息をかぞえて

禅・こころとからだ

「見える」が映っているところ

前回からの続きで、なかなか理解してもらえない感覚かもしれないんですけど、さいきん「見える」ってすごいことだなあと思うようになってきています。

 

「聞こえる」「さわれる」「味わえる」「においがする」も。

「寒い」とか「熱い」と感じられることも。

「思い出せる」とか「考えることができる」ということも。

 

全部あたりまえのようにやっていることだけど、「なぜそれができるか?(そういう現象が起きているか?)」をよくよく考えてみた時、「自分を含め、じつは誰もよくわかっていないみたいだ」ということがわかってきて、「見えるって不思議なことだったんだなあ」と思うようになってきています。

いま僕は編集画面でこのブログのこの文章を「見ていて」、みなさんはアップされたブログとしてこの文章を「見ている」と思うのですが、その「見える」はどこで起きているのか?
「ブログを書いている僕」と「ブログを読んでいるあなた」は、時間的にも場所的にも違うところで「この(同じ)文章」を「見ている」わけで、常識的にかんがえればそこにはズレが生じています。

違う時間に、違う場所で、それぞれに「見て」いる。僕はいま吉祥寺のフレッシュネスバーガーにいて、2019年の1月31日、19時14分にこの文章を「見て」いるのですが、あなたはいま場所的にも時間的にもちがうところでこれを「見て」いるはずです。

生理的な機能(視神経とか脳とか)でいえば、僕もあなたも同じところが同じように機能しているはずで(同じ「ヒト」という生き物なので)、「同じ仕組み」で「見えている」のだと思います。
ただ僕が問題にしているのは「仕組み」ではなく「この目の前の(いまでいうならこのブログの)映像がうつっているのは、どこなのか?」ということで。前回からさんざん言ってますが。

 

「このブログの、この映像は、どこに映っているのか?」

 


まだ仮説の段階で確証はないのですが、さいきん思うようになってきたのが、「それがあるところに、映像そのものとして映っている」「映るということが見えるということである」という可能性です。

 

もうすこしわかりやすく言うなら、無色透明ですくなくとも3D以上の構造をもつスクリーンのようなものがこの「世界」とか「意識」とよばれているもので、このブログの文章、私のタブレット、あなたのスマホもしくはPC、手、机、などなど、「いま目の前に映っているもの」はすべてその「意識」に映っている。それを「世界」と呼んでいる。このブログをはじめた頃から、同じようなことは言ってたと思いますが、より確信は深まってきています。

 

意識は無色透明で、いまのところ観測のための機器も発明されていないようなので、科学の「観察対象」にはならず、科学的に語ることはできないけれど、科学的に語れないというだけで、我々みんな体ごと、どっぷりとそこに浸かっている。

 

禅や瞑想をやっている人でもないかぎり、なかなか理解してもらえない感覚だと思うのですが、私が見ているこの映像も、あなたが見ているこの映像も、「(意識という)おなじところ」に映っているのではないか? 

 

「おなじところにうつっているもの」を、別々の場所、別々の時間に、別々のからだを介して「見て」いる。

(前回から問題にしていた、記憶や想念、それらが想起するイメージも、それそのものとしてそこ(意識)に浮かんで、見えているのではないか、と思っています)

厳密には「映るものを見る」(見る→映っている)という関係性ではなく、「映っている時点で見えている」(見る=映る)という関係性で、「別々の場所、別々の時間、別々のからだ」というのが「観念がみせている錯覚」であり、我々はそれぞれの自意識を通して「個々が分離しているという幻想」をみていることになっています。禅や瞑想の世界観ではね。

 

 

「意識」って、「空間」や「空気」や「日光」とおなじように、「みんなで共用してるもの」だと思うんですよね。地面は「土地」(所有)の概念をもちだして「ここからここまでウチの土地だ!」と独占することもできるけど、空間や空気、陽の光となるとさすがに無理があります。このさき世の中がもっとせちがらくなって、「空気使用料をはらいたまえ!」とか言い出す輩が出てこないともかぎりませんが、彼らにしても本当の意味での「所有」はできません。むちゃくちゃないいがかりをつけてるだけで。空気も空間も(本当は海も大地も)みんなで「共用」しているものです。


「共用」しているからみんな、同じ空間の同じ座標上に、たとえば「1個のリンゴ」といった同じものを認識することができる。果物屋でおばちゃんが「このリンゴひとつちょうだい」と言って、店のおっちゃんが「これな?」と応対する時も、「同じ意識のスクリーン」を「共用」しているからこそ、そういうことができる。別々の人どうし、同じリンゴを見ることができる。


