息をかぞえて

禅・こころとからだ

すべてを失っても、なくならないもの

ブログの更新頻度はめっきり落ちましたが、坐禅とヨーガ瞑想は順調につづいています。

以前は接心や合宿で数日すわりつづけて訪れていた心身の状態が、朝の20〜30分で訪れています(そこからが本番で、まだまだですけど)。

聖心会の青木義子先生、アーディヨーガの塩澤賢一先生。すわる場を提供してくださり、適切であたたかい指導をしてくださる先生方にもめぐまれているのだと思います。

坐禅と瞑想のちがいも、さほど気にならなくなってきました。別物ではあるのですが、それは「うどん」と「そば」くらいのちがいで、どちらでも腹はふくれると感じています。もちろん、うどんはうどん、そばはそばなので、ごちゃまぜにはしない方がいいと思いますけど。

 

坐禅であれ瞑想であれ、すわっていると思いがしずまっていきます。一時的に、ある思いが激しくなることもありますが、ひとしきり暴れると、その思いもエネルギーを使い果たし、(心を乱すだけの)力は持てなくなります。

しずかな状態に、なじんでいきます。

 

すわり終えると、またさまざまな思いが戻ってくるわけですが(その日のスケジュールとか、ずっと気にかけていることとか)、人の生活って、思いに支配され、思いに追い立てられているのだなあと実感させられます。「今日中にこれやらなくちゃ」「それが済んだら、あれやらなくちゃ」といった具合に。思いが数珠つなぎのように延々と続き、気の休まる暇もない。「思いの奴隷」のように、人が思いにこき使われている。

(ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる「時間どろぼう」も、行き過ぎた「思い」の連鎖から生まれたものかもしれません)

 

「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」

「あれが足りない、これも足りない」

人が生活していくうえで必要最低限の「やるべきこと」「手に入れるべきもの」は、確かにあると思います。

ただ多くの場合それは、「思い」によって「必要以上のもの」に増幅され、誇張されたものがアナウンスされている気がします。それぞれの人の「心の声」として。結果、いらないものまで求めてしまう。

 

人の生活は、日々、何かを得たり、失ったりの連続だと思います。一日生きれば一日ぶんの寿命を失い、一日ぶんの新たな経験を得る。その経験の中には人間関係や、健康、仕事、お金、持ち物、さまざまなものが含まれます。さまざまなものを誰もが「得たり」「失ったり」しているのが、人の暮らしなのだと思います。

 

誰でも「今の自分が持っているもの」を思い浮かべることができます。それは現物を伴う財産だったり、目には見えない経験だったり何かの技能だったり、アイデンティティとなる思想や立場だったり、愛情や心のつながりだったり、さまざまなもので構成されています。

また反対に「自分が失ったもの」も浮かんできます。こちらは大体、過去の思い出や後悔とむすびついているはずです。

 

坐禅や瞑想がうまくいくと、「自分が得たもの」からも「失ったもの」からも、しずかに離れていきます。

そしてここからが大事なのですが、「得たもの」から離れていっても、「失ったもの」から離れていっても、何も無くなっていないところで、すわっているのです。

「これまで得てきた一切合切をなくしても、身体の一部や機能を失っても、何も無くならないのだな」という、たしかな自信に出会います。

 

これは自分の持ちものに依存しない、根拠のない自信です。傷つけることも、汚すこともできません。

 

この自信に気づき、それが持続するようになれば、生活のなかで何かを得ても失っても、大さわぎすることはなくなると思います。環境や他人の思惑にふりまわされることも、減っていくように思われます。

状況はごちゃごちゃしたままなのですが、それがとてもクリアーにみえているというか。傍観や現実逃避とも少しちがって、必要な時は体がうごきます。おそらく、その時最適な行動をとるようになる(それで問題は解決しなくても、その時とれるベストの行動をとる)。

 

まずは「すわっている時の状態」をよく自覚する。その感覚になじんでいく。それが定着するにつれ、普段の生活でも「すわっている時の自信」が、はみだすようになってくる。

変化は少しずつで、時間もかかりますが、そうすると自然なペースで生きられるようになる。「生きづらさ」のようなものから、解放されていくのだと思います。

 

