息をかぞえて

禅・こころとからだ

「こころの声」はどこまで信用できるか?

(前回からのつづき)

「迷ったら、心の声にしたがう」
「正しいかどうかではなく、楽しいかどうか、好きか嫌いかで判断する」

どちらもここ数年、僕の行動の指針みたいになっていて、また世間的にもずいぶんと(それともごく一部? どうなんだろう?)広まってきた考えかただと思うのですが、「本当にそれで大丈夫?」と思うようになった、というのが前回の結びでした。

「心の声にしたがう」に関しては、坐禅や瞑想をするようになって、意識の座が頭から胸、腹、足腰へと降りていき、ものごとを判断する時も頭(思考)より胸(感情、感覚、感性)や腹、足腰(より原始的な感覚、感性?)が優位となっていったから。「胸に聞く」「腹をくくる」「腰を据える」といった感覚がわかるようになってきました。
「楽しいかどうか、好きか嫌いかで判断する」についてもやはり感性をおもんじる生きかたで、個人的には東日本大震災以降、こういうことを言う人たちが出てきた、増えていった印象があります(僕もそれに乗っかったんだと思います)。それまでの価値観が一度徹底的に崩れ去り、「正しさ」の基準も消し飛んだ。何が正しいか誰も断言できないので、ひとりひとりが「楽しい」とか「心地よい」と思えることを大事にしていこう、それを新たな「基準」としていこう、スタートはそんな感じだったと思います。

ただわが身をかえりみるに、心の声を絶対視すると、感覚だけで生きていこうとすると、人はどんどんわがままに、独善的になっていくなあ。あとさきを考えず刹那的になるなあ。自己主張ばかりで衝突もふえ、対話もすれ違っていくなあ。最近はそういう思いが強くなってきています。自分だけが正しい。自分が好きなもの、自分のことを好きな者だけが、ここに存在してもよい。あとはしらない。どうなってもいい。

僕はそういう傾向が強くなったし、まわりをみても、社会全体に視野をひろげてみても、そういう人たちが問題とか事件事故をおこし、迷惑をかけることが増えている気がするのです。

 

「心の声」は、はたしていつも正しいのか? まちがうことはないのか?

 

「いや、そもそも頭で考えてきた”正しさ“があてにならなくなったから、胸に聞いているんでしょ? ”考える“より”感じる“方が信頼できるんでしょ?(ブルース・リーの「考えるな、感じろ!」という言葉も人気ありますよね) 感覚は人それぞれだから、人の数だけ正しさもあるんじゃないの?」

うん、そうなんですけどね。それはそうかもしれません。ただこれは「ものごとを楽しいかどうかで判断する」にもつながることだと思うんですけど、心の声が言ったなら、自分が楽しい(好き)と感じたら、何をやっても許されるのか? というところで疑問符がつくと思うんです。

いつのまにか「楽しさ」が「正しさ」を主張しはじめてはいないか? 感覚的で主観的なはずの「好き」や「嫌い」の「判断」が、客観的(というか絶対的)な「正しさ」の「判定」へとすりかわってないか?

自分だけが正しい。自分が好きなもの、自分のことを好きな者だけが、ここに存在してもよい。

ひとりひとりの「楽しさ」や「心地よさ」を大事にすることも、度がすぎると「そうでないものは否定する」ところまで行ってしまうのでは? きらいなものや不快な出来事を必要以上にさける、排除するようになる。感覚的に他人や出来事を裁き、それが絶対と思うようになる。

 

「おまえの心に耳を傾けるのだ。心はすべてを知っている。それは大いなる魂から来て、いつか、そこへ戻ってゆくものだからだ」(パウロ・コエーリョアルケミスト』の一節)

ちょっと唐突ですが『アルケミスト』(角川文庫版)は僕の愛読書のひとつで、ちょうどけさ久々に手に取り、付箋がついてるところを開いてみたら。これが僕にとっての「こころの声」の元ネタだったとしたら…。

 

お話のあらすじは、自分のみた夢を信じて宝探しにでかけた少年が、錬金術師と出会い、「心の声」にしたがい、ついに運命の宝物をみつけるというもの。よくできたお話で「私ももう一度夢を見よう!」「自分の運命を生きてみよう!」と影響を受けた人は(僕のほかにも)たくさんいると思います。

 

それと同時に(僕のように)「心の声」を拡大解釈して、この物語を盾にわがまま放題やってるイタい人たちもけっこういる気がします。

 

「少年は自分の心に熱心に耳を傾けながら、何時間か砂漠を馬で進んでいった。宝物がどこに隠されているか、彼の心が教えてくれるはずだった」

なんて記述もありますからね。「心」とは「直観」なのか「感覚」なのか。はたまた宝のありかまでわかる「超能力」みたいなものなのか!?

作者がはっきりと定義してないので、好きなように読めてしまうんですよね。よくいえば表現に幅をもたせ、想像の余地をあたえている。わるくいえば厳密さを欠き、無責任。読み手の解釈や性格によっては、「行き過ぎた欲望」やわるくすれば「嫌悪」や「憎悪」まで「心の声だから!」で正当化する可能性がでてくる。

「あれがほしい!これもほしい!」「あの人がほしい!」「この人、いらない!」

心の声ならゆるされるのか?

 

まあ『アルケミスト』に関しては、物語の終盤で錬金術師が鉛を金に変える描写が出てくるので「このお話はフィクションです」と作者も釘をさしてるんですけどね。ここに描かれていることを、何もかも真に受けるなよと。

 

「心の声」とは何か、もう少し考えてみようと思います。(つづく)

 

追記: 『アルケミスト』と似た作品とみなされる『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ著/岩波書店)も、主人公の少年が「汝の欲するところをなせ」とのお告げにしたがい、おとぎの国で夢を叶えていく話ですが、夢をかなえたあとも心の赴くまま生きるとどうなるか?までを描いているので、ずっと奥行きの深い物語だと思います。