全体的な「意識」と個々人の「こころ」の関係は、「広場」と「ブルーシート」にたとえることができます。

 

ちょっと先になりますが、お花見のシーズンともなると、みんな公園の広場にブルーシートをしいて酒盛りをしますよね。「ここからここまでがウチらの場所!」というのがブルーシートが持つ意味で、それってまさに自我的な「こころの範囲」と同じ線引きだと思うんです。

ブルーシートはたしかに「ウチらの場所」でもあるんでしょうけど、そのブルーシートが敷けているのは誰のおかげじゃ? と問われれば、その下にある「地面」のおかげなわけです。「大きな広場」があるから、その上にのっかってみんな「うちらうちら」とシートが敷ける。

 

「広場」が「意識」で、「ブルーシート」が「個々人のこころ」です。

 

半畳くらいの狭いシートもあれば、柔道場くらい広いのもあるでしょう。かたちもいろいろでしょう。

 

何かの拍子で隣のグループと揉めることもあるでしょうし、見知らぬどうし仲良くなることもあるでしょう。

 

どちらにせよ、広場全体が地続きになっているから、シート間の行き来ができてるわけですよね?

 

個々人のこころも、別々ながらに交流できるのは、それぞれが「意識」で地続きになっているから、だと思うんです。

 

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このバラバラの青い枠に、一斉にリンゴが映ったりもします。その時、「みんなでリンゴを見ている」が起きている。

 

 でもってワクをとっぱらえば、広場全体にすわれるよというのが、坐禅であり瞑想なのだと思います。広場全体にリンゴが映ります。広場全体がひとつのリンゴです。禅の公案に「庭前柏樹子」、悟りとは何か?と問われ、そのとき庭に見えた柏の樹を示した、という問答がありますが、この時は意識全体に柏の樹が映り、意識全体が一本の柏樹だったと思われます。そしてここがミソですが、庭前柏樹子(9世紀の中国での出来事)で柏を映した意識は、いまこのブログ(2019年の日本での出来事)を映している意識と全くおなじものというところです。時代も場所も関係がない。庭前柏樹子も、果物屋での「リンゴ」「これな?」も、起きてることは同じこと。そういうところに我々もいる。

 

図では便宜的に緑の点線で「広場」を表現しましたが(面積があるように見えますが)、じっさいは「意識」なので、大きさも範囲もかたちもありません。ということはそこにあるブルーシート、つまり個々の「こころ」も、大きさも形もないことになってきますね。書いてて今気づいたけど、なんてこった。

 

坐禅や瞑想中は、形も重さもある肉体をもちながら、大きさもかたちもない、時代も場所もない、意識の広場にすわっていることになります。肉体として物質の世界に存在しつつ、形なきこころ(意識)の世界に踏み込んでいるようです。

 

我々はどこで「見ている」のか?

「こころの声を聴く時」にもつながる疑問なんですけど、記憶を思い出している時、そのイメージの映像って、我々はどこで見てるんでしょうね? 「記憶やイメージが思い浮かぶ時、それはどこに映っているのか?」でもいいんですけど。

 

こころの中? 頭の中? 脳味噌の中?

 

Googleで検索したり、一般向けの脳科学の読み物(『意識をめぐる冒険』(クリストフ・コッホ著)『意識はいつ生まれるのか』ジュリオ・トノーニ著)など)を読んでみましたが、はっきりした答えはみつかりません。

 

視床ー皮質系の堅固な中核には、刺激に対する反応のレパートリーが潤沢につまっており、見たり聞いたり感じたりすることにおいては感覚器官の影響を受けるが、感覚器官の協力がなくてもやはり、見たり聞いたり感じたりできる。だから、大脳皮質のニューロン(※神経細胞の名称。筆者註)に電気的な刺激を直接与えると、ある感覚が意識に浮かぶということが起きるのだ。目を閉じても情景を思い浮かべたり夢に見たりできるのも、同じ理由からである」(『意識はいつ生まれるのか』より)

 

といったぐあいに、大脳皮質のある部位が記憶(にまつわる映像などの感覚)の想起に関係してはいるようです。ただ一般向けの読み物のせいか、どこを刺激すれば見たり感じたりできるのか、その具体的な位置の特定がされていないので、もうひとつスッキリしないんですよね。大脳皮質って要は脳の表面ぜんぶのことだと思うので、「大脳皮質のニューロン」っていわれてもなあ(視覚的記憶が浮かぶ時に脳のどこが働いているか、ご存知の方がいたらご教示ください)。

他方、目で物を見る時の「視覚映像」となると、後頭部にある「視覚野」とよばれる脳の領域で(目からはいった光の情報を電気信号に変換し、視神経を通して)処理することで、映像の認識が起きているようです。

