息をかぞえて

禅・こころとからだ

ヨーガの成瀬雅春先生

いま発売中の月刊秘伝1月号で、ヨーガの成瀬雅春先生の対談記事を構成しました。成瀬先生といえば「空中浮揚」。すわったまま1メートル近く宙に浮いてる写真がその昔週刊誌に載ったとかで、オウムの麻原やストⅡのダルシム江頭2:50など、良くも悪くもさまざまなフォロワーを生み、「ヨガ=怪しいもの」というイメージを生んだ張本人だと思っていました。

 

なので僕の中ではずっと「要注意人物」のひとりだったのですが、実際にお会いしてみると、いろいろな意味でパブリックイメージと違う方だったので、「マスコミの情報ってやっぱり信用できないなあ。自分で確かめてみないとわからないなあ」との思いを新たにしたのでした。

 

この日の取材では空中浮揚はなかったのですが、いわゆるハタヨーガの呼吸法を見せていただいて、それが十分に凄かったんですね。この人、めちゃめちゃ真面目に修行してるじゃん! 「秘伝」にも写真が載っていますが、激しい鼻呼吸から息を止める「バストリカ・プラーナヤーマ」。

「息をこらえてる」んじゃなくて、「止まっている」んです。息だけじゃなくて全身が。ピタッと。いやスッと。うーん、表現が難しい。ふさわしい擬音がちょっと見つからない。「止める」んじゃなくて「止まる」ってこんな感じなんだな、初めて見るわ。って感じの止まりかた。デジタルの動画を一時停止したような感じ。薄皮一枚、成瀬先生の周りだけね。部屋全体の空気は、相変わらず動いてるんです。

 

この状態で瞑想や坐禅をしたら、さぞやよく坐れるだろうなと思いました。止まった状態、「止」の状態。瞑想では「止観」ということが言われて、「止(サマタ)」「観(ヴィパッサナー)」と便宜上分けたりもします。波立つ意識を何かに集中させて「止まった」状態にして、水鏡のようにそこに映る想念を「観ていく」と。

「止まる」も「観る」も呼吸上というか意識の内側のテクニックだと思っていたので、「見える化」はできないものだと思い込んでいました。だけど呼吸が(きちんと)止まれば、それは身体上にも「静止」として現れ、それに伴い意識のさざ波もしずまっているのだろうなと。

 

坐禅中に、我慢くらべみたいに「ジッと動かずにいる」のとは明らかに違うんです。それってそれこそ「グッと息をこらえて」全身を緊張させてるだけで。むしろ雑念を増殖させるだけというか。

 

こころを調えるには、まず体からなんだなあと痛感させられる成瀬先生の呼吸法でした。

 

「あの人、心の広い人だねとか言うけど、心が広いとか狭いって、どうやって測るの? 物の量が多いとか少ないというのとは違うじゃないですか? じゃあ、どこまで広くたって構わないわけですよ。人間の意識領域というものは、どこまでも拡げられるんです。可能性としてね。だから瞑想する必要があるし、『いっぱいまで自分の意識を拡げる』という表現も出てくるんです。『宇宙の果てまで行ってきた』っていうのも、意識をそこまで飛ばして戻って来る、ということなんです」(成瀬雅春・談)

 

取材中には「空中浮揚」やそれの動力源だという「クンダリニー」エネルギーの話題も出てきましたが、成瀬先生は淡々とした様子で多くを語らず。なんというかご本人的には他人事というか遠い過去の出来事といったご様子で、もうそういうの飽きたんだよ的な印象を受けました。

クンダリニー開発は今も指導されてるようですけど、「基本はハタヨーガをコツコツやることですよ。でもみんな地味な事はやりたくないんだよね(笑)」とおっしゃってました。

 

順番前後で恐縮ですが、上記のバストリカ・プラーナヤーマで激しい鼻呼吸を成瀬先生が行なってる際、足元がグラグラ地震のように(震度2くらいの微震ですが)揺れる体感があって、ビックリしたなあ。2メートルくらい離れたところで動画撮ってたんですけどね。

同行の編集者に後で電話で話したらおもいきり黙られたので、感じていたのは僕だけ?

 

と、「半分目に見えない世界」を語っていくのは難しいなあ。手がかりとなる自分の体感を、まずは信じるしかないと思うんですけどね。