息をかぞえて

禅・こころとからだ

只管打坐ができるようになった

坐禅を始めて7〜8年になりますが、ようやく最近、只管打坐(しかんたざ)ができるようになりました。ただすわる、というやつです。

 

一番最初に教わったのは、1から10まで呼吸にあわせて息をかぞえていく「数息観(すそくかん)」。次に、数のカウントをやめ、息の出入りだけに意識をおく「随息観(ずいそくかん)」。禅をはじめて最初の半年は、このふたつをおこなっていたと記憶しています。

 

「只管打坐は難しいからアンタみたいな初心者には無理ですよ( ̄^ ̄)」最初の最初のオリエンテーションの時、当時の指導者のひとりに言われたのをよく覚えています。それがひとつトラウマになって、ずっとやろうとしなかった。が、たしかに「ただすわる」って難しいですね。できるようになって、わかってきました。

 

「ぼけーっとすわる」のとは違います。「ぼけーっとしてる」ってその実、「考えに持ってかれてる」状態ですから。ただすわれては、いない。

なので「考えに持ってかれてる」ことをまず自覚しよう。どんな考えが浮かんできてるか観察していこう。この段階から始める必要があるのですが、これもいきなりは難しいと思います。かんたんに考えに持っていかれたり、考えについて行ってしまってたり。「自覚」や「観察」までたどり着けない。

まわってる洗濯機みたいな感じなんですよね、ぼけーっとしてる時の頭の中って。右回りにガーッ、左回りにガーッ。「考えてるという渦」に持っていかれ、ついてってる。本来なら自覚ができるはずの意識はペラペラのハンカチみたいなものです。なすすべもなく、あーれー?とジーンズとかバスタオルに巻きこまれてる。ジーンズやバスタオルは「家賃足りねえ」とか「あいつむかつく」といった「考えの中身」です。

 

「洗濯機を止めて、中の洗い物を全部出す」のがひとつ目指すところとなりますが、いきなりは無理。なので「数息観」や「随息観」で呼吸だけに意識を向けることで、洗濯機の底の方へと沈んでいきます。ハンカチでゆらゆらしてたのが、船のイカリを下ろしていく感じ? 呼吸によってずんずんと。

自覚する意識(呼吸と一体化してる)が底に取り付いてしまえば、底の動き(洗濯機の底で回転してるアレ)と同化できるので、感覚的には「不動」となります(まわってる地球の上にいても止まってるよなその感じ)。上の方でグルグルしてる渦や洗濯物を、下からよゆーで眺められるようになります。いうなれば底から水面を見上げる「下から目線」となりますが、なかなかおつなものです。頭の中の考え、胸や体のあちこちで感じてる感覚、それらが交錯するさまが見えるようになってくる。これが「自覚」であり「観察」ですね。

 

数息観の話になってしまいました(´・_・`)