 

ただいずれにしても「映像が見えている時、脳のどこが機能しているか」はわかったとしても、そこがはたらくことでなぜ「見える」(映像の認識)が起こるのか? そもそも「認識する」とは、どういうことなのか? それに対する説明は見あたらないんですよね。

脳味噌のどこかがはたらく時、記憶なり物質の「映像」がなぜ我々には「見える」のか?
さいしょの質問に戻るなら「記憶やイメージが思い浮かぶ時、それはどこに映っているのか?」

 

頭の中で、映画やプロジェクションマッピングのような(投影)、あるいはイルミネーションや液晶モニターのような(発光)、なんらかの映像現象が起きているから、我々にもそれが「見えている」のか?
もしそうだとすると、脳内でその映像を見ているのは何ものか? この設問は「ではその何ものかの内側で、それを見ているのは何ものか?」といった終わりなき問いを生むことになり(マトリョーシカのように「中の人」が何重にも入ってる入れ子構造の視点が無限に生まれ)、答えが出ません。

 

「見える」とはどういうことなのか? 「認識する」って言うけれど、その「認識」とやらはどこで起きてるのか? 認識しているときに脳のどこが作動しているか、ではなしに。認識の「場」は、どこに立ち上がっているのか?

 


ここでちょっと瞑想的なアプローチをとってみます。

目をつむります。

 

見えなくなります。

 

本当に?


たしかにまぶたで光が遮られるので「暗く」はなっています。でもそれって「見えない」(視覚が無い)ことになるんでしょうか?

「暗い」という感覚はわかっているわけで。そこに視覚は残っていて、「暗いを見ている」状態ではないのか?

 

まぶたを閉じたまま正面を「見よう」としていると、暗いなかで左右の目がそれぞれ前方にフォーカスしようとする感覚が出てきます。
そのうち両目の先にふたつあった焦点が、中央に寄ってきて一本化されます(眉間の前あたり)。
さらにひとつになったその焦点を後方で、扇形のようにひろがって受け入れようとする視座がでてきます(後頭部のあたりから、さらに後方の空間まではみ出る感じ)。

 

「ああ、見るってこういうことなんだなあ。ふだん目をあけて見てる時も、こうして見ているんだろうなあ」と感じられます。

 

そのまま続けていくと、前後にわかれていた「焦点」と「視座」も眉間の奥あたりでひとつの点にまとまり、そこから同心円状に(波紋のように)ひろがる感じがでてくる。ここまで来るともう「見る」ではなく、瞑想的な意識に移行していますね。

 

一致しているかはわかりませんが、瞑想状態に入る前の「扇型の視座」が感じられる後頭部のあたりって、ちょうど脳の視覚野と重なる領域のようです。視覚野は頭蓋の外まではみ出してはいないですけど。

  

「イメージや記憶の映像って、どこに浮かんでいるのか?」 そもそもの疑問を持つようになったのは10年近く前、坐禅をはじめてすぐの頃。浮かび続ける雑念に「ああうざい、こいつら実体もないくせに、どこに浮かんでるんだ?」と思ったのがきっかけでした。

その疑問につられるように「まてよ、じゃあ目の前に映る実世界の映像はどこに浮かんでいるんだ?」との疑問も出てきました。それまでは「見える」ことが当たり前すぎて、考えたこともなかったけど。

そうなると「想念が浮かんでいるところ」と「視覚映像が浮かんでいるところ」はそれぞれどこなのか? 違う場所なのか同じ場所なのか? という疑問も生まれてきます。

 

我々はふだん「視覚の映像」と「想念の映像」を二重写しのように同時に見てますよね。たとえば僕はいまタブレットでこのブログを書いていますが、画面を見ながら、1時間ほど前に食べたつけ麺(あつ盛り)のビジュアルを思い浮かべています。こがね色の麺からふわあっ!とあがる白い湯気、とろりとからむ茶褐色のつけ汁…タブレットの画面と二重写しで、同時に見えています。(よっぽどおいしかったんですね)

「目の前にあるタブレット」と「さっきのつけ麺」。現存するものの映像と、記憶が想起する映像。映ってるのはいったいどこだ? 同じ場所?違う場所?