自分のルーツ

つい最近のことですが、自分の父がたの家系について知る機会がありました。

 

うちは引っ越しが多かった核家族で、祖父は父がたも母がたも僕がうまれるずっと前に亡くなっていたので、おじいちゃんってどんなものかよくわからなかったし、それより上の世代のことも全然ぴんと来なかったんですよね。父もそういう話はしなかったし。

 

今回わかったのは祖父、曽祖父、曽々祖父あたりまでだったんですけど、僕が「自分個人のパーソナリティ」と思っていた二、三の要素を、じっちゃんやひいひいじいちゃんがはっきりと備えていて、ちょっと笑えるほどでした。

 

自分個人のパーソナリティ。戦争や右翼思想がだいきらいだったり、人生の中ごろから坐禅をはじめたり。「理由はないけど、俺はなぜかこうなのだ」とおもっていたことが、じっちゃんや、そのまたじいちゃんの人生の象徴的な出来事だったりした。

 

核家族に育ち、各地を引っ越してまわっても、影響めちゃくちゃ受けてたんですね。

 

家系ってばかにできないと思いました。

 

僕には霊感がないので、自分の前世とかみたことは一度もないのですが、「事実上の前世」みたいなものを見た気がしますw。

 

前世に興味がある人は、まずは家系をしらべてみるといいと思いますよ。いろいろわかって、スッキリすると思います。

 

ただ、じっちゃんたちの人生は彼らのもので、どんな終わり方であれ完結しているので、僕がその道に沿って歩く必要もない。というか、歩けない。禅的にいうなら「屁のひとつの貸し借りもできない」ってやつです。

 

自分が肉体的、環境的にどんなルーツから生まれてきているかがわかったら、それをふまえて、じゃあ今の自分に何ができるか、何をしたいかということをあらためて考え、生きていく。「自分のパーソナリティ」と思い込んでいるものも含めた、自分のルーツにこだわりすぎずに。

 

塩澤賢一インタビュー(サンガジャパンvol32)

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5/1(水)発行の仏教専門誌「サンガジャパンvol32(特集・身体と瞑想)」にて、ヨーガ行者の塩澤賢一先生のインタビューが掲載されています。取材と構成を担当させていただきました。20000字のロングインタビューで、読みごたえのあるものになっています。タイトルは「ヨーガの息で観てみよう」。

 

ヨーガでは空気を、というより「空気の中に」といった方が適切でしょうか。「プラーナ」という「生きるエネルギー」をみています。瞑想をおこなうにも、「下を向いた犬」や「魚」といったアーサナをおこなうにも、息をすることでプラーナをとりいれ、体の内と外にめぐらせていきます。

 

さてこの「プラーナ」です。日本では中国の気功の「気」というものは、うさんくさいと思われながらも、それなりの立場を得てきていると思います。「合気道」という日本の武道もあることですし、「気配を感じる」とか「空気を読む」とか慣用句にもなっています。「気を感じる」ことは誰もが行なっているんですよね。でもこれがインドのヨーガの「プラーナ」になるとまだまだ特殊なものというか、ヨガの人たち以外には知られていません。現在のヨガブームで、このさき浸透していくかもしれないですけど。

 

(坐禅では息の中身について気にしていない人が多いと思いますが、もともと中国から来たものなので、やはり「気」をめぐらせる行法なのだと個人的には思っています)

 

僕は中国武術とヨーガの両方を経験していて、「気」と「プラーナ」には相通じる感覚もあるし、それぞれ特有の感覚もあるなと感じています。「息を吸う、吐く」という行為じたいは同じなのですが、「気功の作法」に合わせるか「ヨーガの作法」に合わせるかによって、同じ空気を吸っても、そこからの流れかた、感じかたが変わってくる。音楽にたとえるなら、同じ「ラ」の音でもピアノとヴァイオリンではひびきも音色もずいぶんと違うように。

 

