息をかぞえて

禅・こころとからだ

サンガくらぶ番外編 塩澤賢一3連続ヨーガ講座「呼吸をしずめ、心をしずめる」(第2回のおさらい)

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さる
11月7日(木)におこなわれた、3連続ヨーガ講座の第2回。テーマは「プラーナヤーマ」でした。左右の鼻呼吸を、ある一定の規則でおこなう、ヨーガ特有の呼吸法ですね。「プラーナ」はサンスクリットで「生命エネルギー」。「アーヤーマ」は「制御、制止」となります。

 

左から4拍(4秒)すって、まんなかで4拍とめて、右から8拍ではく。右から4拍すって、まんなかで4拍とめて、左から8拍ではくーーといった具合に、左右交互の鼻呼吸を、呼吸の一時停止(クンバカ)をはさんで、一定回数くりかえしていきます。

 

ヨーガをはじめる前や、はじめたばかりの頃は、何のためにこんなことをしているのか、よくわからなかったのですが、規則的な鼻呼吸をつづけていると、息がゆっくりになってきて、気持ちが自然と瞑想モードに移行していくんですよね。

 

この日の講座では、さまざまなバリエーションのプラーナヤーマを長時間おこなったせいか、それにともなって起こる、肉体の変化もよく感じられました。肩や肘などの関節がゆるみ、みぞおちのこわばりが「ふうっ」とぬける感じです。

 

ただ、参加者のなかには「つづけているうちに体が緊張してきた」とおっしゃっていた方もいらしたので、効果のあらわれかたは人それぞれ、技術の習熟度などにもよるのだと思います。僕も、はじめてしばらくのうちは、手順どおりに呼吸するのが精いっぱいで、体の状態に気をむけるだけの余裕もなかったと思います。息も長く続きませんでした。

 

プラーナヤーマをおこなうことで、息がゆっくり、落ち着いていくと、「すう」「はく」の振幅がなだらかになっていきます。上達するにつれ、どこまでもなだらかになり、ほとんど止まっているような息になるとか。

講座の途中、「指をおいてみてください」と言われたので、塩澤先生の鼻の下に、しばらくのあいだ、人さし指をおいてみたのですが、たしかに息の出入りは感じられませんでした。ふつう、生温かく、しめった風(鼻息)が、ふわあっと当たるものですが。

 

道元禅師の『普勧坐禅儀』にある「鼻息(びそく)微通(かすかにつうじ)」とは、この状態を伝えているのだろう、というのが塩澤先生の見解でした。

 

「息が止まる」と聞くと、「心臓も止まる死ぬ!?」と連想して、ちょっとドキッとしますが、心臓はあいかわらず活動をつづけているそうです(鼓動のペースはゆったりしてくる)。

 

感覚的には、呼吸の「回数」はむしろものすごく増えていて(こまかく微細な振動になっていて)、出入りする息の「量」がかぎりなくゼロにちかくなっている、とのことでした。

波にたとえるなら、粗い呼吸が大波で、おだやかな呼吸がさざ波、さらにさらに呼吸がおだやかになっていくと凪(なぎ)の状態になる、といったところでしょうか。風が止まるで「凪」なんですね。

 

波ひとつない、凪いだ海も、人の目にそう映るだけで、海の水そのものはさまざまな流れで、止まることなく動いているはずです。静中の動、動中の静のただなかにある。

 

呼吸の一時停止である「クンバカ」も、「水がめに水をみたし、フタをしてこぼさない」が原義だそうです。プラーナは基本的に、サンスクリットで「風」を意味する「ヴァーユ」(プラーナヴァーユ)とよばれるようですが、ここでは「水」にたとえられています。体が水がめ、呼吸が水です。

 

 

「サンガジャパン」Vol32掲載の、塩澤賢一インタビューの発言にもあったのですが、

 

・「息が静かになれば心も静かになる」というのがハタヨーガの原理原則ですから。

・プラーナが満ち、息が止まった瞬間、観えてくるものがある。これがハタヨーガの止観です。

・プラーナをいっぱい入れて、鼻息微かにしていって、あわよくば止まる。ハタヨーガを定義するなら、呼吸から最後まで離れずに「呼吸って何なのか?それを観ているのは何者か?」と問い続けるシステムです。

 