まだ確証はもてないのですが、ヒントになりそうな気づきはあります。

 

坐禅を組む時って、まぶたを半分を閉じた「半眼」の状態で行なうので、眼の下半分が「視覚映像」となり(映るのは壁と床と手足だけですが)、上半分は空白の「想念の浮かぶ場所」になってくるんですよね(さいしょ暗いけどぼんやり明るくなってきて、普段より想念が見やすくなる)。そして映っているのはひとつの目玉なので「視覚映像」と「想念」が(質はちがうけど)等価値にみえてくるんです。前者にフォーカスしすぎると現実のまま禅定に入れないし、後者に寄りすぎると妄想にハマる危険性が出てくる。その間のちょうどよいところ。釈迦が説くところの「中庸」を保つことが、ここでも求められるわけです。(つづく)

 

 

レット・イット・ビー

「こころの声」って言うけれど、そもそもどこで聴いてるんでしょう?

 

耳ではないですよね。実際に音がしてるわけではないのだから。聴こえているのはその人だけで。
常識的にかんがえると、脳のどこかで聴いている? 「聴覚野」とか呼ばれるところが、何かの刺激に反応している?

 

でも「こころの声」っていうけど、幻聴のようにありありと誰かの声を聴くというよりも(そういう人や場合もあるでしょうけど)、キャッチした瞬間は映像的だったり、意味そのものが思いとして飛び込んでくることが多い気がします。それを「えっと、何だっけ?」と今一度確認する時、映像にテロップをつけるだとか、あるいは取ったばかりのメモを復唱するように確認する。そのとき音声(のような)認識が起こる。

何段階かの瞬間的なプロセスを経て、我々は「こころの声」を「聴いている」のだと思います。

 

たとえば僕がよく聴くこころの声に、亡くなるちょっと前の父親からかけられた「がんばれ!」という「声」があるのですが、これは音だけで来ることはまずないんですね。映像というかその時のシチュエーション込みの記憶としてやってくる。病院のベッドから体は起こさず(起こせず)、でも病室を出ようとする僕に向けてふりしぼるように「がんばれ!」と声をだした、その体験全体としてよみがえる。その声を聞いた時の、その後何度も思い出した時の、僕の気持ちや思いもたぶん一緒にやってきてる。
時とともに色あせているようにも見えるし、鮮明だとも思える。


「がんばれ!」の受けとめかたも、そのつど違う。崩れそうな時、背中を押してくれることもあるし、さしたる感慨もなく右から左へぬけてく時もある。

 

「こころの声って何だろう?」このところずっと考えていて、瞑想で内観する時もそれをテーマに「思いの去来」をみているのですが、基本的には「知らないことは心にも浮かんでこない」というのが、ひとつの結論です。どこかで経験したこと、見聞きしたこと、その時感じたり思ったりしたことが「記憶」としてストックされていて、ある時ふっとわいてきている。

 

その中で印象の強いもの、重要度の高そうなものだけを「こころの声」と認定している。そうでないものは「忘れてる」という自覚すらなしに忘れている。

 

基本的には「記憶」や「思い」なのだと思います。未知ではなく既知のもの。

 

ふってわいたように思えても、過去にどこかで経験している。「迷わず進め」でも「もうすこしの辛抱だ」でも「なめんな!」でも、誰かの口ぐせだったり、本の一節だったり、自分で口にしていたり。

 

出来事の概要は忘れていたり、ディテールが改変されていたり、記憶同士の結合や組み換えが新しい情報を生む(新たな「気づき」を得る)ことはあるけれど、基本的には「知ってる」ことばかり。瞑想や禅定が深くなるほどに、ずっと忘れてた記憶がうかびあがり、「なんだ、自分オリジナルと思っていたあの考えも、元ネタはこれだったのか」と愕然としたり、がっかりしたり。

 

瞑想について書かれた本やブログなどをみていると「潜在意識にアクセスする」とか「見えないものの存在を知る」とか、神のお告げでも聴けるようなうたい文句がチラつきますが、その「お告げ」って、言葉や映像や音といった「かたち」でやってくるものではないと思います。そこまで即物的ではない。(かたちをとる前の「イメージ」ならあると思うけど、そのイメージを認識したとたん、色、言葉、音といった「かたち」をとるので、それはもう別物、抜けがら、残骸だと思います)

 

瞑想や坐禅の最中は、意識が日常のそれとは異なる状態に変容はするので、「未知の感覚」を体験することは何度でもあると思います。ただそれは「感覚」であり「体験」なので、そのままに持ち運ぶことも、そのままで誰かに伝えることもできない。瞬間的に消え、「記憶」となった「感覚」や「体験」を表現する際つかってるのは、「言葉」や「記号」(色、音、形、身ぶりや感触)といった既知のもの。

 

発話者が「私」になった時点で、もう「天の声」ではないんです。だから、わたしは神様という人、そうは言わずもそれと匂わせてる人は、きっとみんな嘘つきです。後者の方が数も多いし、逃げが打てるぶん、たちもわるいかもしれない。

 