プラーナを、日本人になじみのある「気」と同様のものとして説明している本などもありますが、やはり「気」は「気」、「プラーナ」は「プラーナ」と分けて扱うのが適切だと思います。特に最初の入り口としては。「気」の感覚でヨーガをおこなうと「気の枠組み」から抜けられないと思います。「プラーナ」的な身体感覚がつかみづらく、ヨーガの体系に入っていけない(ヨーガが体になじんでこない)。一度つかんでしまえば、「気」と「プラーナ」の感覚が合流して、ひとつの「息」になっていくとも思うのですが、僕の場合はそうなるまでそれなりの時間が必要でした。

 

「気」を意識して気功の動作にあわせれば「気の感覚」で息はめぐり、「プラーナ」を意識してヨーガの形でうごかせば「プラーナの感覚」としてめぐっていく。そうしているうち身体感覚も世界観も、それぞれの質に変わってくる。どちらがいいかは一概に言えませんが、いずれにしても「酸素」を吸って「運動」する現代的なエクササイズとは明らかに違う、新たな感覚をもたらしてくれると思います。

 

不思議なものですが、伝統的な形(かた)が持つ力なのだと思います。

 

そんな「プラーナ」を使って「ヨーガの息で観てみよう」。2万字の言葉のどこかに、坐禅や瞑想にも役立つ何かがみつかると思います。ぜひ読んでみてください。

 

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「見える」が映っているところ

前回からの続きで、なかなか理解してもらえない感覚かもしれないんですけど、さいきん「見える」ってすごいことだなあと思うようになってきています。

 

「聞こえる」「さわれる」「味わえる」「においがする」も。

「寒い」とか「熱い」と感じられることも。

「思い出せる」とか「考えることができる」ということも。

 

全部あたりまえのようにやっていることだけど、「なぜそれができるか?(そういう現象が起きているか?)」をよくよく考えてみた時、「自分を含め、じつは誰もよくわかっていないみたいだ」ということがわかってきて、「見えるって不思議なことだったんだなあ」と思うようになってきています。

いま僕は編集画面でこのブログのこの文章を「見ていて」、みなさんはアップされたブログとしてこの文章を「見ている」と思うのですが、その「見える」はどこで起きているのか?
「ブログを書いている僕」と「ブログを読んでいるあなた」は、時間的にも場所的にも違うところで「この(同じ)文章」を「見ている」わけで、常識的にかんがえればそこにはズレが生じています。

違う時間に、違う場所で、それぞれに「見て」いる。僕はいま吉祥寺のフレッシュネスバーガーにいて、2019年の1月31日、19時14分にこの文章を「見て」いるのですが、あなたはいま場所的にも時間的にもちがうところでこれを「見て」いるはずです。

生理的な機能(視神経とか脳とか)でいえば、僕もあなたも同じところが同じように機能しているはずで(同じ「ヒト」という生き物なので)、「同じ仕組み」で「見えている」のだと思います。
ただ僕が問題にしているのは「仕組み」ではなく「この目の前の(いまでいうならこのブログの)映像がうつっているのは、どこなのか?」ということで。前回からさんざん言ってますが。

 

「このブログの、この映像は、どこに映っているのか?」

 


まだ仮説の段階で確証はないのですが、さいきん思うようになってきたのが、「それがあるところに、映像そのものとして映っている」「映るということが見えるということである」という可能性です。

 

もうすこしわかりやすく言うなら、無色透明ですくなくとも3D以上の構造をもつスクリーンのようなものがこの「世界」とか「意識」とよばれているもので、このブログの文章、私のタブレット、あなたのスマホもしくはPC、手、机、などなど、「いま目の前に映っているもの」はすべてその「意識」に映っている。それを「世界」と呼んでいる。このブログをはじめた頃から、同じようなことは言ってたと思いますが、より確信は深まってきています。

 

意識は無色透明で、いまのところ観測のための機器も発明されていないようなので、科学の「観察対象」にはならず、科学的に語ることはできないけれど、科学的に語れないというだけで、我々みんな体ごと、どっぷりとそこに浸かっている。

 

禅や瞑想をやっている人でもないかぎり、なかなか理解してもらえない感覚だと思うのですが、私が見ているこの映像も、あなたが見ているこの映像も、「(意識という)おなじところ」に映っているのではないか? 

