息をかぞえて

禅・こころとからだ

脚と腰を取り戻す

組むと痛いし。正座は正座でしびれるし。すわる時、この両脚がとかくわずらわしく感じられました。ふだんもそうだな。ぶつけて痛い時とか、かゆくてかく時くらいしか、脚のことは意識しなかったかも。

「下半身」という呼びかたも、ちょっと下に見てますよね。足腰をパーツあつかいしてるというか。えらいのは脳みそだけで、あとは部品みたいな? 僕はさいわい腰痛もちではないのですが、「腰が痛い」というのも腰をパーツ、部品あつかいして無茶、無理してきたからでは?と思います。

坐禅を長年続けている先輩の多くが膝や腰を悪くしているのを見て、結跏趺坐やだ(>_<)と避けていた部分もあります。みんな準備体操もストレッチもしないんだもの。

 

すこしずつ脚が組めるようになり、脚とおしりを床につけてすわれるようになり。ここにきて「自分が脚と腰になった」感覚が出てきてます。脚も腰もからだの一部なわけで、いまさら「なる」もないのですが。でもそれくらい、今までおざなりにしてたんだと思います。ずっと一緒だったのにね。

 

歩いたり、立ったりするだけじゃないんだぞ。

 

もちろん組んでいるので、脚も付け根もジンジンしてます。ノーストレスではない。でも下克上というかな、「ああ、この脚と腰、生きてるわ!」みたいな。ずっと司令部があった頭脳から、主導権が足腰という「現場」に移った感覚? 意識の主導権が逆転して、これまでにないくらい脚と腰がいきいきとしてます。脚と腰を「取り戻した」感があります。

そのかん頭はお留守です。ガラガラのお店みたいにテンションがひくい。

 

雑念も少なく、30分40分、あっという間にすぎます。脚と腰の感覚を味わっているうちに。

 

しびれた時にね。「このままじゃ血流がアレだから動きなさい」とか、的確なアドバイスを頭脳はくれます。それも大事なのですが、その最中も脚はただジンジンしてるだけなんですよね。頭脳とは別世界で、ジンジンと生きている。

20分30分すわっていると、自律してる何かを感じるようです。脚にも腰にも、未開の感覚、感性が埋まっている気がします。それでいて、あーだこーだと考えたり悩んだりしないのがいいとこなんですよね。頭にはできない芸当です。