息をかぞえて

禅・こころとからだ

「ブッダの瞑想」の元ネタは?

ブッダの瞑想」ことヴィパッサナー瞑想の合宿で気づいたこと、気になったことを書くにあたり、いくつか調べたいことがあったので、瞑想や仏教の本を読んでいます。日本ヴィパッサナー協会( S.N.ゴエンカ氏 )の他にも、ヴィパッサナーの流派って複数あるんですね。それぞれの流派や指導者で解釈が違い、面白いと思うと同時に疑問が深まったり。「結局、釈迦がやってた瞑想法って何だったの?」って。

 

どの流派(本)も「これがそうです!」とばかりにそれぞれの瞑想法と、根拠となる文献(経典)を挙げてくれてはいるのですが、どれも決定打に欠けるように思えます。それぞれの流派(著者)による「解釈」がまざっているというか。まあそれでいいというか、そうするしかないとも思いますけど。もともとの文献(経典)が釈迦の修行のすべてを網羅する形では残っていないようですし。そもそも現代のような「マニュアル本」の発想で記録されていないようだし。釈迦とその弟子の時代、「教え」は口伝えや謡(うた]の形式だったといいます。そうなると言葉を「理解」するというより、向き合った間合に漂うものや、音の持つ響きなどから、∑(゚Д゚)!!!と「気づく」かたちで「伝わった」教えもあるはず(以心伝心。質問に沈黙で応えたという「無記」もそのひとつだと思います)。

 

紀元前5世紀頃といわれる釈迦の時代から2500年以上経った現代、「現存する部分的な文献」を手がかりに「釈迦の修行」を再現しようとするなら、全体像として見えない部分、虫食いになっている空白部分は、やはり個人個人で、瞑想や八正道、戒の実践で起こる「気づき」をもって埋めていくしかないと思います(八正道や戒の厳密な実践は、出家しないと無理な気がしますが)。ヴィパッサナー諸流派の「それぞれの解釈」も、おそらくそういうプロセスを経て生まれてきたものだと思います。

「気づき」となると学問的には認められないでしょう。よくいえばインスピレーション、わるくいえば「論理の飛躍、破綻」ですし、「瞑想体験」という「100%の再現性がないもの」は事実(データ)として扱えない。そもそも瞑想の場である「意識」が科学的には「観察の対象外」です。

 

そうなると「(体験から得た)解釈」に誤りがないか、「客観的に」判断することはできないことになる。各自が「追体験」して「主観」で判断していくしかない。ただ何が「正しい」で何が「誤り」かという基準じたい言語化できないので、自分の主観が「正しい」かどうかは「瞑想をよくわかってる人」に確かめてもらうしかない。

 

それは結局「信頼できる指導者を持て」ということになるのかな。これまた主観的な。。。

 

 

そもそもの釈迦が「科学的に正しい」と証明された人ではないですからね。仏教という宗教行為を学問的に解釈しようとしたり、「科学的に証明された」とかのものさしを当てようとする方が「まちがってる」のかもしれない。

 

もちろん、自分が行なう行法の「元ネタ」である文献や経典には目を通しておくべきでしょう。漢訳や原典との比較もできるに越したことはないでしょう。

 

でもそれにも限度があるというか、文の解釈が目的になってしまったり、「文献にないものは受けつけない」みたいな原理主義になると、本末転倒な気がします。学者ならまだしも、行きすぎた学問的態度は、実践者にとってむしろ障害となる。すわらないことの口実にも。

 

いちばん良くないのは、頭で「わかって」しまうこと。知的理解で止まる。知的好奇心が一時的に満たされるだけ。

 

わからないこともあるけど、今はすわろうね(´・ω・)的な「大ざっぱさ」も大事だと思うんです。

 

いや、わからないからすわるんだよな。その答えは、ことばの中にはないはずで。

 

先日の合宿で聴いたゴエンカ氏の講話の中にも、初めて聴く話がいくつかあり、「釈迦そこまで言ってたっけ? 元ネタは?」と思いました。合宿中、ずっとぐるぐるしてたな。そこで冒頭で書いたように瞑想や仏教の本をあたっているのですが、今のところ見つかっていません。

 

そのへんはゴエンカ氏の「瞑想体験」にもとづく「解釈」なのかな?と思いつつ、何かの文献に元ネタが見つかるといいなと思い、同時に「見つからなくても、講話と同様の『体験』ができればいいな」と思ってます。

 

 

 

前置きが長くなりました。本当は元ネタ探しで読んでいた本のなかに、当初の目的とは違う「気づき」をもたらす一冊があったので、その話をしたかったのです(・∀・) つづく。