 

「おなじところにうつっているもの」を、別々の場所、別々の時間に、別々のからだを介して「見て」いる。

(前回から問題にしていた、記憶や想念、それらが想起するイメージも、それそのものとしてそこ(意識)に浮かんで、見えているのではないか、と思っています)

厳密には「映るものを見る」(見る→映っている)という関係性ではなく、「映っている時点で見えている」(見る=映る)という関係性で、「別々の場所、別々の時間、別々のからだ」というのが「観念がみせている錯覚」であり、我々はそれぞれの自意識を通して「個々が分離しているという幻想」をみていることになっています。禅や瞑想の世界観ではね。

 

 

「意識」って、「空間」や「空気」や「日光」とおなじように、「みんなで共用してるもの」だと思うんですよね。地面は「土地」(所有)の概念をもちだして「ここからここまでウチの土地だ!」と独占することもできるけど、空間や空気、陽の光となるとさすがに無理があります。このさき世の中がもっとせちがらくなって、「空気使用料をはらいたまえ!」とか言い出す輩が出てこないともかぎりませんが、彼らにしても本当の意味での「所有」はできません。むちゃくちゃないいがかりをつけてるだけで。空気も空間も(本当は海も大地も)みんなで「共用」しているものです。


「共用」しているからみんな、同じ空間の同じ座標上に、たとえば「1個のリンゴ」といった同じものを認識することができる。果物屋でおばちゃんが「このリンゴひとつちょうだい」と言って、店のおっちゃんが「これな?」と応対する時も、「同じ意識のスクリーン」を「共用」しているからこそ、そういうことができる。別々の人どうし、同じリンゴを見ることができる。


全体的な「意識」と個々人の「こころ」の関係は、「広場」と「ブルーシート」にたとえることができます。

 

ちょっと先になりますが、お花見のシーズンともなると、みんな公園の広場にブルーシートをしいて酒盛りをしますよね。「ここからここまでがウチらの場所!」というのがブルーシートが持つ意味で、それってまさに自我的な「こころの範囲」と同じ線引きだと思うんです。

ブルーシートはたしかに「ウチらの場所」でもあるんでしょうけど、そのブルーシートが敷けているのは誰のおかげじゃ? と問われれば、その下にある「地面」のおかげなわけです。「大きな広場」があるから、その上にのっかってみんな「うちらうちら」とシートが敷ける。

 

「広場」が「意識」で、「ブルーシート」が「個々人のこころ」です。

 

半畳くらいの狭いシートもあれば、柔道場くらい広いのもあるでしょう。かたちもいろいろでしょう。

 

何かの拍子で隣のグループと揉めることもあるでしょうし、見知らぬどうし仲良くなることもあるでしょう。

 

どちらにせよ、広場全体が地続きになっているから、シート間の行き来ができてるわけですよね?

 

個々人のこころも、別々ながらに交流できるのは、それぞれが「意識」で地続きになっているから、だと思うんです。

 

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このバラバラの青い枠に、一斉にリンゴが映ったりもします。その時、「みんなでリンゴを見ている」が起きている。

 

 でもってワクをとっぱらえば、広場全体にすわれるよというのが、坐禅であり瞑想なのだと思います。広場全体にリンゴが映ります。広場全体がひとつのリンゴです。禅の公案に「庭前柏樹子」、悟りとは何か?と問われ、そのとき庭に見えた柏の樹を示した、という問答がありますが、この時は意識全体に柏の樹が映り、意識全体が一本の柏樹だったと思われます。そしてここがミソですが、庭前柏樹子(9世紀の中国での出来事)で柏を映した意識は、いまこのブログ(2019年の日本での出来事)を映している意識と全くおなじものというところです。時代も場所も関係がない。庭前柏樹子も、果物屋での「リンゴ」「これな?」も、起きてることは同じこと。そういうところに我々もいる。

 

図では便宜的に緑の点線で「広場」を表現しましたが(面積があるように見えますが)、じっさいは「意識」なので、大きさも範囲もかたちもありません。ということはそこにあるブルーシート、つまり個々の「こころ」も、大きさも形もないことになってきますね。書いてて今気づいたけど、なんてこった。

 

坐禅や瞑想中は、形も重さもある肉体をもちながら、大きさもかたちもない、時代も場所もない、意識の広場にすわっていることになります。肉体として物質の世界に存在しつつ、形なきこころ(意識)の世界に踏み込んでいるようです。

 

我々はどこで「見ている」のか?