と、呼吸と瞑想(止観=サマタとヴィパッサナー)、息とプラーナは、親密な関係にあるようです。

 

3連続講座も、次回で最後となります。次回は1212日(木)、「アーサナ」がテーマとなります。

 

samgha.co.jp

 

サンガくらぶ番外編 塩澤賢一3連続ヨーガ講座(第1回のおさらい)

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サンガくらぶ番外編 塩澤賢一3連続ヨーガ講座「呼吸をしずめ、心をしずめる」の第1回が、さる10月10日(木)におこなわれました。私もアシスタント的な役割で参加させていただきました。

3時間の講座ということで、はじまる前は長丁場を予想していたのですが、いざやってみると「あっという間!」というのが正直な感想でした。予定していたプログラムの一番大事なところは伝えられたと思いますが、より詳しく、よりわかりやすく、となると、どんどん時間がなくなっていくものですね。ペース配分や事前配布する資料など、次回以降、工夫、改良していければと思っています。よろしくお願いします。

おさらいがてら、ブログでも伝えられそうな情報を、ひとつふたつ紹介します。

 

講座では、瞑想前の準備運動的なものをいくつか行なったのですが、そのひとつがコレです。

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1 まっすぐに立ち、両足をそろえて軽く膝をまげ、つま先を可能な範囲で横にひらきます。(※「軽く膝をまげ」の要素が初稿では抜けていたので、10/22に加筆しました。大変失礼致しました)

2 両手を腰にあて、背骨がまがらないよう意識して、膝を上下に屈伸します。

 

この時の「背骨の感じ」を覚えておくと、腰椎も骨盤もちょうど良い角度になり、結跏趺坐などの坐法でも楽にすわれるとのこと。自分でおこなう腰椎の調整、といったところでしょうか。むずかしいものではないので、坐禅や瞑想の前にぜひやってみてください。

(個人差はあるようですが、これで座布団を二つ折りにしたものをお尻に敷くと、とても良い状態ですわれるようです。坐禅用の丸い坐蒲だと、角度がつきすぎて腰椎に負担がかかり、腰痛の原因にもなるのでおすすめできないとのこと。私も坐禅の時は、なるべく低い坐蒲を選ぶようにしています)

 

もうひとつは瞑想時の呼吸のリズム。禅でも行なわれている「数息観」(一から十まで数えることで、呼吸の出入りを自覚する)を例に行ないました。吸うのも吐くのも鼻で行ないます。

「ひとーつ」と、終盤にピークが来るように、ゆっくりと吐いていきます。

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「ひとー…」で吐ききると、「つ」でスッと息が、自然に入ってくる感じです。「ふたーつ」「みーっつ」と同じ要領でおこない、呼吸のリズムに気づいていきます。息の波に乗ることで、気張らなくても瞑想がつづくようになります。

 

塩澤先生いわく、「かぞえる」という行為は馬鹿にできなくて、人間の精神活動の元型にあたるのだとか。以下は私の解釈になりますが、その「かぞえる」という行為を、自覚の手がかりに使うことで、精神や意識の源流に近づくことも、容易になるのかもしれません。

 

この後参加者全員で15分の数息観を行ないましたが、塩澤先生はこんなことも言ってました。

「数をかぞえていて、途中でわからなくなることもあります。そしたら、『ひとーつ』にまたかえってください。これは一般のビジネスや仕事と違うので、はずれた時に、絶対自分を責めてはならないものなんです。『集中力がきれた(だからダメだ)』、そういうことを言っちゃいけないんです。すなおに、ただもどるだけです。『あ、ここで失敗した』、そういうことを言うのは普通の生活です。瞑想はそれとはちがうので、何の気配もなく、もう一度『ひとーつ』にかえります」

 

次回は11月7日(木)。プラーナヤーマ(呼吸法)を中心に行ないます。1回からの参加も可能ですので、興味のある方はいらしてください。

https://samgha.co.jp/samgha-club

 

(告知)塩澤賢一ヨーガ講座@擇木道場10/10〜

このたび(株)サンガ主催で、塩澤賢一先生のヨーガ講座(全3回)をおこなうことになりました。 1回約3時間(休憩あり)、実技中心、最後に瞑想の時間を設けます。

https://samgha.co.jp/samgha-club

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瞑想のためのヨーガというか、「よりらくに、気持ちよく、すわるための」技法として、ハタヨーガを見直していく内容になると思います。