「困難で苦しみのさなか、(むかし亡くなった)僕の母さんのメリーがやってきて、『大丈夫、なるようになるわよ』とささやいた」

 

ザ・ビートルズ『レット・イット・ビー』の歌い出しですが、これはポール・マッカートニーの見た夢から生まれた歌なんですよね。メンバーの気持ちがもうバラバラで、バンドも崩壊寸前で、でもポールはなんとか続けようとしていた時のこと。

 

「母さんのメリー」は“Mother Mary”で、「聖母マリア」ととることもできますが(「そうとる人もいるだろうね」と無神論者のポールも何かの時に答えてた。否定はしなかった)、どっちにとるかは聴く人しだいでしょうね。

アルバムで聴くと、前説的な曲の『ディグ・イット』が「聴こえる? 天使がくるよ」で終わり、そのままあの前奏がはじまるので、マザーメリーの「マリア様感」ががぜん増すのですが。。。


おしつけがましくなく、解釈に幅をもたせることができるのは優れた表現で、聴き手の感受性や想像力を信頼しているのだと思います。

 

どっちにとってもそれぞれの味わいがあり、やっぱりいい歌だなあとおもいます。

 

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「こころの声」は「本心」か?

「こころの声」とは何か? 別の言い方で一番近いのは「本心」なのかな?と思います。こころの声を聴く、イコール、自分の本心を知る。

 

何かモヤモヤしてすっきりしない。そういう時はたいてい、目を背けている出来事があったりします。つねにスッキリ!生きてる人も、そうそういないと思いますけどね。大なり小なり、みんな何かしら抱えてるわけで。

 

坐禅や瞑想の本来の目的からはちょっとずれますが、禅や瞑想をしていると、わいてくる「思い」や「考え」、折にふれて起こる「感覚」に通常よりも気づくようになるので、それらが象徴する「本心」にも気づきやすくなるのかな、とは思います。

ただその本心にも程度や種類があって、一時的に何かに熱狂している時の「本心」ならいずれ冷める(変わる)し、その本心をえらんで行動することで大損をしたり、誰かを傷つける「本心」もあるし(本心を知らない方がいい時もある)、また根源的なところに近い「本心」が自分がのぞむようなものでは全くなく、変えることもできず(なんせ本心なので)、たちの悪い持病のように一生つきあう覚悟を迫られる、なんてことも出てくると思います(ここまでくると、その人の「本性」とか「宿命」とか呼んだほうがいいのかもしれない。生まれつきの鬼っ子のような「思い」)

 

「本心」というくらいなので、起こる場所はやはり胸のあたりなんでしょう。頭にひらめく「インスピレーション」や、何かを見た瞬間、その本質や特徴をつかむ「直観」も「本質に近い思い」だとは思いますが(これも起こるのは頭)、胸の奥からわいてくる、腹の底から上がってくるような「深い思い」というものがあると思います。

身体や感覚がにぶっていたり、頭の中が雑音でいっぱいだと、キャッチしにくいものだと思います。ささやかな波のように微かなもの。水面下の深いところでは大きな潮流がうごいているのかもしれない。

 

たとえば「なんとなくいやな予感」がしていて、だけど「いや大丈夫、気のせい」と思い直して、後になって結局、「予感の通りだった」みたいな出来事ってあると思います。

あるいは「ずっと気になっていた」けど、「自分には無理」とか「無関係」と思っていて、でも何かの拍子にそちらに進むことを決断するとか。道がひらけるとか、縁がつながるとか。

 

どちらも「本心」(上の例だと「直観」とか「快不快の感覚」とか「奥深い衝動」とか)を「理性」(表面的、短期的な思考の判断)で抑圧しているのだと思います。理性による抑圧が、かならずしも悪いわけではないと最近は思いますけど。それが必要な状況、必要な時期もあるだろうと。

 

 

我が身をふりかえると、30代の頃すごくお世話になっていた方がいて、でも何かその人に言い得ぬ違和感を感じていた。リアルタイムでははっきりと自覚できなかったし、感じた違和感を見て見ぬふりもしていた、と言えるのも10年近く経った今だからです。


禅をはじめて1年半くらい経ったあたりで、僕の感じ方、ふるまいかたが変わり(いま思えば)、その人とのつきあいかたも変わっていったのだと思います。

 

「ああ俺、この人に世話にもなってたけど、許せないところ(人倫に反することや常軌を逸した言動)もいっぱい見逃してたんだな。気づかぬうちにこの人のこと、きらいになってたんだな」