「こころの声を聴く時」にもつながる疑問なんですけど、記憶を思い出している時、そのイメージの映像って、我々はどこで見てるんでしょうね? 「記憶やイメージが思い浮かぶ時、それはどこに映っているのか?」でもいいんですけど。

 

こころの中? 頭の中? 脳味噌の中?

 

Googleで検索したり、一般向けの脳科学の読み物(『意識をめぐる冒険』(クリストフ・コッホ著)『意識はいつ生まれるのか』ジュリオ・トノーニ著)など)を読んでみましたが、はっきりした答えはみつかりません。

 

視床ー皮質系の堅固な中核には、刺激に対する反応のレパートリーが潤沢につまっており、見たり聞いたり感じたりすることにおいては感覚器官の影響を受けるが、感覚器官の協力がなくてもやはり、見たり聞いたり感じたりできる。だから、大脳皮質のニューロン(※神経細胞の名称。筆者註)に電気的な刺激を直接与えると、ある感覚が意識に浮かぶということが起きるのだ。目を閉じても情景を思い浮かべたり夢に見たりできるのも、同じ理由からである」(『意識はいつ生まれるのか』より)

 

といったぐあいに、大脳皮質のある部位が記憶(にまつわる映像などの感覚)の想起に関係してはいるようです。ただ一般向けの読み物のせいか、どこを刺激すれば見たり感じたりできるのか、その具体的な位置の特定がされていないので、もうひとつスッキリしないんですよね。大脳皮質って要は脳の表面ぜんぶのことだと思うので、「大脳皮質のニューロン」っていわれてもなあ(視覚的記憶が浮かぶ時に脳のどこが働いているか、ご存知の方がいたらご教示ください)。

他方、目で物を見る時の「視覚映像」となると、後頭部にある「視覚野」とよばれる脳の領域で(目からはいった光の情報を電気信号に変換し、視神経を通して)処理することで、映像の認識が起きているようです。

 

ただいずれにしても「映像が見えている時、脳のどこが機能しているか」はわかったとしても、そこがはたらくことでなぜ「見える」(映像の認識)が起こるのか? そもそも「認識する」とは、どういうことなのか? それに対する説明は見あたらないんですよね。

脳味噌のどこかがはたらく時、記憶なり物質の「映像」がなぜ我々には「見える」のか?
さいしょの質問に戻るなら「記憶やイメージが思い浮かぶ時、それはどこに映っているのか?」

 

頭の中で、映画やプロジェクションマッピングのような(投影)、あるいはイルミネーションや液晶モニターのような(発光)、なんらかの映像現象が起きているから、我々にもそれが「見えている」のか?
もしそうだとすると、脳内でその映像を見ているのは何ものか? この設問は「ではその何ものかの内側で、それを見ているのは何ものか?」といった終わりなき問いを生むことになり(マトリョーシカのように「中の人」が何重にも入ってる入れ子構造の視点が無限に生まれ)、答えが出ません。

 

「見える」とはどういうことなのか? 「認識する」って言うけれど、その「認識」とやらはどこで起きてるのか? 認識しているときに脳のどこが作動しているか、ではなしに。認識の「場」は、どこに立ち上がっているのか?

 


ここでちょっと瞑想的なアプローチをとってみます。

目をつむります。

 

見えなくなります。

 

本当に?


たしかにまぶたで光が遮られるので「暗く」はなっています。でもそれって「見えない」(視覚が無い)ことになるんでしょうか?

「暗い」という感覚はわかっているわけで。そこに視覚は残っていて、「暗いを見ている」状態ではないのか?

