息をかぞえて

禅・こころとからだ

塩澤賢一インタビュー(サンガジャパンvol32)

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5/1(水)発行の仏教専門誌「サンガジャパンvol32(特集・身体と瞑想)」にて、ヨーガ行者の塩澤賢一先生のインタビューが掲載されています。取材と構成を担当させていただきました。20000字のロングインタビューで、読みごたえのあるものになっています。タイトルは「ヨーガの息で観てみよう」。

 

ヨーガでは空気を、というより「空気の中に」といった方が適切でしょうか。「プラーナ」という「生きるエネルギー」をみています。瞑想をおこなうにも、「下を向いた犬」や「魚」といったアーサナをおこなうにも、息をすることでプラーナをとりいれ、体の内と外にめぐらせていきます。

 

さてこの「プラーナ」です。日本では中国の気功の「気」というものは、うさんくさいと思われながらも、それなりの立場を得てきていると思います。「合気道」という日本の武道もあることですし、「気配を感じる」とか「空気を読む」とか慣用句にもなっています。「気を感じる」ことは誰もが行なっているんですよね。でもこれがインドのヨーガの「プラーナ」になるとまだまだ特殊なものというか、ヨガの人たち以外には知られていません。現在のヨガブームで、このさき浸透していくかもしれないですけど。

 

(坐禅では息の中身について気にしていない人が多いと思いますが、もともと中国から来たものなので、やはり「気」をめぐらせる行法なのだと個人的には思っています)

 

僕は中国武術とヨーガの両方を経験していて、「気」と「プラーナ」には相通じる感覚もあるし、それぞれ特有の感覚もあるなと感じています。「息を吸う、吐く」という行為じたいは同じなのですが、「気功の作法」に合わせるか「ヨーガの作法」に合わせるかによって、同じ空気を吸っても、そこからの流れかた、感じかたが変わってくる。音楽にたとえるなら、同じ「ラ」の音でもピアノとヴァイオリンではひびきも音色もずいぶんと違うように。

 

プラーナを、日本人になじみのある「気」と同様のものとして説明している本などもありますが、やはり「気」は「気」、「プラーナ」は「プラーナ」と分けて扱うのが適切だと思います。特に最初の入り口としては。「気」の感覚でヨーガをおこなうと「気の枠組み」から抜けられないと思います。「プラーナ」的な身体感覚がつかみづらく、ヨーガの体系に入っていけない(ヨーガが体になじんでこない)。一度つかんでしまえば、「気」と「プラーナ」の感覚が合流して、ひとつの「息」になっていくとも思うのですが、僕の場合はそうなるまでそれなりの時間が必要でした。

 

「気」を意識して気功の動作にあわせれば「気の感覚」で息はめぐり、「プラーナ」を意識してヨーガの形でうごかせば「プラーナの感覚」としてめぐっていく。そうしているうち身体感覚も世界観も、それぞれの質に変わってくる。どちらがいいかは一概に言えませんが、いずれにしても「酸素」を吸って「運動」する現代的なエクササイズとは明らかに違う、新たな感覚をもたらしてくれると思います。

 

不思議なものですが、伝統的な形(かた)が持つ力なのだと思います。

 

そんな「プラーナ」を使って「ヨーガの息で観てみよう」。2万字の言葉のどこかに、坐禅や瞑想にも役立つ何かがみつかると思います。ぜひ読んでみてください。

 

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