自分が「自分の最悪の敵」となる時
「君には自分というものがない!」とよく叱られていたので、がんばって「自分」なるものを獲得しなきゃと「自我の確立」にいそしんできました。20代後半あたりから。ちょっと遅いですけど。でもいっとき「自分探し」ということばが流行していたので、まわりに似た人たちもいて、そういう人たちを応援するむきもありまして。のちに「いつまでも自分さがしてんじゃねえ!」と叩かれたり、笑われるようになるんですけどね。
僕の場合は「仕事による自己実現」が「自分になること」とイコールだったと思います。フリーランスのライターになって、最初の5年くらいはうまくいきそうだったけど、その後の数年で仕事が一本もなくなる事態となり、他にも悪いことが重なり、鬱病になるんです。診断こそ下らなかったけど、アルコール依存でもあったな。朝から飲んでましたからね。
自分になれないくらいなら、死んでしまえと思ってました。
詳細は省きますが、この時何が起きていたかというと「強くなりすぎた自我が、ガン細胞のように暴れていた」のだと思います。
「オレは成功するぞ!」→「自己主張しなきゃ!」→「あいつには勝ってる!」→「あの人には勝てない!」→酒に逃げる→気持ちが大きくなる→誰かのせいにする。
あいつらが全部悪い! オレだけが正しい! みんな死んでしまえ!
「成功するぞ!」から一周まわって「死んでしまえ!」。オレ、オレオレオレ…二三周のうちはいいのですが、100周1000周ぐるぐる回り続けてると(酒の力も加わって)自分では止められない「渦」となり、自我ばかりが肥大化していくんです。自分がいつしか自分の最悪の敵となっていきます。
もう自分じゃないんです。
こういう認識に至るには、やはり「自我の正体を見抜く」坐禅の影響は大きくて、参禅をはじめてから、本当に少しずつですけど「状況と自分」の見方が変わっていったのだと思います。自分でも気づかぬうちに(そこが禅のいいところでもあり、地味なところでもある。なかなか効果が見えないので、途中でやめちゃう人もいる)。
客観視、とも違うんですよね。客観視だと立ち位置を変えたところに、また「自分」が立っている。違う視点を提供してくれるのでそれなりに有効だとは思いますが、立ってる土台が変わってないので依然不安定な気がします。見えてる景色がやはりぶれてる。自分でそうと気づかずに。
「自分が自分の最悪の敵」となる最悪のケースが「自殺」なんでしょうね。苦しすぎたり、状況が思い通りにならなすぎると「全部終わらせよう」と自分で自分を殺そうとする。本当は世界を滅亡させてもいいんですけど、そんな力はないから(くやしい!)、自分を殺すことで解決しようとする(あーくやしい!)。僕も最近はほぼなくなりましたが、どん底で(これも自分で「どん底認定」をしてるだけで、事実としての「どん底」なんてどこにもない)鬱だった時期は、「いっそ殺して!」(誰に?)とか「ああこのまま行ったら死ぬな…」とか思うことはありました。積極的に死のうとは思わなかったですけどね。そんな力は残ってなかった。もっと流れにまかせる感じです。らくになりたいので、ゆらゆらと。。。
でも「自殺」って見当違いなんですよね。かりに、死すべき相手がいるとして、それは「(肥大化した)自我」なのに、その自我が寄生してる「肉体」を殺してしまっている。どこかズレてる行為なんです。
心身からうまれた「自我」は、心身から養分をすって生きている。正確にいえば「心身を含めた自分というものが生きている」という思いを持っている。
ちょっと絵にしてみます。
ミツバチが「自我」で、花が「心と体」で、地面が「無意識」となります。地面や花にくらべ、ずいぶんと大きなハチです。自分もでかいと勘違いしてます!
この絵で「自殺」を説明するなら、花を「自分のもの」と思い込んだ(ずっと蜜を吸ってるうち、そう思うようになった)ミツバチが、なんらかの理由で「消えたい」と思った時、「花を地面から引っこ抜こうとする」ことが「自殺」となります。
たとえに無理がある? これならどうでしょう。「うるさいハチを追い払おうとして、花ごと抜いてしまう」。似たようなことは、いろいろなところで見かけるのでは? 自殺も基本的にはおなじことだと思います。
手前味噌になりますが、「花を抜かずにハチだけ追い払う」のが坐禅のアプローチなんだと思います。あるいは「ハチがブンブンいわなくなる」。心と体はきずつけず、自我だけを殺す。弱らせる。適切なサイズまでちいさくして、暮らしの中で有効に使えるようにする。
ミツバチが一匹も来なくなったら、花も花粉を託せなくなりますしね(´・ω・`)
僕の場合、坐を解くとまだハチがぶんぶんするのが悩みの種でもあるのですが、いくとこまでいくとハチがいなくなり、花も地面もあってないような状態になるようです。ここから先は推測になりますが、修行で涅槃を実現し、その後も肉体の寿命を迎えるまで人々に教えを説きつづけた釈迦なんかは、そういう状態だったのかもしれません。
苦行に見切りをつけ(肉体を自我ととりちがえていじめるのをやめ)、花(こころとからだ)をたいせつに、他の草木(人々)にも花実が咲くよう種(教え)をまきつづけた。それは静かな羽音で。
死んで花実が咲くものか、です。