 

まぶたを閉じたまま正面を「見よう」としていると、暗いなかで左右の目がそれぞれ前方にフォーカスしようとする感覚が出てきます。
そのうち両目の先にふたつあった焦点が、中央に寄ってきて一本化されます(眉間の前あたり)。
さらにひとつになったその焦点を後方で、扇形のようにひろがって受け入れようとする視座がでてきます(後頭部のあたりから、さらに後方の空間まではみ出る感じ)。

 

「ああ、見るってこういうことなんだなあ。ふだん目をあけて見てる時も、こうして見ているんだろうなあ」と感じられます。

 

そのまま続けていくと、前後にわかれていた「焦点」と「視座」も眉間の奥あたりでひとつの点にまとまり、そこから同心円状に(波紋のように)ひろがる感じがでてくる。ここまで来るともう「見る」ではなく、瞑想的な意識に移行していますね。

 

一致しているかはわかりませんが、瞑想状態に入る前の「扇型の視座」が感じられる後頭部のあたりって、ちょうど脳の視覚野と重なる領域のようです。視覚野は頭蓋の外まではみ出してはいないですけど。

  

「イメージや記憶の映像って、どこに浮かんでいるのか?」 そもそもの疑問を持つようになったのは10年近く前、坐禅をはじめてすぐの頃。浮かび続ける雑念に「ああうざい、こいつら実体もないくせに、どこに浮かんでるんだ?」と思ったのがきっかけでした。

その疑問につられるように「まてよ、じゃあ目の前に映る実世界の映像はどこに浮かんでいるんだ?」との疑問も出てきました。それまでは「見える」ことが当たり前すぎて、考えたこともなかったけど。

そうなると「想念が浮かんでいるところ」と「視覚映像が浮かんでいるところ」はそれぞれどこなのか? 違う場所なのか同じ場所なのか? という疑問も生まれてきます。

 

我々はふだん「視覚の映像」と「想念の映像」を二重写しのように同時に見てますよね。たとえば僕はいまタブレットでこのブログを書いていますが、画面を見ながら、1時間ほど前に食べたつけ麺(あつ盛り)のビジュアルを思い浮かべています。こがね色の麺からふわあっ!とあがる白い湯気、とろりとからむ茶褐色のつけ汁…タブレットの画面と二重写しで、同時に見えています。(よっぽどおいしかったんですね)

「目の前にあるタブレット」と「さっきのつけ麺」。現存するものの映像と、記憶が想起する映像。映ってるのはいったいどこだ? 同じ場所?違う場所?


まだ確証はもてないのですが、ヒントになりそうな気づきはあります。

 

坐禅を組む時って、まぶたを半分を閉じた「半眼」の状態で行なうので、眼の下半分が「視覚映像」となり(映るのは壁と床と手足だけですが)、上半分は空白の「想念の浮かぶ場所」になってくるんですよね(さいしょ暗いけどぼんやり明るくなってきて、普段より想念が見やすくなる)。そして映っているのはひとつの目玉なので「視覚映像」と「想念」が(質はちがうけど)等価値にみえてくるんです。前者にフォーカスしすぎると現実のまま禅定に入れないし、後者に寄りすぎると妄想にハマる危険性が出てくる。その間のちょうどよいところ。釈迦が説くところの「中庸」を保つことが、ここでも求められるわけです。(つづく)

 

 

レット・イット・ビー

「こころの声」って言うけれど、そもそもどこで聴いてるんでしょう?

 

耳ではないですよね。実際に音がしてるわけではないのだから。聴こえているのはその人だけで。
常識的にかんがえると、脳のどこかで聴いている? 「聴覚野」とか呼ばれるところが、何かの刺激に反応している?

 

でも「こころの声」っていうけど、幻聴のようにありありと誰かの声を聴くというよりも(そういう人や場合もあるでしょうけど)、キャッチした瞬間は映像的だったり、意味そのものが思いとして飛び込んでくることが多い気がします。それを「えっと、何だっけ?」と今一度確認する時、映像にテロップをつけるだとか、あるいは取ったばかりのメモを復唱するように確認する。そのとき音声(のような)認識が起こる。

何段階かの瞬間的なプロセスを経て、我々は「こころの声」を「聴いている」のだと思います。

 

たとえば僕がよく聴くこころの声に、亡くなるちょっと前の父親からかけられた「がんばれ!」という「声」があるのですが、これは音だけで来ることはまずないんですね。映像というかその時のシチュエーション込みの記憶としてやってくる。病院のベッドから体は起こさず(起こせず)、でも病室を出ようとする僕に向けてふりしぼるように「がんばれ!」と声をだした、その体験全体としてよみがえる。その声を聞いた時の、その後何度も思い出した時の、僕の気持ちや思いもたぶん一緒にやってきてる。
時とともに色あせているようにも見えるし、鮮明だとも思える。