足を組む時のバランスのとりかたや、坐禅の数息観をハタヨーガ的におこなってみたりと、初歩的なところからはじめる予定なので、マインドフルネスや坐禅の実践者にも、得るところはあると思います。

会場の擇木道場はもともと、臨済宗の在家修行者のためにひらかれたところだとか。ヨーガと坐禅が交流するのに、ちょうどよい場所なのかもしれません。

1回だけの参加も、もちろん可です。一度体験してみてください。

 

すべてを失っても、なくならないもの

ブログの更新頻度はめっきり落ちましたが、坐禅とヨーガ瞑想は順調につづいています。

以前は接心や合宿で数日すわりつづけて訪れていた心身の状態が、朝の20〜30分で訪れています(そこからが本番で、まだまだですけど)。

聖心会の青木義子先生、アーディヨーガの塩澤賢一先生。すわる場を提供してくださり、適切であたたかい指導をしてくださる先生方にもめぐまれているのだと思います。

坐禅と瞑想のちがいも、さほど気にならなくなってきました。別物ではあるのですが、それは「うどん」と「そば」くらいのちがいで、どちらでも腹はふくれると感じています。もちろん、うどんはうどん、そばはそばなので、ごちゃまぜにはしない方がいいと思いますけど。

 

坐禅であれ瞑想であれ、すわっていると思いがしずまっていきます。一時的に、ある思いが激しくなることもありますが、ひとしきり暴れると、その思いもエネルギーを使い果たし、(心を乱すだけの)力は持てなくなります。

しずかな状態に、なじんでいきます。

 

すわり終えると、またさまざまな思いが戻ってくるわけですが(その日のスケジュールとか、ずっと気にかけていることとか)、人の生活って、思いに支配され、思いに追い立てられているのだなあと実感させられます。「今日中にこれやらなくちゃ」「それが済んだら、あれやらなくちゃ」といった具合に。思いが数珠つなぎのように延々と続き、気の休まる暇もない。「思いの奴隷」のように、人が思いにこき使われている。

(ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる「時間どろぼう」も、行き過ぎた「思い」の連鎖から生まれたものかもしれません)

 

「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」

「あれが足りない、これも足りない」

人が生活していくうえで必要最低限の「やるべきこと」「手に入れるべきもの」は、確かにあると思います。

ただ多くの場合それは、「思い」によって「必要以上のもの」に増幅され、誇張されたものがアナウンスされている気がします。それぞれの人の「心の声」として。結果、いらないものまで求めてしまう。

 

人の生活は、日々、何かを得たり、失ったりの連続だと思います。一日生きれば一日ぶんの寿命を失い、一日ぶんの新たな経験を得る。その経験の中には人間関係や、健康、仕事、お金、持ち物、さまざまなものが含まれます。さまざまなものを誰もが「得たり」「失ったり」しているのが、人の暮らしなのだと思います。

 

誰でも「今の自分が持っているもの」を思い浮かべることができます。それは現物を伴う財産だったり、目には見えない経験だったり何かの技能だったり、アイデンティティとなる思想や立場だったり、愛情や心のつながりだったり、さまざまなもので構成されています。

また反対に「自分が失ったもの」も浮かんできます。こちらは大体、過去の思い出や後悔とむすびついているはずです。

 

坐禅や瞑想がうまくいくと、「自分が得たもの」からも「失ったもの」からも、しずかに離れていきます。

そしてここからが大事なのですが、「得たもの」から離れていっても、「失ったもの」から離れていっても、何も無くなっていないところで、すわっているのです。

「これまで得てきた一切合切をなくしても、身体の一部や機能を失っても、何も無くならないのだな」という、たしかな自信に出会います。

 

これは自分の持ちものに依存しない、根拠のない自信です。傷つけることも、汚すこともできません。

 

この自信に気づき、それが持続するようになれば、生活のなかで何かを得ても失っても、大さわぎすることはなくなると思います。環境や他人の思惑にふりまわされることも、減っていくように思われます。

状況はごちゃごちゃしたままなのですが、それがとてもクリアーにみえているというか。傍観や現実逃避とも少しちがって、必要な時は体がうごきます。おそらく、その時最適な行動をとるようになる(それで問題は解決しなくても、その時とれるベストの行動をとる)。

 

