息をかぞえて

禅・こころとからだ

結局のところ、自分とは何か?

坐禅とヨーガの瞑想をぼちぼちと続けていて、僕の中でまだはっきりしていないのが「自分」です。「結局のところ、自分とは何なのか?」2018年もそろそろ終わりますが、去年同様、今年も持ち越しそうな課題です。


「寒い」「暑い」「痛い」などの「感覚」は刺激に対する反応にすぎず「自分」ではないし、「〇〇が好き、嫌い」「〇〇したい、したくない」というのも、記憶や出来事をなかば自動的に比較判断している「思考」のはたらきであって「自分」ではない。
坐禅や瞑想について書かれた書物をみていると、「自分(私)はいないのだ」という記述にもよくぶちあたる。仏道をならうというは自己をならうなり、ふむ。自己をならうというは自己をわするるなり、ふむふむ。自己をわするるというは万法に証せらるるなり。このあたりで「オレまだだ」となる。

 

ヒトは脳みそが大きく複雑になり、ことばを手に入れ、いろいろなものに名前をつけ、行動や知覚判断の主体にも「自分(私)」という名前をつけ、それらをカードのように頭の中で並べては自他の区別をつけ、「私と他者と世界」のイメージをつくりあげ、その中で繰り広げられるドラマに一喜一憂している。大半の大人はそれを「現実」として暮らしている。ものごころつく前の子どもはそうでもなさそうだけど。

と、それくらいまではわかってるんですけど、そこから先がわからない。

 

「自分」というものが「思考(ことば)」が生み出す錯覚だとして、なぜ人それぞれ、違った特定の思考や行動のパターンをとるのか? ひらたく言えば、なぜ人それぞれ、性格や価値観が違っていて、個々の特性(個性)があるのか?

常識的に考えればそれは生まれ育った環境が大きく影響しているからだろうし、それまでの人生で起きた出来事を「なんらかの基準」で取捨選択してきた結果だろうし、その「なんらかの基準」は「その時の時代の気分」や「家庭や学校、会社や国家などから受けてきた教育」に大いに左右され、その根っこには「人それぞれ、もって生まれた性質」があるのだろう、とは思います。

 

人それぞれ、もって生まれた性質。自分のやりかたやポリシーにすごくこだわる「がんこな人」とか。自分なんてないかのように相手や環境に合わせている「お調子者」とか(でも自分にとって損か得かはちゃんと見きわめている!)。犬が好きとか、猫が苦手とか。性格が明るいとか暗いとか。「自分はいない」にしても、あきらかにひとりひとりが違っている。
「私はいない」と言いつつも、その人をその人たらしめている特定の性格や価値観というものがある。ある時はそれは人を助け、まわりから「個性」とか「才能」とか「人徳」とか呼ばれ、またある時は本人や周囲に迷惑をかける「悪い癖」と呼ばれ、みんなを苦しめる。

 

坐禅では「仏性」とよび、ヨーガでは「真我」とよばれている「ほんとうの私」(個性をもたない純粋意識)がひとりひとりに作用しているとして、その現われかたは依然としてそれぞれの「特定の性質」を通して、十人十色の個性をもった「自分」として表現されている気がします。

僕の場合、ある程度すわってみて、自分がとらわれていた「思い込み」にはいろいろ気づけたけれど、一周回って性格じたいはやはり「がんこ」だったり。「これは無意味なこだわりだ!」と自覚できても、その行動をやめれなかったり。そういう「自分」を発見して、ふりだしに戻った気分になったり。結局なるようにしかならないのかと。

 

坐禅でもヨーガの瞑想でも、すわっていると「自分」を形成しているさまざまな想念や記憶がわらわらと出てきます。年末の大そうじのように。かたづけてもかたづけても、なかなかかたがつかない。
坐禅の場合は何が出てきても「これは自分ではない」「これは自分ではない」とわきつづける想念や記憶をやり過ごして禅定を深めていきますが、(ほとんど)何も出てこなくなっても、坐を解き、日常に戻ると「がんこ」だったり「お調子者」だったりする「自分」がこんにちはと顔を出す。それを使って(それに使われて?)また人づきあいや生活をしていく。

 

そのように作用してしまう「自分」という「はたらき」とは、結局なんなんだ?って、わからないままなんですよね。そこのところをはっきりさせたいのに。それ自体はバラバラであるはずの、さまざまな想念や記憶を統合して、ひとつに束ねてしまう「自分というはたらき」とはなんなのか?


常識的にいえば、記憶や想念をひとつの人格として統合する作用は「脳の機能」であるとか、人それぞれのもって生まれた性質は「遺伝」や「家系」といった概念で、あるていどの説明はできるだろうし、はたまた仏教やヨーガの世界観で行くなら「生まれ変わりを続けている主体が存在する、という錯覚」から覚めることで解決はできるはずなんです。「もって生まれた性質」にしても「前世からの因縁」とか「宿業」とか「カルマ」のひとことで片づけることもできる。はっきりとそれを認識できるなら(僕にも「すわってる最中に、何かそれらしきものが見えるかも?」とか期待してた時期もあったのですが、そっち系の体験は何ひとつないので今のところ無理です)。

 

「生まれ変わりを続けている主体が存在する、という錯覚」から、「生まれ変わりを続けている」の部分をとりのぞけば(前世から現世に生まれ変わった記憶が僕にはないので)、「主体が存在する、という錯覚」となり、それって結局「自分(私)がいる」という思い、つまりは「ここに存在している感覚」に戻ってくるんですよね。息が満ちては干き、思いが来ては去っていくという。

 

それが坐を解くと、そこからふつふつとわく「思い」が絡まりだし、熱を帯び、また「自分」というかたまりとして動き始めるのが、止められないんです。

 

我思う、ゆえに我あり」とはさすがにもう思わないけど、「我はなし。されど思う、ゆえに我あり」となってしまっている。

 

坐禅では「仏性」と同格のことばとして「主人公」とか「本来の面目」といったことばも出てきて、公案修行や只管打坐などでそこのところを体得していくのですが、その純粋意識である「仏性」(ほんとうの自己)と、個体として「がんこ」とかの特定の性質をもった「自分」との境い目はどこにあるのか? その見きわめができずにいるんです。自我の根っことでもいうかな。在りかはうっすらとわかるけど、はっきりと見えない。

 

以前のような「頭いっぱいの自分で息苦しい」感覚からは遠ざかりましたが、「しずかでおだやかなところ」で行きどまりとなり、にっちもさっちもいかない状態です。日常生活はそれなりに楽しく送れているんですけどね。