息をかぞえて

禅・こころとからだ

只管打坐ができるようになった その3

坐禅のブログをはじめてから「テキトーなことも書けないな」と、前よりまじめにすわるようになりました。いままた師匠のシスター青木から公案をいただいているので、公案に参じてもいるのですが、「公案に参じる準備」として数息観からやり直すことにしました。その後に公案公案は「試合」というか指導者との「実戦スパーリング」のようなものだと僕はとらえているので、基礎の練習をしておかないとリングに上がれないのです。だからまずは「数息観」。

 

数息観は、呼吸に合わせ数をかぞえることで自覚や観察ができるようになる、すぐれた方法だと思います。1から10まで飛ばさずやるの、意外とむずかしくて。僕もしばらくなまけていたので、久々にやってみたらうまくいきませんでした。六っつまで数えたか、七つだったか、なぜかそこで「?」と止まる。1からまたやり直しです。

 

そうしてしばらくのあいだ、ひとつおぼえのように数息観ばかりやってたのですが、「ひとーつ、ふたーつ」というカウントがだんだん邪魔になってきました。なのでカウントをはずして、鼻の息の出入りをみていく随息観にしました。これもしばらくはよかったけど、今度は「鼻」がうざくなってきた( ´Д`)y━・~~

(「数」にしても「鼻」にしても、形のない息にかたちを与える「目印」にすぎず、禅が深まると息と一体化して、同化して「消えた感じ」になります。なので気にならなくはなるのですが)

 

なんかこう、こころからだ全部で息をしたくなってきた。数字や鼻といった目印をつけることなく。空間をあますことなく。全方向で。外からも内からも。

同じころ、坐禅中に表面からアイスのように溶ける感覚が出てきました。また今まで窮屈でしかなかった「坐禅の姿勢」、半跏趺坐(はんかふざ)と法界印(ほっかいいん)で手足の自由をうばうアレ。あれがひとつにまとまってきたというか。あの姿勢、「よくできた折りたたみ傘」のようにコンパクトで、ハマると気持ちいいんです。手足の自由をうばわれ、むしろ自由!?みたいな。日常の身体感覚とは逆方向の「統一感」みたいなものがでてきた。「溶ける感覚」も全身均等です。肌の表面も、内側も、体の奥の方も。同時に、頭からみぞおちあたりまではがらんとした空洞で、チクタク、チュンチュンと時計の針や鳥の声が響いています。表現が難しいのですが、「トロトロ」と「がらんとした」、ふたつの身体感覚が重なりあってる感じ。

 

私たちのいる、この空間です。

 

からだとこころがトロトロにとけ、ほどよく混ざっている感じ? そこには呼吸も雑念も、時計の針も鳥の声も、その時そこにあるものが全部混ざってます。「何十品目の野菜ジュース」みたいな?

 

そうだ、「坐禅してる状態」を「野菜ジュース」にたとえましょう。たとえば雑念が「良くないもの」だとして、子供の苦手な「ピーマン」や「ニンジン」だとします。たぶんちょっと前までは、うまくミキサーにかける(ただすわる)ことができなかったので、まざってない大ぶりのピーマンやニンジンの味がすると(雑念に気づくと)「まずい!」と吐いてたんです。「俺の坐禅は雑念だらけでダメだ!」と。

それがなぜか最近のジュースはよくまざってるので、どこからどこまでが「ピーマン」か「ニンジン」か「雑念」の味なのか、わからない感じなんです。トロトロとなんとなく、最後まで飲めちゃう( ´ ▽ ` )ノ

「数息観」や「随息観」は、「塩」や「砂糖」といった調味料のようなものかな? 入れると飲みやすくなるけど、野菜のおいしさがわかればなくてもいい。ない方がいいのかもしれません。

 

もちろん雑念が少なければ、それはよくすわれます。なんだけど、雑念があってもなくても、ただ「すわれる」ようになってきた。「俺の禅はダメ」という自己嫌悪や自己否定を、禅が押し流すようになってきた。いいから、すわれ!と問答無用な感じが出てきました。ただすわる、「只管打坐」の準備ができたのかなと思っています。