「がんばれ!」の受けとめかたも、そのつど違う。崩れそうな時、背中を押してくれることもあるし、さしたる感慨もなく右から左へぬけてく時もある。

 

「こころの声って何だろう?」このところずっと考えていて、瞑想で内観する時もそれをテーマに「思いの去来」をみているのですが、基本的には「知らないことは心にも浮かんでこない」というのが、ひとつの結論です。どこかで経験したこと、見聞きしたこと、その時感じたり思ったりしたことが「記憶」としてストックされていて、ある時ふっとわいてきている。

 

その中で印象の強いもの、重要度の高そうなものだけを「こころの声」と認定している。そうでないものは「忘れてる」という自覚すらなしに忘れている。

 

基本的には「記憶」や「思い」なのだと思います。未知ではなく既知のもの。

 

ふってわいたように思えても、過去にどこかで経験している。「迷わず進め」でも「もうすこしの辛抱だ」でも「なめんな!」でも、誰かの口ぐせだったり、本の一節だったり、自分で口にしていたり。

 

出来事の概要は忘れていたり、ディテールが改変されていたり、記憶同士の結合や組み換えが新しい情報を生む(新たな「気づき」を得る)ことはあるけれど、基本的には「知ってる」ことばかり。瞑想や禅定が深くなるほどに、ずっと忘れてた記憶がうかびあがり、「なんだ、自分オリジナルと思っていたあの考えも、元ネタはこれだったのか」と愕然としたり、がっかりしたり。

 

瞑想について書かれた本やブログなどをみていると「潜在意識にアクセスする」とか「見えないものの存在を知る」とか、神のお告げでも聴けるようなうたい文句がチラつきますが、その「お告げ」って、言葉や映像や音といった「かたち」でやってくるものではないと思います。そこまで即物的ではない。(かたちをとる前の「イメージ」ならあると思うけど、そのイメージを認識したとたん、色、言葉、音といった「かたち」をとるので、それはもう別物、抜けがら、残骸だと思います)

 

瞑想や坐禅の最中は、意識が日常のそれとは異なる状態に変容はするので、「未知の感覚」を体験することは何度でもあると思います。ただそれは「感覚」であり「体験」なので、そのままに持ち運ぶことも、そのままで誰かに伝えることもできない。瞬間的に消え、「記憶」となった「感覚」や「体験」を表現する際つかってるのは、「言葉」や「記号」(色、音、形、身ぶりや感触)といった既知のもの。

 

発話者が「私」になった時点で、もう「天の声」ではないんです。だから、わたしは神様という人、そうは言わずもそれと匂わせてる人は、きっとみんな嘘つきです。後者の方が数も多いし、逃げが打てるぶん、たちもわるいかもしれない。

 


「困難で苦しみのさなか、(むかし亡くなった)僕の母さんのメリーがやってきて、『大丈夫、なるようになるわよ』とささやいた」

 

ザ・ビートルズ『レット・イット・ビー』の歌い出しですが、これはポール・マッカートニーの見た夢から生まれた歌なんですよね。メンバーの気持ちがもうバラバラで、バンドも崩壊寸前で、でもポールはなんとか続けようとしていた時のこと。

 

「母さんのメリー」は“Mother Mary”で、「聖母マリア」ととることもできますが(「そうとる人もいるだろうね」と無神論者のポールも何かの時に答えてた。否定はしなかった)、どっちにとるかは聴く人しだいでしょうね。

アルバムで聴くと、前説的な曲の『ディグ・イット』が「聴こえる? 天使がくるよ」で終わり、そのままあの前奏がはじまるので、マザーメリーの「マリア様感」ががぜん増すのですが。。。


おしつけがましくなく、解釈に幅をもたせることができるのは優れた表現で、聴き手の感受性や想像力を信頼しているのだと思います。

 

どっちにとってもそれぞれの味わいがあり、やっぱりいい歌だなあとおもいます。

 

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「こころの声」は「本心」か?

