息をかぞえて

禅・こころとからだ

とある坐禅会

ひさしぶりに見ず知らずの坐禅会に行ってみました。寺や禅堂ではなく、外国人のカトリック神父さんが主宰されている会です。

 

カトリックの「空気」ってあるのだなあと思いました。場の空気ね。やわらかいヴェールで包まれているような。ただ静かなだけではなくて。すわっていると、その空気が乗り物のように運んでいってくれる。禅定とか瞑想のあるところに。だからよくすわれるんです。

 

いつもの聖心会の坐禅会で感じている空気と、同じ感触のものを感じました。

 

お寺にはお寺特有の空気があって、神社には神社の空気があるように、カトリックにはカトリックの空気があるんですね。僕はカトリックではないけど、カトリックの空気はしっくり来るみたいです。荷物を下ろせる感じ。お寺や神社にはちょっとない感覚です。

もちろん、どこでも一緒というわけではなく、そこを管理しているというか、その場所を守ってきた人びとの心のありようが、その場に反映されているのだと思います。

 

神父さんは物静かですが、瞳の輝きが深く優しい人でした。青いみずうみのよう。

 

坐禅の後にはささやかなお茶会があって、シュトーレンやチョコレートでもてなしていただきました。もうすぐクリスマスですからね。

 

ひとりずつ簡単な自己紹介をしたのですが、みなさん、それぞれに切実な想いをもって坐っているのだなあと思いました。坐禅中はだまって坐っているので、知る由も無いのですが。みんな、なかなか大変だ。

 

キリスト教の場所、ということも影響してるのかもしれませんが、坐禅ってやはり「何かを得る」ものではなく、むしろ放棄する、「重荷を下ろす」ものなんだなあと。こころや状況がつくりあげた重荷をおろしていく。

 

だから「ここまでやればオッケー」というのもなくて、日々続けていくものなんだと思います。