息をかぞえて

禅・こころとからだ

星空

禅にかぎらず何でもそうだと思うのですが、始めた頃の動機とはまた別のテーマが、続けていくうちに出てくると思います。国民的マンガとなった『ドラゴンボール』も、最初は世界にちらばる球を集める「冒険マンガ」でしたが、いつしか魔族や宇宙人から地球を守るため「悟空がひたすら修行する」マンガとなっていきました。息子の悟飯が主役に推された時期もありましたが、いまいち盛り上がらなかったのは「悟飯は修行マニアではなかったから」。僕はそうみてるのですが、どうでしょう? あの世に行っても修行してましたからね、悟空は。

 

さて。僕が坐禅を始めた動機は「つらいので楽になりたい」「こころを強くしたい」といったものでした。その遠因が前回も書いた「両親との不和」で、坐禅を続けることで僕の心持ちも、親との関係も変わっていきました。

 

で、「気持ちを楽にする」とか「親との関係を改善する」とか当初の目的もいまだ継続中なのですが、そのための「手段」だった坐禅が、ある時期からそれそのものへの「目的」へと変化していったと思います。禅をきわめたい、深めたい。行くとこまで行ってみようと。

 

すわっているといろんなことを思い出したりもします。先生から与えられた公案や、リアルタイムで外の世界で起きていることと絡みあって、新たなテーマになっていったり。

 

去年のことですが、とある精神世界の勉強会に参加した時、「死」がテーマになって、僕にも発言の順番が回ってきました。その時に話した、小学3年の頃の記憶。

 

夏の臨海学校で夜、浜辺でキャンプファイヤーをしていたのですが、星がきれいで空を見ていたら「ああ僕も死んじゃうんだ」って思ったんですよね。

 

無邪気にはしゃいでる友人たちも、みんな死んでしまうんだと思いました。

 

ここで、ハア?と言われそうですが、星空になぜか、『あしたのジョー』の力石の顔が浮かんでたんですよね。さみしそうに笑って、消えていきました。

 

f:id:nowhereman-yes-love:20180108170815j:plain

 

音のない空。地上にひとり。何かが決定的に変わってしまった。

 

その日を境に僕は沈みがちになり、「ママ、死なない薬発明されないかな?」と母親に相談したり、本棚の『家庭の医学』をこっそり調べたり。頭の中は「死ぬ死ぬ死ぬ!」の大合唱ですよ(>_<) しばらくして「えらいお医者さんがそういう研究してるって、ラジオで言ってたわよ」とか母が答えてくれたっけ。ヒステリックな人だったけど、いいとこもあるじゃないですか。

 

こうして思い返すと、いろいろと突っ込むとこはありますね。「小3までお前、死なないと思ってた?( ゚д゚) とか。うん、そうみたい。というか「死」が何なのかわからなかったというか「知らなかった」のだと思う。

 

いくつかの死に出会ってはいました。はじめて飼ったペットのジュウシマツ。おばあちゃん。そして力石。

 

ジュウシマツはたぶん最初の「身近な死」です。かわいがってたから。友達だったから。キューキュー鳴いて、鳥かごを飛び回ってたのが、ある日動かなくなっていた。何が起きたのかわからなかったけど、「元に戻らない」ことはわかりました。つめたさ。さみしさ。目の前の動かない体と、昨日までの記憶にギャップがありすぎて、どうすればいいかわかりませんでした。母にうながされ、庭に埋めてお墓をつくりました。たぶん最初の「死んだものを見送る」経験でした。

 

おばあちゃんは、お棺に入れる前の布団で横たわってる時に、体をゆさぶった記憶があります。「おばあちゃん!」って。死に顔は覚えてないけど、呼びかけてもゆすっても、動かなかったのを覚えています。僕も、まわりの人も、泣いていたのをおぼえています。

 

そして力石徹。『あしたのジョー』のライバル。架空の人物です(・ω・)。だけど死にざまが壮絶でした。過酷な減量でガリガリにやせ細り! 死闘の末にジョーをKOし! そして試合後に悲劇が…。宿敵だった力石を認め、握手を求めるジョー。力石もほほえんで応えようとしますが、ジョーの手とすれ違うように前のめりに倒れていきます。。。

 

当時TVアニメが放映されていましたが、みんなで真似しましたね。「あしたのジョーごっこ」の最後で、力石役が前のめりに倒れる。そのままいくと顔面を強打するので、みんな膝で着地してましたが(笑)。あれはいま思えば成長期の少年が「死」を共有する儀式だったのかもしれません。それくらいに力のあるマンガとキャラクターだったんだなあ。

 

しばらくして、臨海学校の夜空に出てくるほどに(笑)。僕の中で「死を理解する」タイミングだったんでしょうか?

 

 

 

あらためて、「死」って何でしょう?

 

幼い僕の記憶をたどると、ジュウシマツとおばあちゃんが「動かなかった」時、親から「死」というよくわからない言葉を聞かされ、強い印象で焼きついたと思うんです。

 

他にもいちいち覚えてないけど、生活の中であふれていた「死」の情報? 殺人事件や死亡事故のニュース。ワイドショーとか。ガーン!の効果音やショッキングな映像も含めて。それら無数の記憶が意識下に沈澱し、知らず知らず「死のイメージ」が形成されていった。基本的にこわいもの悲しいもの、おどろどろしいものとして。『フランダースの犬』の最終回もショックだったなあ。ネロとパトラッシュが天に召される場面は美しく、そこだけ見ればあたたかいですが、そこまでの展開が寒すぎますよね。。。

 

いずれにせよイメージ。それらはあくまで「イメージ」だったのに、どこかで「死そのもの」のように勘違いしてしまった。実体があるかのように。自分の死を経験したかのように。人って、ほっとくとそうなるように出来てるのかもしれない。経験したのは「他者の死」で、その記憶を持ち歩いてるだけなのですが。

 

僕に「死」の説明をした、親などの大人にしても同じことだと思います。子どもの頃、まわりの大人から聞かされるままに、死とはこういうもの「ということにして」育ってきた。その親もそのまた親も、代々みんなそうしてきた。

 

人にとって「死」とは言葉とイメージだけの存在で、その実態は「よくわかってない」んじゃないでしょうか?

 

でもわかったつもりでやりすごしている。たまに思い出して不安になる。「死んだらどうなるんだろう?」って。

 

前述の勉強会でもそうだったのですが、多くの人が「死んでみないとわからない。でも、たぶん死ぬと真っ暗で何も無くなる」と考えているように思います。天国も地獄もない。理性と科学の時代を生きる現代人には、「真っ暗で何もない」が一番信用できるイメージなのでしょうか。

 

 

でもなんでみんな「真っ暗で何もない」って言えるんだろう? その根拠は何なんだろう? 科学的に証明されてるわけでもないのに。

 

 

「まっくらで何もないところ」は、どこにある?

 

遠く? 近く?

 

つめたいところ? あたたかいところ?

 

 

 

いくら考えても答えは出ません。

 

。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

坐禅では息をかぞえてすわることで、思考から離れたところに戻ります。ものごころついてから頭の中でこしらえてきた、いろんな「イメージ」や「思考回路」がばらけていく。今回の僕の例でいえば、小3以前の「死を知らない」状態に一時的にもどるようです。どうやら、すわってる時はそうなってる。

 

あのとき見てた星空? 

 

 

「死ぬのがこわい病」にかかった小3の夜。そのままメソメソと死んでいくのかと思ってましたが、いま禅の修行をしてることはいいクスリになってるのかもしれません。「死」はどうやら「不治の病」ではない。

 

治ったら「あの世で修行」できるかもしれねえぞ。 なっ!