そんな「こころの声」、「本心」に気づいてからは、(それまで言えなかった)言うことも言うようになり、結果、距離も生まれ、疎遠になっていきました。いや嘘ですね、疎遠になったのではなく、最後ブチッと縁が切れた。いや「切れた」のではなく「切った」のかな。すくなくとも「切れてもいいや」とは思ってました(ブログのように人に見せる文章だと、自分を良く見せたいので、なかなか本心が書けませんね。気づかぬうちに嘘をついている。誰にも見せない日記では、そのものズバリなんですけど)。

 

当時の僕には必要な、ある種必然的な選択で、その方のその後を見るに、つきあいをやめて正解だったなとも(いまのところは)思います。ただ、その人の問題ではなく、僕自身の人づきあいの作法として、「もう少しやんわりと、つかずはなれず、距離を置くこともできたんじゃないの?」時間が経ったいま、こころの声がそう語りかけてくるときもあります。

 

 

「こころの声」はどこまで信用できるか?

(前回からのつづき)

「迷ったら、心の声にしたがう」
「正しいかどうかではなく、楽しいかどうか、好きか嫌いかで判断する」

どちらもここ数年、僕の行動の指針みたいになっていて、また世間的にもずいぶんと(それともごく一部? どうなんだろう?)広まってきた考えかただと思うのですが、「本当にそれで大丈夫?」と思うようになった、というのが前回の結びでした。

「心の声にしたがう」に関しては、坐禅や瞑想をするようになって、意識の座が頭から胸、腹、足腰へと降りていき、ものごとを判断する時も頭(思考)より胸(感情、感覚、感性)や腹、足腰(より原始的な感覚、感性?)が優位となっていったから。「胸に聞く」「腹をくくる」「腰を据える」といった感覚がわかるようになってきました。
「楽しいかどうか、好きか嫌いかで判断する」についてもやはり感性をおもんじる生きかたで、個人的には東日本大震災以降、こういうことを言う人たちが出てきた、増えていった印象があります(僕もそれに乗っかったんだと思います)。それまでの価値観が一度徹底的に崩れ去り、「正しさ」の基準も消し飛んだ。何が正しいか誰も断言できないので、ひとりひとりが「楽しい」とか「心地よい」と思えることを大事にしていこう、それを新たな「基準」としていこう、スタートはそんな感じだったと思います。

ただわが身をかえりみるに、心の声を絶対視すると、感覚だけで生きていこうとすると、人はどんどんわがままに、独善的になっていくなあ。あとさきを考えず刹那的になるなあ。自己主張ばかりで衝突もふえ、対話もすれ違っていくなあ。最近はそういう思いが強くなってきています。自分だけが正しい。自分が好きなもの、自分のことを好きな者だけが、ここに存在してもよい。あとはしらない。どうなってもいい。

僕はそういう傾向が強くなったし、まわりをみても、社会全体に視野をひろげてみても、そういう人たちが問題とか事件事故をおこし、迷惑をかけることが増えている気がするのです。

 

「心の声」は、はたしていつも正しいのか? まちがうことはないのか?

 

「いや、そもそも頭で考えてきた”正しさ“があてにならなくなったから、胸に聞いているんでしょ? ”考える“より”感じる“方が信頼できるんでしょ?(ブルース・リーの「考えるな、感じろ!」という言葉も人気ありますよね) 感覚は人それぞれだから、人の数だけ正しさもあるんじゃないの?」

うん、そうなんですけどね。それはそうかもしれません。ただこれは「ものごとを楽しいかどうかで判断する」にもつながることだと思うんですけど、心の声が言ったなら、自分が楽しい(好き)と感じたら、何をやっても許されるのか? というところで疑問符がつくと思うんです。

いつのまにか「楽しさ」が「正しさ」を主張しはじめてはいないか? 感覚的で主観的なはずの「好き」や「嫌い」の「判断」が、客観的(というか絶対的)な「正しさ」の「判定」へとすりかわってないか?

自分だけが正しい。自分が好きなもの、自分のことを好きな者だけが、ここに存在してもよい。

ひとりひとりの「楽しさ」や「心地よさ」を大事にすることも、度がすぎると「そうでないものは否定する」ところまで行ってしまうのでは? きらいなものや不快な出来事を必要以上にさける、排除するようになる。感覚的に他人や出来事を裁き、それが絶対と思うようになる。

 

「おまえの心に耳を傾けるのだ。心はすべてを知っている。それは大いなる魂から来て、いつか、そこへ戻ってゆくものだからだ」(パウロ・コエーリョアルケミスト』の一節)

ちょっと唐突ですが『アルケミスト』(角川文庫版)は僕の愛読書のひとつで、ちょうどけさ久々に手に取り、付箋がついてるところを開いてみたら。これが僕にとっての「こころの声」の元ネタだったとしたら…。

