息をかぞえて

禅・こころとからだ

ウーフはウーフでできている

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練馬区ちひろ美術館でやっている、故・井上洋介先生の展覧会に行ってきました。子供の頃から読んでた「くまの子ウーフ」の原画をたくさん見ることができました。ウーフの絵が、青い色づかいのものが多くて意外でした。にこやかで、ゆかいで、とぼけてるけど、ブルーなんです。

 

ここからは物語の話になりますが、ウーフって「あそぶことが大すき。たべることが大すき。そして、かんがえることが大すき」なんですよね。好奇心いっぱいなんです。物語ではウーフのさまざまな「どうして?」が描かれます。

 

「ウーフは おしっこでできてるか??」のお話では「ぼくは、何でできているのか?」という禅や哲学にも通じる問いかけがなされます。「私とは何ものか?」と。

 

小学2年対象なので、むずかしい言いまわしはないですけどね。こんな感じです。

 

「ねえ、ツネタくん。めんどりはなんでできてるか、あてたらえらいよ。」

「そんなこときまってら。めんどりは、ガラと肉とはねでできてるのさ。しらなかったのかい。」

 

ツネタはウーフの友達なんですけど、キツネなのでずるがしこいんです。ニワトリは骨と肉と羽でできていると。リアリストですね。めんどりは毎日たまごを産むから、たくさんのたまごが体じゅうに入ってて、だからめんどりはたまごでできてるの!というウーフに、「すると、きみはいったいなんでできてるんだい?」とツネタは聞き返します。

ここからのツネタが憎たらしいんです。「めんどりはたまごをうむ。けれど、ウーフはうまないよ。うまないかわりに、からだからだすのはおしっこさ。はは、ウーフはね、おしっこでできてるのさ。じゃ、このたまご、もらってくぜ。ばいばい。」

 

ウーフがめんどりからもらったばかりのタマゴを、ツネタはかっさらっていくのでした。おいかけて転んだウーフの膝からは血が。痛くて涙もこぼれます。ここでウーフが、

 

「あっ、ちだ。」

 

とつぶやくのですが、ここの描写、僕大好きなんですよね。子供が自我にめざめる瞬間をたった六文字で、これだけありありと描けるなんて本当にすごい。一番最初に教科書で読んだ時、バッと焼きついた記憶があります。

 

もちろん「血」も「涙」も「おしっこ」も、どれも「私」ではありません。でも「自我にめざめる出来事」って、この「あっ、ちだ。」的なできごとだと思うんです。誰にとっても。小学生の頃、自転車で転んで、すりむいて、血が出た時の、あの感じ? 傷口にツバをつけたら、しみた。血をなめたら味がした。サビみたいな味がした。

そういう「はじめての経験」の積み重ねで、こころの動きを知っていく。からだを我がものとしていく。そこに「ぼく」「わたし」という自我が育っていく。

 

ただ、そうやって築いてきた「自分」って結局何なのか?

 

銀行員? 主婦? 日本人? いやいや、そういう「肩書」や「役割」や「属性」じゃなくって。。。と改めて問いかけていくのが、坐禅なんだと思います。

 

「自分とは、この肉体だ!」

 

うん。よくある答えで、僕もいまだに「この胸の鼓動が生きてる証拠だ!」とか思ってしまうんですけど、「肉体」も「感覚」も「自分」ではないんですよね。それだと「おしっこでできてるのさ。」のツネタと変わりません。

 

ちょうどいま取り組んでいる公案で、ここのところを聞かれています。 「手をもがれ、足をもがれ、首をもがれ、胴体ももがれた時、お前はどうなる?」と。

 

五体が消えた時、そこに残るものは???

 

 

 

くまの子のウーフはお話の最後で「ウーフは、ウーフでできてるんだよ」と、おしっこでも血でも涙でもない「ぼく」をみつけます。「いたいと思ったり、たべたいと思ったり、おこったり、よろこんだりする」ぼくに出会います。

 

じゃあその「ぼく」とは何ものなのか? 「ウーフでできているウーフ」とは、どこからきて、どこにいるのか? 取り出して見せることはできるのか?

 

大人になっても「どうして?」は続きます。これは頭で考えても出ない答えなので、さあ、すわらなくちゃ。

 

ねえウーフ、ぼくってなんなんだろうね?