、それができていれば、そうあろうとする気持ちがあれば、とりあえずは良しとしようと。

 

どんな雑念も必ず消えていくのに対して、呼吸は決して途切れないですからね。

 

で、ずっと思ってたのですが、坐禅で雑念を「相手にせず、邪魔にせず」扱う習慣がついてくると、日常生活でも応用ができるようになってくるんですよね。

 

目の前で起こる出来事に対しても「相手にせず、邪魔にせず」と感情のコントロールができるようになってくる。

 

無視する、無関心でいるとは、ちょっと違うんですよね。感情の発露を無理矢理ガマンする、とも違う。状況も感情もきっちり把握しながら「待つ」ことができるようになる。

 

その気になればいつでも動ける状態なので「テンパる」ことが無くなってくると思います。

 

数年前まで僕もそうだったのでよくわかるのですが、思うようにならないと大声を出してブチ切れる人。テンパってて余裕がないんですよね。目の前しか見えてない。ここ最近で2人目撃したのですが、「みすぼらしい」というか、みじめな感じがしました。怒りというか、当人が伝えたかったはずの(言葉でも表現できる)思いは相手に伝わっていないんですよね。ただポカンとされてるだけ。逃げられてるだけ。それじゃまったくのキレ損じゃないですか? 「トイレに行きたい」と言えなくてウンコもらしちゃった子供を見てるようで、せつない気分になりました。

 

歩きスマホでぶつかってくる人とか、お相撲さんのゴタゴタとか、売るだけで修理をしないコンピューター会社とか、カチンと来ることはいろいろとあります。おかしいものはおかしいしダメなものはダメだけど、いちいちキレてたらきりがありません。

 

怒ってばかりいると、いいことが起きていても見つけられなかったりしますしね。

 

とある坐禅会

ひさしぶりに見ず知らずの坐禅会に行ってみました。寺や禅堂ではなく、外国人のカトリック神父さんが主宰されている会です。

 

カトリックの「空気」ってあるのだなあと思いました。場の空気ね。やわらかいヴェールで包まれているような。ただ静かなだけではなくて。すわっていると、その空気が乗り物のように運んでいってくれる。禅定とか瞑想のあるところに。だからよくすわれるんです。

 

いつもの聖心会の坐禅会で感じている空気と、同じ感触のものを感じました。

 

お寺にはお寺特有の空気があって、神社には神社の空気があるように、カトリックにはカトリックの空気があるんですね。僕はカトリックではないけど、カトリックの空気はしっくり来るみたいです。荷物を下ろせる感じ。お寺や神社にはちょっとない感覚です。

もちろん、どこでも一緒というわけではなく、そこを管理しているというか、その場所を守ってきた人びとの心のありようが、その場に反映されているのだと思います。

 

神父さんは物静かですが、瞳の輝きが深く優しい人でした。青いみずうみのよう。

 

坐禅の後にはささやかなお茶会があって、シュトーレンやチョコレートでもてなしていただきました。もうすぐクリスマスですからね。

 

ひとりずつ簡単な自己紹介をしたのですが、みなさん、それぞれに切実な想いをもって坐っているのだなあと思いました。坐禅中はだまって坐っているので、知る由も無いのですが。みんな、なかなか大変だ。

 

キリスト教の場所、ということも影響してるのかもしれませんが、坐禅ってやはり「何かを得る」ものではなく、むしろ放棄する、「重荷を下ろす」ものなんだなあと。こころや状況がつくりあげた重荷をおろしていく。

 

だから「ここまでやればオッケー」というのもなくて、日々続けていくものなんだと思います。

ヨーガの成瀬雅春先生

いま発売中の月刊秘伝1月号で、ヨーガの成瀬雅春先生の対談記事を構成しました。成瀬先生といえば「空中浮揚」。すわったまま1メートル近く宙に浮いてる写真がその昔週刊誌に載ったとかで、オウムの麻原やストⅡのダルシム江頭2:50など、良くも悪くもさまざまなフォロワーを生み、「ヨガ=怪しいもの」というイメージを生んだ張本人だと思っていました。

 

なので僕の中ではずっと「要注意人物」のひとりだったのですが、実際にお会いしてみると、いろいろな意味でパブリックイメージと違う方だったので、「マスコミの情報ってやっぱり信用できないなあ。自分で確かめてみないとわからないなあ」との思いを新たにしたのでした。

 

この日の取材では空中浮揚はなかったのですが、いわゆるハタヨーガの呼吸法を見せていただいて、それが十分に凄かったんですね。この人、めちゃめちゃ真面目に修行してるじゃん! 「秘伝」にも写真が載っていますが、激しい鼻呼吸から息を止める「バストリカ・プラーナヤーマ」。