まずは「すわっている時の状態」をよく自覚する。その感覚になじんでいく。それが定着するにつれ、普段の生活でも「すわっている時の自信」が、はみだすようになってくる。

変化は少しずつで、時間もかかりますが、そうすると自然なペースで生きられるようになる。「生きづらさ」のようなものから、解放されていくのだと思います。

 

自分のルーツ

つい最近のことですが、自分の父がたの家系について知る機会がありました。

 

うちは引っ越しが多かった核家族で、祖父は父がたも母がたも僕がうまれるずっと前に亡くなっていたので、おじいちゃんってどんなものかよくわからなかったし、それより上の世代のことも全然ぴんと来なかったんですよね。父もそういう話はしなかったし。

 

今回わかったのは祖父、曽祖父、曽々祖父あたりまでだったんですけど、僕が「自分個人のパーソナリティ」と思っていた二、三の要素を、じっちゃんやひいひいじいちゃんがはっきりと備えていて、ちょっと笑えるほどでした。

 

自分個人のパーソナリティ。戦争や右翼思想がだいきらいだったり、人生の中ごろから坐禅をはじめたり。「理由はないけど、俺はなぜかこうなのだ」とおもっていたことが、じっちゃんや、そのまたじいちゃんの人生の象徴的な出来事だったりした。

 

核家族に育ち、各地を引っ越してまわっても、影響めちゃくちゃ受けてたんですね。

 

家系ってばかにできないと思いました。

 

僕には霊感がないので、自分の前世とかみたことは一度もないのですが、「事実上の前世」みたいなものを見た気がしますw。

 

前世に興味がある人は、まずは家系をしらべてみるといいと思いますよ。いろいろわかって、スッキリすると思います。

 

ただ、じっちゃんたちの人生は彼らのもので、どんな終わり方であれ完結しているので、僕がその道に沿って歩く必要もない。というか、歩けない。禅的にいうなら「屁のひとつの貸し借りもできない」ってやつです。

 

自分が肉体的、環境的にどんなルーツから生まれてきているかがわかったら、それをふまえて、じゃあ今の自分に何ができるか、何をしたいかということをあらためて考え、生きていく。「自分のパーソナリティ」と思い込んでいるものも含めた、自分のルーツにこだわりすぎずに。

 

塩澤賢一インタビュー(サンガジャパンvol32)

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5/1(水)発行の仏教専門誌「サンガジャパンvol32(特集・身体と瞑想)」にて、ヨーガ行者の塩澤賢一先生のインタビューが掲載されています。取材と構成を担当させていただきました。20000字のロングインタビューで、読みごたえのあるものになっています。タイトルは「ヨーガの息で観てみよう」。

 

ヨーガでは空気を、というより「空気の中に」といった方が適切でしょうか。「プラーナ」という「生きるエネルギー」をみています。瞑想をおこなうにも、「下を向いた犬」や「魚」といったアーサナをおこなうにも、息をすることでプラーナをとりいれ、体の内と外にめぐらせていきます。

 

さてこの「プラーナ」です。日本では中国の気功の「気」というものは、うさんくさいと思われながらも、それなりの立場を得てきていると思います。「合気道」という日本の武道もあることですし、「気配を感じる」とか「空気を読む」とか慣用句にもなっています。「気を感じる」ことは誰もが行なっているんですよね。でもこれがインドのヨーガの「プラーナ」になるとまだまだ特殊なものというか、ヨガの人たち以外には知られていません。現在のヨガブームで、このさき浸透していくかもしれないですけど。

 

(坐禅では息の中身について気にしていない人が多いと思いますが、もともと中国から来たものなので、やはり「気」をめぐらせる行法なのだと個人的には思っています)

 

僕は中国武術とヨーガの両方を経験していて、「気」と「プラーナ」には相通じる感覚もあるし、それぞれ特有の感覚もあるなと感じています。「息を吸う、吐く」という行為じたいは同じなのですが、「気功の作法」に合わせるか「ヨーガの作法」に合わせるかによって、同じ空気を吸っても、そこからの流れかた、感じかたが変わってくる。音楽にたとえるなら、同じ「ラ」の音でもピアノとヴァイオリンではひびきも音色もずいぶんと違うように。

 