「こころの声」とは何か? 別の言い方で一番近いのは「本心」なのかな?と思います。こころの声を聴く、イコール、自分の本心を知る。

 

何かモヤモヤしてすっきりしない。そういう時はたいてい、目を背けている出来事があったりします。つねにスッキリ!生きてる人も、そうそういないと思いますけどね。大なり小なり、みんな何かしら抱えてるわけで。

 

坐禅や瞑想の本来の目的からはちょっとずれますが、禅や瞑想をしていると、わいてくる「思い」や「考え」、折にふれて起こる「感覚」に通常よりも気づくようになるので、それらが象徴する「本心」にも気づきやすくなるのかな、とは思います。

ただその本心にも程度や種類があって、一時的に何かに熱狂している時の「本心」ならいずれ冷める(変わる)し、その本心をえらんで行動することで大損をしたり、誰かを傷つける「本心」もあるし(本心を知らない方がいい時もある)、また根源的なところに近い「本心」が自分がのぞむようなものでは全くなく、変えることもできず(なんせ本心なので)、たちの悪い持病のように一生つきあう覚悟を迫られる、なんてことも出てくると思います(ここまでくると、その人の「本性」とか「宿命」とか呼んだほうがいいのかもしれない。生まれつきの鬼っ子のような「思い」)

 

「本心」というくらいなので、起こる場所はやはり胸のあたりなんでしょう。頭にひらめく「インスピレーション」や、何かを見た瞬間、その本質や特徴をつかむ「直観」も「本質に近い思い」だとは思いますが(これも起こるのは頭)、胸の奥からわいてくる、腹の底から上がってくるような「深い思い」というものがあると思います。

身体や感覚がにぶっていたり、頭の中が雑音でいっぱいだと、キャッチしにくいものだと思います。ささやかな波のように微かなもの。水面下の深いところでは大きな潮流がうごいているのかもしれない。

 

たとえば「なんとなくいやな予感」がしていて、だけど「いや大丈夫、気のせい」と思い直して、後になって結局、「予感の通りだった」みたいな出来事ってあると思います。

あるいは「ずっと気になっていた」けど、「自分には無理」とか「無関係」と思っていて、でも何かの拍子にそちらに進むことを決断するとか。道がひらけるとか、縁がつながるとか。

 

どちらも「本心」(上の例だと「直観」とか「快不快の感覚」とか「奥深い衝動」とか)を「理性」(表面的、短期的な思考の判断)で抑圧しているのだと思います。理性による抑圧が、かならずしも悪いわけではないと最近は思いますけど。それが必要な状況、必要な時期もあるだろうと。

 

 

我が身をふりかえると、30代の頃すごくお世話になっていた方がいて、でも何かその人に言い得ぬ違和感を感じていた。リアルタイムでははっきりと自覚できなかったし、感じた違和感を見て見ぬふりもしていた、と言えるのも10年近く経った今だからです。


禅をはじめて1年半くらい経ったあたりで、僕の感じ方、ふるまいかたが変わり(いま思えば)、その人とのつきあいかたも変わっていったのだと思います。

 

「ああ俺、この人に世話にもなってたけど、許せないところ(人倫に反することや常軌を逸した言動)もいっぱい見逃してたんだな。気づかぬうちにこの人のこと、きらいになってたんだな」


そんな「こころの声」、「本心」に気づいてからは、(それまで言えなかった)言うことも言うようになり、結果、距離も生まれ、疎遠になっていきました。いや嘘ですね、疎遠になったのではなく、最後ブチッと縁が切れた。いや「切れた」のではなく「切った」のかな。すくなくとも「切れてもいいや」とは思ってました(ブログのように人に見せる文章だと、自分を良く見せたいので、なかなか本心が書けませんね。気づかぬうちに嘘をついている。誰にも見せない日記では、そのものズバリなんですけど)。

 

当時の僕には必要な、ある種必然的な選択で、その方のその後を見るに、つきあいをやめて正解だったなとも(いまのところは)思います。ただ、その人の問題ではなく、僕自身の人づきあいの作法として、「もう少しやんわりと、つかずはなれず、距離を置くこともできたんじゃないの?」時間が経ったいま、こころの声がそう語りかけてくるときもあります。