 

お話のあらすじは、自分のみた夢を信じて宝探しにでかけた少年が、錬金術師と出会い、「心の声」にしたがい、ついに運命の宝物をみつけるというもの。よくできたお話で「私ももう一度夢を見よう!」「自分の運命を生きてみよう!」と影響を受けた人は(僕のほかにも)たくさんいると思います。

 

それと同時に(僕のように)「心の声」を拡大解釈して、この物語を盾にわがまま放題やってるイタい人たちもけっこういる気がします。

 

「少年は自分の心に熱心に耳を傾けながら、何時間か砂漠を馬で進んでいった。宝物がどこに隠されているか、彼の心が教えてくれるはずだった」

なんて記述もありますからね。「心」とは「直観」なのか「感覚」なのか。はたまた宝のありかまでわかる「超能力」みたいなものなのか!?

作者がはっきりと定義してないので、好きなように読めてしまうんですよね。よくいえば表現に幅をもたせ、想像の余地をあたえている。わるくいえば厳密さを欠き、無責任。読み手の解釈や性格によっては、「行き過ぎた欲望」やわるくすれば「嫌悪」や「憎悪」まで「心の声だから!」で正当化する可能性がでてくる。

「あれがほしい!これもほしい!」「あの人がほしい!」「この人、いらない!」

心の声ならゆるされるのか?

 

まあ『アルケミスト』に関しては、物語の終盤で錬金術師が鉛を金に変える描写が出てくるので「このお話はフィクションです」と作者も釘をさしてるんですけどね。ここに描かれていることを、何もかも真に受けるなよと。

 

「心の声」とは何か、もう少し考えてみようと思います。(つづく)

 

追記: 『アルケミスト』と似た作品とみなされる『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ著/岩波書店)も、主人公の少年が「汝の欲するところをなせ」とのお告げにしたがい、おとぎの国で夢を叶えていく話ですが、夢をかなえたあとも心の赴くまま生きるとどうなるか?までを描いているので、ずっと奥行きの深い物語だと思います。

ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか?』

年末年始、時間ができたので、ある人にすすめられた『なぜ今、仏教なのか?』(ロバート・ライト/早川書房)という本を読みました。著者はアメリカの著名なサイエンスライターで、進化心理学に精通し、マインドフルネス瞑想も実践している方のようです。瞑想を通じてささやかな神秘体験もし、それでいてオカルト(輪廻転生や前世からのカルマなど)とは一線を引き(その態度が宗教をあつかうに際して適切か不適切かは別として)、進化心理学の原理である「自然選択」にもとづく人間観で、「無我」「空」「悟り」といった(あいまいになりがちな)ことばに現代的で明確な定義をあたえていきます。

 

瞑想者としてはそこまで高いレベルの方ではないと思うのですが(それは本人も何度も強調している)、著述家としての洞察力と構成力、情報収集能力がものすごく高いせいか、「瞑想中に起きているささやかなこと」をソースに「無我」や「空」といった「仏典に出てくる言葉」を具体的なものとして、ごまかすことなく説明していきます。思考の範囲で可能なかぎり。空理空論におちいることなく。見事なものです。

僕がずっとわからないままでいる「自我のはたらき」についても、見通しのよい説明を提供してくれました。すべてが腑に落ちたわけではないけれど、ずいぶんとすっきりしました。


良い読書はひとつの体験となり、新しい視点を与えてくれます。そこから新たな問題提起をしてくれます。この本を読んでいて、僕の中でクローズアップされてきたのが「心の声だけに従ってていいのか?」ということと「好き嫌いだけでものごとを判断してていいのか?」ということでした。「心の声にしたがう」も「好き嫌いで判断する」もここ数年僕のイデオロギーみたいになってきていて、また「正解のない時代」を生きるひとつの指針として、世間でも力をもってきている考えだと思うのですが、本当にそれで大丈夫なのか?と。(つづく)

 

自分が「自分の最悪の敵」となる時

「君には自分というものがない!」とよく叱られていたので、がんばって「自分」なるものを獲得しなきゃと「自我の確立」にいそしんできました。20代後半あたりから。ちょっと遅いですけど。でもいっとき「自分探し」ということばが流行していたので、まわりに似た人たちもいて、そういう人たちを応援するむきもありまして。のちに「いつまでも自分さがしてんじゃねえ!」と叩かれたり、笑われるようになるんですけどね。

 

僕の場合は「仕事による自己実現」が「自分になること」とイコールだったと思います。フリーランスのライターになって、最初の5年くらいはうまくいきそうだったけど、その後の数年で仕事が一本もなくなる事態となり、他にも悪いことが重なり、鬱病になるんです。診断こそ下らなかったけど、アルコール依存でもあったな。朝から飲んでましたからね。

 

自分になれないくらいなら、死んでしまえと思ってました。


詳細は省きますが、この時何が起きていたかというと「強くなりすぎた自我が、ガン細胞のように暴れていた」のだと思います。

 

「オレは成功するぞ!」→「自己主張しなきゃ!」→「あいつには勝ってる!」→「あの人には勝てない!」→酒に逃げる→気持ちが大きくなる→誰かのせいにする。

 

あいつらが全部悪い! オレだけが正しい! みんな死んでしまえ!