プラーナを、日本人になじみのある「気」と同様のものとして説明している本などもありますが、やはり「気」は「気」、「プラーナ」は「プラーナ」と分けて扱うのが適切だと思います。特に最初の入り口としては。「気」の感覚でヨーガをおこなうと「気の枠組み」から抜けられないと思います。「プラーナ」的な身体感覚がつかみづらく、ヨーガの体系に入っていけない(ヨーガが体になじんでこない)。一度つかんでしまえば、「気」と「プラーナ」の感覚が合流して、ひとつの「息」になっていくとも思うのですが、僕の場合はそうなるまでそれなりの時間が必要でした。

 

「気」を意識して気功の動作にあわせれば「気の感覚」で息はめぐり、「プラーナ」を意識してヨーガの形でうごかせば「プラーナの感覚」としてめぐっていく。そうしているうち身体感覚も世界観も、それぞれの質に変わってくる。どちらがいいかは一概に言えませんが、いずれにしても「酸素」を吸って「運動」する現代的なエクササイズとは明らかに違う、新たな感覚をもたらしてくれると思います。

 

不思議なものですが、伝統的な形(かた)が持つ力なのだと思います。

 

そんな「プラーナ」を使って「ヨーガの息で観てみよう」。2万字の言葉のどこかに、坐禅や瞑想にも役立つ何かがみつかると思います。ぜひ読んでみてください。

 

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「見える」が映っているところ

前回からの続きで、なかなか理解してもらえない感覚かもしれないんですけど、さいきん「見える」ってすごいことだなあと思うようになってきています。

 

「聞こえる」「さわれる」「味わえる」「においがする」も。

「寒い」とか「熱い」と感じられることも。

「思い出せる」とか「考えることができる」ということも。

 

全部あたりまえのようにやっていることだけど、「なぜそれができるか?(そういう現象が起きているか?)」をよくよく考えてみた時、「自分を含め、じつは誰もよくわかっていないみたいだ」ということがわかってきて、「見えるって不思議なことだったんだなあ」と思うようになってきています。

いま僕は編集画面でこのブログのこの文章を「見ていて」、みなさんはアップされたブログとしてこの文章を「見ている」と思うのですが、その「見える」はどこで起きているのか?
「ブログを書いている僕」と「ブログを読んでいるあなた」は、時間的にも場所的にも違うところで「この(同じ)文章」を「見ている」わけで、常識的にかんがえればそこにはズレが生じています。

違う時間に、違う場所で、それぞれに「見て」いる。僕はいま吉祥寺のフレッシュネスバーガーにいて、2019年の1月31日、19時14分にこの文章を「見て」いるのですが、あなたはいま場所的にも時間的にもちがうところでこれを「見て」いるはずです。

生理的な機能(視神経とか脳とか)でいえば、僕もあなたも同じところが同じように機能しているはずで(同じ「ヒト」という生き物なので)、「同じ仕組み」で「見えている」のだと思います。
ただ僕が問題にしているのは「仕組み」ではなく「この目の前の(いまでいうならこのブログの)映像がうつっているのは、どこなのか?」ということで。前回からさんざん言ってますが。

 

「このブログの、この映像は、どこに映っているのか?」

 


まだ仮説の段階で確証はないのですが、さいきん思うようになってきたのが、「それがあるところに、映像そのものとして映っている」「映るということが見えるということである」という可能性です。

 

もうすこしわかりやすく言うなら、無色透明ですくなくとも3D以上の構造をもつスクリーンのようなものがこの「世界」とか「意識」とよばれているもので、このブログの文章、私のタブレット、あなたのスマホもしくはPC、手、机、などなど、「いま目の前に映っているもの」はすべてその「意識」に映っている。それを「世界」と呼んでいる。このブログをはじめた頃から、同じようなことは言ってたと思いますが、より確信は深まってきています。

 

意識は無色透明で、いまのところ観測のための機器も発明されていないようなので、科学の「観察対象」にはならず、科学的に語ることはできないけれど、科学的に語れないというだけで、我々みんな体ごと、どっぷりとそこに浸かっている。

 

禅や瞑想をやっている人でもないかぎり、なかなか理解してもらえない感覚だと思うのですが、私が見ているこの映像も、あなたが見ているこの映像も、「(意識という)おなじところ」に映っているのではないか? 

