息をかぞえて

禅・こころとからだ

1たす1は、1と1。

数息観でもうひとつ。

このブログのタイトルでもありますが、数息観では「息をかぞえて」いきます。1から10までくりかえし、くりかえし。気が散るのを「次は2、その次は3」と数をかぞえることで、注意をとどめることができます。1→ 2→ 3→ といった「数の連続性」が、呼吸への専念を助けてくれる。見えない息に「番号」をふっている、とも言えます。

 

1から10までの数字のかわりに、リンゴ、ミカン、バナナ、イチゴ、スイカ、メロン…とかの「フルーツ」とかだともうダメです。連続性ないから。丸暗記しても「メロンの次は何だっけ?」とか絶対なります。

 

リンゴ、ミカン、タマゴ。ほらもうダメε-(´∀`; )

 

十二支とかなら、まだね。ね、うし、とら、うー。そのあと、あやふやですが。しりとりなら? こぶた、たぬき、きつね、ねこ。うん、これなら連続性あるし、いけるかも@(・●・)@

 

何が言いたいかというと「数は便利だけど、連続性にまどわされるな!」ということです。よくわからないと思うので、説明します。

 

数息観でやりがちなんですが、「1から10までくりかえし数える」が目的になってしまうことがあります。あと、間違えずにかぞえられたら「やった、俺!」とか。数のカウントが先行して、そっちに息を合わせてたり。

どれも本末転倒です。本来、息に専念するための「数」なのだから。数にひっぱられちゃダメです。

 

数には1から10までの連続性があるがゆえに、「惰性で10まで数えられる」ようになる、そういう落とし穴もあります。かぞえてるつもりが「1から10まで数えてるという雑念」に持ってかれてるだけで、息からは離れてるという。だから「慣れは禁物」だったりします。ひと呼吸、ひと呼吸、二度とない瞬間を、かぞえる。

 

坐禅の原則に照らしあわせても、過去から未来へ向かう時間の連続性は「ない」はずなので、数の連続性も「ない」はずです。

 

1→ 2→ 3→ の「→(やじるし)」が消えて、1。2。3。とひと呼吸ごとに完結してく感じ? この感覚が出てくるとしめたものです。

 

1の次は2、その次は3、次は4という「連続性のやじるし」を一度消す。

「1たす1は2 」という足し算思考を教わる前の世界に、一度もどる。

「1たす1は、1と1」の世界?

 

よくわからないと思うので説明しますね。一度切ります。