 

「成功するぞ!」から一周まわって「死んでしまえ!」。オレ、オレオレオレ…二三周のうちはいいのですが、100周1000周ぐるぐる回り続けてると(酒の力も加わって)自分では止められない「渦」となり、自我ばかりが肥大化していくんです。自分がいつしか自分の最悪の敵となっていきます。

 

もう自分じゃないんです。

 

こういう認識に至るには、やはり「自我の正体を見抜く」坐禅の影響は大きくて、参禅をはじめてから、本当に少しずつですけど「状況と自分」の見方が変わっていったのだと思います。自分でも気づかぬうちに(そこが禅のいいところでもあり、地味なところでもある。なかなか効果が見えないので、途中でやめちゃう人もいる)。

 

客観視、とも違うんですよね。客観視だと立ち位置を変えたところに、また「自分」が立っている。違う視点を提供してくれるのでそれなりに有効だとは思いますが、立ってる土台が変わってないので依然不安定な気がします。見えてる景色がやはりぶれてる。自分でそうと気づかずに。

 

「自分が自分の最悪の敵」となる最悪のケースが「自殺」なんでしょうね。苦しすぎたり、状況が思い通りにならなすぎると「全部終わらせよう」と自分で自分を殺そうとする。本当は世界を滅亡させてもいいんですけど、そんな力はないから(くやしい!)、自分を殺すことで解決しようとする(あーくやしい!)。僕も最近はほぼなくなりましたが、どん底で(これも自分で「どん底認定」をしてるだけで、事実としての「どん底」なんてどこにもない)鬱だった時期は、「いっそ殺して!」(誰に?)とか「ああこのまま行ったら死ぬな…」とか思うことはありました。積極的に死のうとは思わなかったですけどね。そんな力は残ってなかった。もっと流れにまかせる感じです。らくになりたいので、ゆらゆらと。。。

 

でも「自殺」って見当違いなんですよね。かりに、死すべき相手がいるとして、それは「(肥大化した)自我」なのに、その自我が寄生してる「肉体」を殺してしまっている。どこかズレてる行為なんです。

 

心身からうまれた「自我」は、心身から養分をすって生きている。正確にいえば「心身を含めた自分というものが生きている」という思いを持っている。

ちょっと絵にしてみます。

 

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ミツバチが「自我」で、花が「心と体」で、地面が「無意識」となります。地面や花にくらべ、ずいぶんと大きなハチです。自分もでかいと勘違いしてます!

 

この絵で「自殺」を説明するなら、花を「自分のもの」と思い込んだ(ずっと蜜を吸ってるうち、そう思うようになった)ミツバチが、なんらかの理由で「消えたい」と思った時、「花を地面から引っこ抜こうとする」ことが「自殺」となります。

 

たとえに無理がある? これならどうでしょう。「うるさいハチを追い払おうとして、花ごと抜いてしまう」。似たようなことは、いろいろなところで見かけるのでは? 自殺も基本的にはおなじことだと思います。

 

手前味噌になりますが、「花を抜かずにハチだけ追い払う」のが坐禅のアプローチなんだと思います。あるいは「ハチがブンブンいわなくなる」。心と体はきずつけず、自我だけを殺す。弱らせる。適切なサイズまでちいさくして、暮らしの中で有効に使えるようにする。

 

ミツバチが一匹も来なくなったら、花も花粉を託せなくなりますしね(´・ω・`)

 

僕の場合、坐を解くとまだハチがぶんぶんするのが悩みの種でもあるのですが、いくとこまでいくとハチがいなくなり、花も地面もあってないような状態になるようです。ここから先は推測になりますが、修行で涅槃を実現し、その後も肉体の寿命を迎えるまで人々に教えを説きつづけた釈迦なんかは、そういう状態だったのかもしれません。

苦行に見切りをつけ(肉体を自我ととりちがえていじめるのをやめ)、花(こころとからだ)をたいせつに、他の草木(人々)にも花実が咲くよう種(教え)をまきつづけた。それは静かな羽音で。

 

死んで花実が咲くものか、です。