「息をこらえてる」んじゃなくて、「止まっている」んです。息だけじゃなくて全身が。ピタッと。いやスッと。うーん、表現が難しい。ふさわしい擬音がちょっと見つからない。「止める」んじゃなくて「止まる」ってこんな感じなんだな、初めて見るわ。って感じの止まりかた。デジタルの動画を一時停止したような感じ。薄皮一枚、成瀬先生の周りだけね。部屋全体の空気は、相変わらず動いてるんです。

 

この状態で瞑想や坐禅をしたら、さぞやよく坐れるだろうなと思いました。止まった状態、「止」の状態。瞑想では「止観」ということが言われて、「止(サマタ)」「観(ヴィパッサナー)」と便宜上分けたりもします。波立つ意識を何かに集中させて「止まった」状態にして、水鏡のようにそこに映る想念を「観ていく」と。

「止まる」も「観る」も呼吸上というか意識の内側のテクニックだと思っていたので、「見える化」はできないものだと思い込んでいました。だけど呼吸が(きちんと)止まれば、それは身体上にも「静止」として現れ、それに伴い意識のさざ波もしずまっているのだろうなと。

 

坐禅中に、我慢くらべみたいに「ジッと動かずにいる」のとは明らかに違うんです。それってそれこそ「グッと息をこらえて」全身を緊張させてるだけで。むしろ雑念を増殖させるだけというか。

 

こころを調えるには、まず体からなんだなあと痛感させられる成瀬先生の呼吸法でした。

 

「あの人、心の広い人だねとか言うけど、心が広いとか狭いって、どうやって測るの? 物の量が多いとか少ないというのとは違うじゃないですか? じゃあ、どこまで広くたって構わないわけですよ。人間の意識領域というものは、どこまでも拡げられるんです。可能性としてね。だから瞑想する必要があるし、『いっぱいまで自分の意識を拡げる』という表現も出てくるんです。『宇宙の果てまで行ってきた』っていうのも、意識をそこまで飛ばして戻って来る、ということなんです」(成瀬雅春・談)

 

取材中には「空中浮揚」やそれの動力源だという「クンダリニー」エネルギーの話題も出てきましたが、成瀬先生は淡々とした様子で多くを語らず。なんというかご本人的には他人事というか遠い過去の出来事といったご様子で、もうそういうの飽きたんだよ的な印象を受けました。

クンダリニー開発は今も指導されてるようですけど、「基本はハタヨーガをコツコツやることですよ。でもみんな地味な事はやりたくないんだよね(笑)」とおっしゃってました。

 

順番前後で恐縮ですが、上記のバストリカ・プラーナヤーマで激しい鼻呼吸を成瀬先生が行なってる際、足元がグラグラ地震のように(震度2くらいの微震ですが)揺れる体感があって、ビックリしたなあ。2メートルくらい離れたところで動画撮ってたんですけどね。

同行の編集者に後で電話で話したらおもいきり黙られたので、感じていたのは僕だけ?

 

と、「半分目に見えない世界」を語っていくのは難しいなあ。手がかりとなる自分の体感を、まずは信じるしかないと思うんですけどね。

Imagine no possessions?

m.youtube.com

ジョン・レノン「イマジン」に"Imagine no possessions"という一節があります。「所有できるものはないのだと思いなさい」といったところでしょうか。歌の原案者といわれるオノ・ヨーコ風にいうなら。ヨーコさんの著書を見ると、幼いころに仏教を学んだとの記述もあります。他にも「ネコが話しかけてくる」「私は草に話しかける」など、なかなかぶっ飛んでるお方のようです。

 

さて「所有できるものはない」。そうですね。坐禅の後って、ふとした気づきが何かしらあります。すわってる最中は自我が起こりにくくなっているようで、そこで「ふだん自我とくっついてる価値観」が、はらりとはがれてるのかもしれないですね。

 

一歩町へ出るとまた自我で暮らしていくので、ベッタリと「我の強い人」にもどってしまうのですが。。。

でもわずかに違っている気もします。ガムテープでも一度はがしたら粘着力よわくなるじゃないですか? またくっつけられるけど、前ほどしっかりしてはいない。坐禅と日常生活の繰り返しで、自我というガムテープが何度もはがされていくのかもしれません。

 

「自分」という存在が前ほど「絶対」とは思えないので、それが損なわれた時に「自信をなくす」ことも減ってきてると思います。以前はささいなことでもドーンと落ち込んで、自意識過剰すぎました。

 

さて「イマジン」からの「所有」の話です。これは一昨日の坐禅明けの話なのですが「自我、つまり私という存在が思い込みの産物だとしたら、所有なんてできないよな」と。「自分」という所有者が、(社会生活を送るうえでの便宜的な)仮のものだとしたら、「自分のもの」という所有物もなくなるよなと。所有者がいないのだから。所有権とかもあくまで社会の契約上「だけ」の話で。

