息をかぞえて

禅・こころとからだ

「毒親」のその先。

なぜすわるか? 僕の場合、そもそものきっかけは親との関係だったように思います。表面上は「何不自由ない家庭」だったけど、コミュニケーションがなかった。親は家庭や子供を管理することばかり考えていて、檻に閉じ込められているようだった。感情を自由に表現することや、本心を言うことが許されなかった。息苦しくて息を殺していた。

 

20代半ばで問題が表面化してから、解決のための試行錯誤を続けてきました。父は途中で亡くなりましたが。

 

今から約10年前、35歳の頃にカウンセラーの青木義子先生と知り合えたことは本当にラッキーでした。約1年カウンセリングを受け、その後先生が紹介してくれた坐禅会に通うようになり、思考や感情をみる「内観」や「アサーション(感情を交えず事実を伝える方法)」の習慣を身につけていきました。

 

こころの自由なありようや、人との関係の基本を学びました。親や学校の先生は教えてくれず、友達からも学べなかったことを学びました。

 

 

話を単純化するために使いますが、両親はいわゆる「毒親」だったと思っています。「毒になる親」。メンタルヘルスの世界ではポピュラーな言葉ですよね。元ネタになったのは『毒になる親』(スーザン・フォワード著、玉置悟訳)。親との接しかたの具体的なテクニックや心構えも書かれている本で、僕もお世話になりました。著者はカリフォルニアのセラピストで日本で刊行されたのは1999年。けっこう前の本ですね。

 

f:id:nowhereman-yes-love:20180105111554j:plain

 

こういった本のおかげもあって、僕は「毒親」との決着をつけることができました。親からの一方的なコミュニケーションを、双方向的なものに改善することができた。20代後半から20年近く費やして(笑)。肉体的暴力こそ振るいませんでしたが、刺し違える覚悟で向き合いました。「対決」の最中は、心から親を憎んでいたと思います。「殺したい」までは行かなくても「死ねばいい」とは思ってた。父にも母にも何度も「死ね!」って言いましたね。それくらい話が通じない人たちでした。自分の言いたいことだけ言って、人の話を聞こうとしない。くやしくてくやしくて。

 

カウンセリングと坐禅。それから読書による気づきなどで(子供の頃から習慣づけられていた)僕の心持ちが変わり、また親の方も年老いて弱り、子供の話を聞き入れるようになってきた。自分の非を認めるようにもなった。コミュニケーションが双方向的になるにつれ、言い争いが減り、ずっと平行線だった会話が「通じる」ようになった。「人間扱いされるようになってきたなあ」と感じたことを覚えています。

 

一番大きな変化は、あやまることができなかった母親が「ごめんなさい」を言えるようになったこと。最初のうちは無理やり謝らせてましたけどね(笑)。

両親から受けてきた「許せない仕打ち」は大小いくつもあって、今もその影響は残っているのですが。でも3年前の夏、ひととおり水に流すことができました。

 

こころもからだも軽くなってビックリしましたね。人を恨んだり憎んだりするのって、ものすごいエネルギーを使うんだなあと。

 

いまは一定の距離を置きつつ、母が一人で暮らす実家をたまに訪れています。父の墓参りも近くを寄った時に。人の基本的な性格や相性は変わらないので、相変わらず母はしゃべりだすと止まらなかったり、受け応えもヘンだったりするのですが(笑)、こんな日が来るとは。

僕も「聞き流す」ことができるようになってきた。以前は「聞き流すのは失礼だ」というガチガチのポリシーがあったのですが、てきとうでもいいんだと。

同じ空間を共有して、そこにいるだけでもいいのかも。生きてる人との関係だけでなく、墓参りとかもたぶんそうですよね。

 

でもここでハッピーエンドじゃないんですよね。母はこの先さらに老いていき、身体も認知も衰えてゆく。そして基本的な性格は変わらず(これまでの蓄積もあって)、ある部分はますます頑なになっていく。

 

人は利己的であるほど孤独になります。「さみしい」と言いたくても、他人(家族も含みます)との適切な距離がわからない人は「どう伝えれば伝わるか」もよくわからない。求めれば求めるほど、周りの人が離れていったり。。。

 

以前なら「毒親!」の一言でかたづけて、「自業自得だから自己責任で!」と放置することもできましたが、今や「元・毒親」ですからね。毒が抜ければただの「親」です。

 

親子なのでね。似たもの同士というか、父や母だけのものと思っていた「自閉気味の性格」や「自己愛的な性格」は、自分にもあるんだなあと思い知らされたり。もっと言えば、親の親、そのまた親から連鎖してるのかもしれない。

 

すわってると、そのへんの全体像が見えてきたりもします。

 

自分も親もその親も、時代時代の「価値観の枠組み」に縛られ、その中で苦しんできただけじゃないのか? その苦しみは代々繰り越され、雪だるま式に膨らみ、風船のように破裂する。もしくはシワシワにしぼむ。その繰り返し。加害者も被害者もいない。

 

 『毒になる親』はアメリカ人が書いた本なので、「個」の視点で書かれてるんですよね。「自分」と「親」の「個 vs 個」の関係から問題を解決していく。それは限定されたわかりやすい視点で、はじめの一歩には最適だと思います。だけど、このやりかたでは途中までしか行けないかな?とも思います。「毒親から逃れる」とこまではきっちり書いてあるけど、そこでプッツリ切れてるしね。その後どうすんの?って感じ。いま読むと、ちょっと「冷たい」んですよ。

 

毒親は悪者 → 切り捨てる → 後は自己責任」的な。癌は切って治す的な? 「悪者」や「邪魔者」をみつけて「排除」していく発想。でも排除してもね、それは「消えて無くなる」わけじゃないんです。視界の外に消えただけで、全体でみれば生きてますよ。

癌もむやみに切らず「共存して経過をみていく」治療方針が支持されてきてるんですよね? 「切る」とか放射線で「焼く」では体を傷つけ、「転移」や「再発」を招くばかり。根治に至らない。今そういうとこまで来てる。癌に限らずいろんなことが。

 

かつての毒が薄れ、でもやはり自分の毒で苦しんでいる「親」。その毒は自分にもあって、自我をもつ「人間」であるかぎり誰にでもある。「毒」とはたぶん「強くなりすぎた自我」のことです。自我が強くなりすぎるのも本人だけの責任とは言えない。周りの環境や社会的要請で余儀なくされることもある。

 

他人の自我はいじりようがないので(そこをいじろうとしたら、それこそ毒親)、今できることは自分の「自我」を禅やヨーガで「解毒」していくことかな、と思っています。どうやらそれって、空間全部に波及していくみたいだし。

 

元・毒親の母に、もう少しやさしくするにも。