 

「おなじところにうつっているもの」を、別々の場所、別々の時間に、別々のからだを介して「見て」いる。

(前回から問題にしていた、記憶や想念、それらが想起するイメージも、それそのものとしてそこ(意識)に浮かんで、見えているのではないか、と思っています)

厳密には「映るものを見る」(見る→映っている)という関係性ではなく、「映っている時点で見えている」(見る=映る)という関係性で、「別々の場所、別々の時間、別々のからだ」というのが「観念がみせている錯覚」であり、我々はそれぞれの自意識を通して「個々が分離しているという幻想」をみていることになっています。禅や瞑想の世界観ではね。

 

 

「意識」って、「空間」や「空気」や「日光」とおなじように、「みんなで共用してるもの」だと思うんですよね。地面は「土地」(所有)の概念をもちだして「ここからここまでウチの土地だ!」と独占することもできるけど、空間や空気、陽の光となるとさすがに無理があります。このさき世の中がもっとせちがらくなって、「空気使用料をはらいたまえ!」とか言い出す輩が出てこないともかぎりませんが、彼らにしても本当の意味での「所有」はできません。むちゃくちゃないいがかりをつけてるだけで。空気も空間も(本当は海も大地も)みんなで「共用」しているものです。


「共用」しているからみんな、同じ空間の同じ座標上に、たとえば「1個のリンゴ」といった同じものを認識することができる。果物屋でおばちゃんが「このリンゴひとつちょうだい」と言って、店のおっちゃんが「これな?」と応対する時も、「同じ意識のスクリーン」を「共用」しているからこそ、そういうことができる。別々の人どうし、同じリンゴを見ることができる。


全体的な「意識」と個々人の「こころ」の関係は、「広場」と「ブルーシート」にたとえることができます。

 

ちょっと先になりますが、お花見のシーズンともなると、みんな公園の広場にブルーシートをしいて酒盛りをしますよね。「ここからここまでがウチらの場所!」というのがブルーシートが持つ意味で、それってまさに自我的な「こころの範囲」と同じ線引きだと思うんです。

ブルーシートはたしかに「ウチらの場所」でもあるんでしょうけど、そのブルーシートが敷けているのは誰のおかげじゃ? と問われれば、その下にある「地面」のおかげなわけです。「大きな広場」があるから、その上にのっかってみんな「うちらうちら」とシートが敷ける。

 

「広場」が「意識」で、「ブルーシート」が「個々人のこころ」です。

 

半畳くらいの狭いシートもあれば、柔道場くらい広いのもあるでしょう。かたちもいろいろでしょう。

 

何かの拍子で隣のグループと揉めることもあるでしょうし、見知らぬどうし仲良くなることもあるでしょう。

 

どちらにせよ、広場全体が地続きになっているから、シート間の行き来ができてるわけですよね?

 

個々人のこころも、別々ながらに交流できるのは、それぞれが「意識」で地続きになっているから、だと思うんです。

 

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このバラバラの青い枠に、一斉にリンゴが映ったりもします。その時、「みんなでリンゴを見ている」が起きている。

 

 でもってワクをとっぱらえば、広場全体にすわれるよというのが、坐禅であり瞑想なのだと思います。広場全体にリンゴが映ります。広場全体がひとつのリンゴです。禅の公案に「庭前柏樹子」、悟りとは何か?と問われ、そのとき庭に見えた柏の樹を示した、という問答がありますが、この時は意識全体に柏の樹が映り、意識全体が一本の柏樹だったと思われます。そしてここがミソですが、庭前柏樹子(9世紀の中国での出来事)で柏を映した意識は、いまこのブログ(2019年の日本での出来事)を映している意識と全くおなじものというところです。時代も場所も関係がない。庭前柏樹子も、果物屋での「リンゴ」「これな?」も、起きてることは同じこと。そういうところに我々もいる。

 

図では便宜的に緑の点線で「広場」を表現しましたが(面積があるように見えますが)、じっさいは「意識」なので、大きさも範囲もかたちもありません。ということはそこにあるブルーシート、つまり個々の「こころ」も、大きさも形もないことになってきますね。書いてて今気づいたけど、なんてこった。

 

坐禅や瞑想中は、形も重さもある肉体をもちながら、大きさもかたちもない、時代も場所もない、意識の広場にすわっていることになります。肉体として物質の世界に存在しつつ、形なきこころ(意識)の世界に踏み込んでいるようです。