息をかぞえて

禅・こころとからだ

「こころの声」は「本心」か?

「こころの声」とは何か? 別の言い方で一番近いのは「本心」なのかな?と思います。こころの声を聴く、イコール、自分の本心を知る。

 

何かモヤモヤしてすっきりしない。そういう時はたいてい、目を背けている出来事があったりします。つねにスッキリ!生きてる人も、そうそういないと思いますけどね。大なり小なり、みんな何かしら抱えてるわけで。

 

坐禅や瞑想の本来の目的からはちょっとずれますが、禅や瞑想をしていると、わいてくる「思い」や「考え」、折にふれて起こる「感覚」に通常よりも気づくようになるので、それらが象徴する「本心」にも気づきやすくなるのかな、とは思います。

ただその本心にも程度や種類があって、一時的に何かに熱狂している時の「本心」ならいずれ冷める(変わる)し、その本心をえらんで行動することで大損をしたり、誰かを傷つける「本心」もあるし(本心を知らない方がいい時もある)、また根源的なところに近い「本心」が自分がのぞむようなものでは全くなく、変えることもできず(なんせ本心なので)、たちの悪い持病のように一生つきあう覚悟を迫られる、なんてことも出てくると思います(ここまでくると、その人の「本性」とか「宿命」とか呼んだほうがいいのかもしれない。生まれつきの鬼っ子のような「思い」)

 

「本心」というくらいなので、起こる場所はやはり胸のあたりなんでしょう。頭にひらめく「インスピレーション」や、何かを見た瞬間、その本質や特徴をつかむ「直観」も「本質に近い思い」だとは思いますが(これも起こるのは頭)、胸の奥からわいてくる、腹の底から上がってくるような「深い思い」というものがあると思います。

身体や感覚がにぶっていたり、頭の中が雑音でいっぱいだと、キャッチしにくいものだと思います。ささやかな波のように微かなもの。水面下の深いところでは大きな潮流がうごいているのかもしれない。

 

たとえば「なんとなくいやな予感」がしていて、だけど「いや大丈夫、気のせい」と思い直して、後になって結局、「予感の通りだった」みたいな出来事ってあると思います。

あるいは「ずっと気になっていた」けど、「自分には無理」とか「無関係」と思っていて、でも何かの拍子にそちらに進むことを決断するとか。道がひらけるとか、縁がつながるとか。

 

どちらも「本心」(上の例だと「直観」とか「快不快の感覚」とか「奥深い衝動」とか)を「理性」(表面的、短期的な思考の判断)で抑圧しているのだと思います。理性による抑圧が、かならずしも悪いわけではないと最近は思いますけど。それが必要な状況、必要な時期もあるだろうと。

 

 

我が身をふりかえると、30代の頃すごくお世話になっていた方がいて、でも何かその人に言い得ぬ違和感を感じていた。リアルタイムでははっきりと自覚できなかったし、感じた違和感を見て見ぬふりもしていた、と言えるのも10年近く経った今だからです。


禅をはじめて1年半くらい経ったあたりで、僕の感じ方、ふるまいかたが変わり(いま思えば)、その人とのつきあいかたも変わっていったのだと思います。

 

「ああ俺、この人に世話にもなってたけど、許せないところ(人倫に反することや常軌を逸した言動)もいっぱい見逃してたんだな。気づかぬうちにこの人のこと、きらいになってたんだな」


そんな「こころの声」、「本心」に気づいてからは、(それまで言えなかった)言うことも言うようになり、結果、距離も生まれ、疎遠になっていきました。いや嘘ですね、疎遠になったのではなく、最後ブチッと縁が切れた。いや「切れた」のではなく「切った」のかな。すくなくとも「切れてもいいや」とは思ってました(ブログのように人に見せる文章だと、自分を良く見せたいので、なかなか本心が書けませんね。気づかぬうちに嘘をついている。誰にも見せない日記では、そのものズバリなんですけど)。

 

当時の僕には必要な、ある種必然的な選択で、その方のその後を見るに、つきあいをやめて正解だったなとも(いまのところは)思います。ただ、その人の問題ではなく、僕自身の人づきあいの作法として、「もう少しやんわりと、つかずはなれず、距離を置くこともできたんじゃないの?」時間が経ったいま、こころの声がそう語りかけてくるときもあります。