息をかぞえて

禅・こころとからだ

一度にふたつはかぞえられない

1から10までくりかえし息をかぞえる、数息観の話。

数字には1→ 2→ 3という連続性があって、1ずつ増えていく。そこでは1+1=2、2+1=3といった「足し算」を連続的にしている。ここで足し算という「思考」をやめると「1たす1は、1と1」になる。2、3といった数がなくなるので、1→ 2→ 3の連続性もなくなる。ひと呼吸ひと呼吸、そのつど完結する。数息観もそうなってくると、しめたもの。

 

前回、そんな話で終わっていたと思います。ではこの文章はどうでしょう?

 

「たき木、灰となる。灰がたき木に戻ることはない。それなのに灰は後、たき木は先と見てはいけない」

 

前半は大丈夫ですね。当たり前のことしか言ってません。ところが「それなのに」以降の後半は???となると思います。たき木が燃えて灰となった時、「灰が後で、たき木が先」という順番で見てはいけないと言うのです。

たき木→灰。過去→現在。生まれる→死ぬ。どれも常識的な時間感覚ですが、ここではこの「→」を否定してるのです(゚O゚)\(- -

時の流れ、時間の連続性を否定してる???

これは道元(どうげん)という鎌倉時代のお坊さんが書いた「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」という書物の一節を意訳したものです。最初に知ったのは7〜8年前。当時の老師のもとですわりはじめた頃でした。

「たき木が燃えて灰となる」のに「たき木が先」で「灰が後」ではないと?  坐禅中は線香を立てるので、たき木に見立ててずーっと見てたりしました。チリチリと赤くなり、煙となり灰となり、ポロッと落ちる。ひとーつ、ふたーつ、息をかぞえる。線香は短くなっていて、時計の針は進んでいます。燃えつきて灰となる25分。やはり時間は先から後、過去から未来へ流れているように思えました。意訳、続けます。

「たき木はたき木として(時間をはらんで)存在し、(その時間には)前があり後がある。(時間の中では)前と後があるけれど、その前と後は(それぞれ「いまこの瞬間」の痕跡でしかなく)断絶しているのだ。(だからたき木とは断絶して)灰は灰として存在し、前があり後があるのだ」

たき木の時はたき木、灰の時は灰、瞬間瞬間でみればたしかにそうです。時間という仮想現実、それを瞬間的にたちきる断絶。そんな空白が坐禅中に訪れることがあります。原文では「前後際断(ぜんごさいだん)」という言葉で出てきました。当時、よくわからないながらも何か刺さる言葉で、「断絶!」みたいな感覚がうえつけられました。カッコ内は現在の僕なりの補足です。当時はわかりませんでした。7〜8年すわって、ちょっとわかってきた? もうちょっとはっきりさせたいなあ。

 「たき木→灰」から「たき木。灰」へ。「過去→現在」から「過去。現在」へ。「1→ 2→ 3」から「1。2。3」へ。やじるしを、時間の連続性を、すわることで「断絶!」していきます。

要は「さっきまでの記憶」と「いま現在」を、頭の中の「→」でつなげないということです。時間を示す「→」は頭の中にしかなく、目の前のどこを探してもないのだから。時計があるじゃないかって? ダメですね。時計で針が一度に指せるのは文字盤の一か所だけです。「さっきまでの針と文字盤の位置」と「今の針と文字盤の位置」を頭でさし引いて、はじめて時間が生まれます(それで「時間」を感じられる人間の頭も、時計を発明した人類も、すごいと思いますが)。

 

同様に、数息観で一度にかぞえられるのもひとつの数だけです。「ひとーつ」の時は「1」がすべて。「ふたーつ」の時は「2」がすべて。そうしてすわっていくと、時間の感覚もなぜか変わってくる。頭の中で増えすぎた「→」が取れ、自由になっていく気がします。日常でもだんだんと。

 

吸って吐くとき、ひとつだけ。ふたつ以上はかぞえられないんです。