息をかぞえて

禅・こころとからだ

オウムについて思うこと

オウム真理教の松本元代表ら7人の死刑が執行されたようですね。先月ごろから7月執行の噂を耳にしていたので、「ああ本当にやったんだ」とも思いましたが、「え、本当にやったんだ?」との驚きもあります。松本氏が死刑になることで彼を「殉教者」とみる人たちが出てくることや、何らかの報復を警戒して、執行に二の足をふんでいるといった話を聞いていたので。

 

地下鉄サリン事件のあった95年3月20日の朝は、僕も丸ノ内線に乗る予定だったので、「もしかしたら何かの被害に会っていたかも」との思いとともにあります。就職活動で赤坂見附に行く予定だったのを寝すごして、テレビをつけたらニュースでやってた。まだ誰のしわざか、何が起きたかもよくわかってなくて、ただただパニックだったと記憶しています。たぶんタバコに火をつけて、ずっとテレビを見てました。

 

オウム真理教の存在を知ったのはその5〜6年前。大学入試で上京した時、宿泊先の南青山のあたりにベタベタと選挙ポスターが貼ってあって、「よくわからないけど東京こわい」と思いました。どうみても日本の人だけど全員カタカナの名前で。着てるものも違ってて。明らかに違和感のかたまり? 島根の田舎町に住んでいたので、そこまでの変わり者もいなかったんですよね。また集団で、というのがね。ゾウやヒゲのかぶりもので歌い踊る、あの選挙活動も見たかもしれない。まだまだ20世紀で、「世紀末」という言葉も流行してたので、「世紀末やなー」とか思ってた記憶があります。

 

大学に入ってからは「原理」と呼ばれていた統一教会の勧誘を目にしたり、「なかんずく」と名乗る生長の家の勧誘にあったり、「宗教死ねや!!!」と思いつつ、教室になぜか置いてあった「ビートたけし麻原彰晃の対談」のコピーに「ああ、麻原はたけしも認めてんだ? すごいのかな?」と思ったり。いやはや危ない、危ないとこでした。

 

参院選出馬から地下鉄サリン事件、その後の捜査、逮捕、公判、逃走犯の逮捕とリアルタイムで「オウム真理教」を経験してる世代ではあるのですが、正直、以前は(団体にも事件にも)そこまでの関心や興味はなかったように思います。村上春樹の「アンダーグラウンド」とか森達也の「A 」などの「ドキュメンタリー作品」を通じて、「オウムとは何か?」と考えることはあったけど、それって「間接的」なかかわりで。わが身に引き寄せて問い詰める、という感じはなかったです。若いころは新興宗教にも伝統宗教にも、まったく興味なかったですからね。

 

坐禅をするようになり、ヨーガも学ぶようになってから、「オウム真理教とは何だったのか?」を必要にせまられて考えるようになりました。オウムの教義や修行システムには、仏教やヨーガのそれも切り貼りされていたようなので。もう「他人事」ではすまされない。
「どこまでが伝統的な文献にもみられるもので、どこからがオウム独自の見解なのか」だけでも知っておく必要があると思いました。自分の修行を進めるうえでも。さいわいなことに国会図書館に行けば、麻原彰晃の著書や信者の体験談などの刊行物をみることができます。
またそれらと照らし合わせるかたちで、地下鉄サリン事件の公判記録にも目を通しました。まだ1冊、ひとり分しか完読できていないのですが、この度死刑が執行された井上嘉浩死刑囚の記録は興味深かったです(『オウム法廷 9 諜報省長官井上嘉浩』(降幡賢一/ 朝日文庫)。

空虚さをかかえ、宗教に熱狂し(教祖に心酔し、か)、過ちを認めず、破滅に巻き込まれていくさま。公判が進むにつれ変わっていく心境。教祖を否定し、自分を否定し。被害者遺族の娘さんとのやりとりがまた生々しく、読んでいて胸を刺されるようでした。

深く反省したかに見える井上氏ですが、実は死刑を逃れたいがための「演技」も混ざっていたのかも? そう思われる記述もあり、その心中にはわからないところもあるのですが、ただ井上氏のたどった道は、修行や宗教をやるうえで陥りがちなパターンというか、同じ轍を踏まないための「教訓」として(反面教師的に)学ぶこともできると思いました。

オウムに限らず、カルトと呼ばれる集団(いまや宗教団体に限らないかもしれないですね)の仕組み、そこに熱狂する人たちのこころの在りようもわかるかもしれない。似たような過ちを繰り返さないためにも。


ニュースの見出しにもあったように今回の死刑執行は「ひと区切り」なんだと思います。被害者の遺族や(死には至らなかった)被害者の人生はこれからも続いていくし、オウムの後継団体も活動を続けている。脱会して宗教から足を洗った人、別の宗派や方法で修行を続けている人もいるでしょう。僕に知り合いは(今のところ)一人もいないので、まだ「頭の中の想像」でしか、ものを言えてないですけど。

 

身近な実感としてひとつ言えるのは、「オウム」ってきくと、いまだにヒヤッとすることでしょうか。一連の映像が、一瞬うかんでしまう。

 

「オーム」って、オウム真理教が誕生するずっと前から、伝統的なインド宗教のマントラとして唱えられていたみたいですけどね。ヨーガや瞑想を行なううえで欠かせないもののようです。「オ、ウ、ム」というよりは「オーン…」って響いていく感じです、じっさいにやってみると。楽器のチューニングに使う「音叉」の残響にちかい。そうして胸を中心に「こころの調子」をととのえていく。

 

と、くだくだ言っても「やだこわい」と思われるでしょうね。伝わらないと思います。いろいろなヨガ教室のWebとか見ても、みなさん「オーム」のマントラについては、本当に慎重に伝えてらっしゃる。いろいろと苦労、苦心されてきた様子がうかがえます。「私たちのヨガは宗教色を排したものです!」的なキャッチフレーズを多く見かけるのも、やはりオウムの事件が遠因としてあるのだろうな、とかね。でもそれでヨガが「フィットネス的な何か」になったら、元も子もないだろうと。


地下鉄サリン事件の頃は、まさか自分が禅やヨーガなどの「宗教的要素のある行為」にかかわるとは思いもしませんでしたが、いまではいくつかあるマントラのひとつとして、「オーム」をよく使ってます。だから風評被害というか、すっかり悪いイメージがついてしまったので「オームの音がかわいそう」って思ってます。音に罪はないでしょうと。

 

この場を借りてのオウム事件の「総括」とかは身に余りますが、ヨーガの実践者としては「オーム」についた悪いイメージがなくなればといいなと思ってます。

 

まずは日々の修行のなかで「オーム」を「オーム」として鳴らすこと。余分なものはくっつけず。それから僕はライターなので、書く仕事を通じて、伝統的な禅やヨーガ、瞑想について「誤りのない事実」を伝えていければと思っています。なるべく、誤りがないように。


みんな最初は、何か本物を求めて始めたはずです。人はみな間違うので、教祖も自分も社会全体も、それぞれ間違う時があるはずなので、それに気づける「基準」が必要なのだと思います。それはオウムの事件の頃よりも、必要になっている気がします。