いや、実はひとつそのまえに「人は人を所有できないんだ」という別の気づきがありました。「イマジン」の"possessions"は物や土地、財産なども含む「所有、所持」全般を指していると思いますが、一昨日起きたのは「誰も他人を所有できないのだ」という気づき。これが今日の本題です。

 

たとえば恋愛でも、お互いの気持ちが相手だけに向いているうちは「相手をものにした」気分になっていると思います。その反対に「自分という存在を相手に捧げる」タイプの人もいるでしょう。いずれにしても「ひとつになっている」というか。心も体もひとつになれる、みたいな。

親が幼い子に対して抱く感情にも、これはあるでしょうね。ぐずったりもしますが、幼な子ってほぼ自分を全肯定してくれるから。「目に入れても痛くない」という言葉もあります。自分の体と同化できるくらいの気持ちなのでしょう。

 

自分よりも大切に思える誰かがいる。それはとても素晴らしいことで、そういう瞬間に出会うため、人は生きているのかもしれません。

 

この時の感動を忘れずに、変わっていく相手とか成長していく子供と、そのつど最適な関係を築いていければいいんだけど、なかなかむずかしいですよね(´Д` )。それは理想論で、現実は「一番良かった頃の相手」というキラキラした思い出にしがみついてしまう。思い出ありきで(今の)相手を見て、従来のやりかたで進めようとする。時間とともにうまくいかないことが増えてくる。え、なんで?となる。こんな人だと思わなかったと。そんな子に育てた覚えはないと!

それは相手を人というより物扱いしてるからというか、「オレだけのお前!」「ワタシだけのあなた!」といった思い込み、つまり「所有」の概念にとらわれているからではないか。

 

自分がやってる時は気づかないんですけど、やられる側になるとよくわかりますよね(笑)。「あなたのためを思ってって、それ自分のためだろ(´・_・`)」って。誰にも覚えがあると思います。そんなこと頼んだおぼえないぞって。

 

一度手に入れた相手を失なう恐怖もありますね。そのために相手を縛って、さらに失なう方向に進んだり(>_<)。子供の自立を阻む親もそうだな。

 

やっぱり「自分」という思いから起こる「所有」の概念のしわざだと思うんです。「この人は自分のものだから自由に扱っていい」と。「自分のやりかた」で。そうしてこちらの「自分」とむこうの「自分」がぶつかる時、衝突が起こる。

愛が憎しみに変わると「そっちがそういっただろう!」とか相手を「そっち」呼ばわりしたりね。もはや人あつかいしてないです(笑)。その時は自分も「こっち」になってるのですが。そこにはなかなか気づかない。

 

自分で自分を見るのって、できないというか普通の状態では難しいから。

 

坐禅はさいしょ呼吸に意識を向けることによって、ふだんベッタリくっついてる自我と距離をおくことができます。くり返される呼吸に命綱のようにつかまって「自我が起こるさま」を見ることができる。自我から離れることで、自分が見えてくる。

 

思い出したくもない、目を背けたくなるような自分も、わりと落ち着いて見られる気がします。

 

「変わったのは相手だけでなく自分もだなあ。いまも考えコロコロ変わってるもんなあ」とかね。ひと呼吸ごとに違った、矛盾した考えが浮かんでくるのを見ると「一貫した変わらない自分」なんてどこにいるの?って思います。さまざまな考えを都合よく「編集」して「理想の自分」をでっち上げてるだけじゃないのか?って。

 

自我の起こるさまを完全に見切れるようになると、タネがばれた手品のように、もう二度と自我にはダマされなくなるともいいます。「私が〇〇している」とはすべて錯覚だったと。思い込みの中にだけ「私」は存在していたと。

 

こうなるには「命綱」をうっかり手放す必要があるようです。まだできてないんですけどね。坐禅中、自我を手放してるつもりでも、呼吸や身体感覚に巧妙に「偽装」した自我にしがみついている。今度は呼吸や身体感覚に執着している。なんだかんだでまだ、自分を「所有」していたいのだろうなあ。全部手放すの、こわいもん。

 

 

 (追記) 

この命綱を手放せると「イマジン」の歌詞も「夢想家」のものではなくなるかもしれません。「自分」がなくなれば「天国」も「地獄」もなくなる。経験主体の自我がないのだから上下の区別も差別もなくなるはずです(完全な自我喪失を体験したわけではないので推測ですが)。

いっさいの自他の区別がなくなれば、我々(自分)の上にある「空(そら)」と我々の下にある「大地」、それらの境い目も消えてなくなる。そこから新たに世界を構築していくのが禅修行の後半戦だとも聞いています。

そうなった時「イマジン」という歌も、よく言われる「現実離れの甘い理想論」などではなく、全然違った聴こえかたをしてくるのかもしれません。ネコや草と話のできるヨーコさんのように。常識を信じて疑わない人には、怖い歌かもしれないですよ。