息をかぞえて

禅・こころとからだ

坐禅でこころは強くなるのか?

「こころを強くしたい」と思って始めた坐禅。毎日すわるようになって6〜7年になりますが、はたして心は強くなったのか? そもそも坐禅で心は強くなるのか? いくつか回った禅寺や禅堂の指導者も、何冊か読んだ禅の入門書も、「坐禅をすると心が強くなります」とは言ってなかった気がする。

 

坐禅をすれば、こころが強くなる」となぜ思ったのだろう?

 

宮本武蔵一休さんといった「坐禅をやってる人」が、こわいもの知らずで頼もしく見えたから。手塚治虫の「ブッダ」で、シッダルタがさとりをひらくさまに感動したから。

 

うーん、フィクションですね。武蔵は吉川英治の小説だし、一休さんはアニメ。マンガや小説の影響うけすぎ∑(゚Д゚)

 

だけど「あしたのジョー」でボクシングを始めたり、「キャプテン翼」でサッカーを始めた人もいるので、きっかけは作り話でもいい気がしてきました。

 

特に手塚先生の「ブッダ」は良いです。伝承同様、樹下の瞑想でシッダルタはさとりをひらくのですが、その「至高体験」がクライマックスでないところが良いです。むしろその前後に描かれるいくつかの苦しみが、強く訴えかけてくる。

至高体験でさとった気分になっていた時、祖国が滅びたことを知らされ、シッダルタは再び苦しみます。そしてそこに、この世の地獄を生きてきた「死ねない巨人」のヤタラが来ます。憎しみに取り憑かれたヤタラは、答えられなければ殺すとばかりに、生きる意味やこの世の道理を問いかけます。

 

こうしてシッダルタとヤタラの対話が始まるのですが、この場面は手塚先生による完全な創作なのですが、僕には「ありがたいお経」よりも真に迫っている気がして、何かあると読み返しています。流れる時間はとても静かで、強い弱いをこえた「こころの強さ」を感じます。ヤタラとシッダルタ、迷える者同士。うつし鏡のように。

 

似たような場面は、僕の人生にも、誰の人生にも訪れている気がして、その時こんな時間が流れればいいなと思い、日々すわっています。