息をかぞえて

禅・こころとからだ

金澤翔子書展

f:id:nowhereman-yes-love:20170928161821j:plain上野の森美術館で開催されている金澤翔子さんの書展に行ってきました。お金はらって書を見にいくのは初めてかも。絵や写真とちがって、書って何がすごくて何が良いかよくわからないんですよね。なんか皆エラそーだし。

 

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翔子さんはことし32歳。「ダウン症の女流書家」という肩書きが一応ついています。僕も駅に出てた看板で彼女をみて「エラそーじゃないしいいかも(・ω・)ノ」と思って行ってきました。

 

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軽い気持ちで行ったんですけどね。作品の前で動けなくなりしばし立ち尽くすという経験を、ほんとうに久しぶりにしました。その雰囲気が出るようにがんばって写真とってみたけど、うーんやっぱり写真だと違うなあ。

「嵐に遭ってる時」の感じと「嵐の様子を撮った写真」を見た時の印象が、決定的に違うように。

ほんとうにね、山歩きしてる時に吹きぬけてく風とか、雨上がりにポチャンとかがやく雨のしずくとかの自然現象に近いんです。金澤さんの書って。「見る」って感じじゃ許されない。「入ってくる」というか「こっちが入っていく」感じになる。

 

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これも「!」って音がいっぱいに聞こえてきた。「観音(かんのん)」の「音」なので、音が観えてもいいじゃないですか(^_−)−☆

 

翔子さんをここまでの書家に育てたのはお母さんのようで、それは並々ならぬ苦労をされたようです。これらの書はふたりの合作のような気もしました。お母さんは書と仏教にゆかりのある方のようで、翔子さんの書には経文や禅語も多くみられます。ふたつ前の写真も禅語「大哉心乎(おおいなるかなこころや)」の最初の二文字です。全部だと4メートルくらいある。そう、でかいのに息切れしてないんです。ほんと風とか空ゆく鳥をみてるよう。

 

まずバッ!と印象が飛び込んでくる。嵐のように、稲妻のように。こころは全部受け入れている。そこにたとえば「大哉」とか「音」とかの情報(文字、記号)を与えられると、頭のほうでも「そういうことか!」と合点する。

達筆とよばれる書も難解といわれる抽象画も「何が描いてあるんだろう?」って、つい意味を求めてしまう。説明書きを読んで「わかった」気になって初めて安心する。でもきっと初動のこころの動きが大事なんですよね。「何が?」の前に来てる「!」とか∑(゚Д゚)とかが。

 

金澤さんの書はそこのところがすごくハッキリしていたので「ああやっぱり頭で理解する前にこころが動いてるんだ」ってことがよくわかりました。同時に「こころが動くだけでなく、頭で理解することも(度が過ぎなければ)大事なんだ」とも。せっかく人に生まれてるんですから。頭や文字に使われてはいけないけど、僕らも頭や文字を使えるようになれれば。翔子さんが筆を使うように。

 

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ああだこうだとごたくを並べてきましたが、ホントは胸がじんじんしっ放しで、ずっと涙をこらえてましたよ。翔子さんご本人もいらっしゃったので、図録にサインと握手もしてもらいました。明るくて、ちっちゃくて、シャイな方でした。声も澄んでいたなあ。