息をかぞえて

禅・こころとからだ

只管打坐ができるようになった その2

只管打坐の話をするのでしたね。「ただすわる」、その前提として「考えや感情をはっきりと自覚できる」ことが必要で、そのために「数息観」や「随息観」から始める、というところまで説明しました。

 

僕の場合でいえば本当はその後、当時の老師から「無字」に代表される公案(いわゆる禅問答をイメージしてください)をいただき、それを腹に据えてすわる「看話禅(かんなぜん)」を経ているのですが、今回の記事ではそのプロセスは省略します。大事なプロセスなのですがいろいろと書きにくいので、日を改めて書くことにします。

 

さて数息観や随息観ですわれるようになりました。ひとつ、ふたつと息をよすがに、頭の中の考えや胸をよぎる感情、体のあちこちの感覚が自覚できるようになります。

息の吸う吐くがちいさくなって、しいんと静かになってきます。考え、感情、感覚もしだいにネタ切れを起こして、たまに「何も考えてない」空白が訪れたり。人間、ずーーーっと雑念にまみれてることもできないんですよね。やっかいな雑念ちゃんにもスキはある(゚O゚)。この「何も考えてない空白」は初心者のうちから経験できるので、これに気づくのを初期の目標にするのはいいと思います。ひとつの達成ととらえ、その瞬間を増やしていけばいいと思います。ポイントをためるように。

空白が多い時、調子の良い時は時間を忘れます。きづいたら25分過ぎてたり。10秒たらずのいきおいで。

 

ですがいつも調子がいいわけではないので、たいていは雑念、つまり何らかの考えや記憶がまつわりついた状態ですわることになります。耳の奥で「ジョジョの奇妙な冒険」の主題歌が鳴ってたりね。他はほぼ空白でパーフェクトなんですけど、オララ、オララとシミのように。ついコーラスをかぶせたくなるけど、ちょっと待って。

こういう時はこの「オララ」という雑念を「相手にせず、邪魔にせず」ということが推奨されます。つかまえない。追いかけない。ほっとけば消えてくから。と教わります。観察の立ち位置を忘れないことですね。スタンドなんて幻覚です。

だけどしつこいやつはなかなかどかないし、どいても別の雑念が来ます。オラオラオラオラオラオラオラオラ。。。それらも全部ほっとけばよいのですが、終わった後に「今日も雑念だらけだったなあ」とモヤモヤしたり。「またジョジョかよ」とかね。最近のオレの坐禅はダメだ!日常でもろくなことがないし!とか、くじけそうになるんです。坐禅なんかやっててても、いいことないじゃないかって。

 

なんですけど最近ね、それもひっくるめてすわれるようになってきたんです。これがたぶん只管打坐のコツです。