息をかぞえて

禅・こころとからだ

「こころの声」はどこまで信用できるか?

(前回からのつづき)

「迷ったら、心の声にしたがう」
「正しいかどうかではなく、楽しいかどうか、好きか嫌いかで判断する」

どちらもここ数年、僕の行動の指針みたいになっていて、また世間的にもずいぶんと(それともごく一部? どうなんだろう?)広まってきた考えかただと思うのですが、「本当にそれで大丈夫?」と思うようになった、というのが前回の結びでした。

「心の声にしたがう」に関しては、坐禅や瞑想をするようになって、意識の座が頭から胸、腹、足腰へと降りていき、ものごとを判断する時も頭(思考)より胸(感情、感覚、感性)や腹、足腰(より原始的な感覚、感性?)が優位となっていったから。「胸に聞く」「腹をくくる」「腰を据える」といった感覚がわかるようになってきました。
「楽しいかどうか、好きか嫌いかで判断する」についてもやはり感性をおもんじる生きかたで、個人的には東日本大震災以降、こういうことを言う人たちが出てきた、増えていった印象があります(僕もそれに乗っかったんだと思います)。それまでの価値観が一度徹底的に崩れ去り、「正しさ」の基準も消し飛んだ。何が正しいか誰も断言できないので、ひとりひとりが「楽しい」とか「心地よい」と思えることを大事にしていこう、それを新たな「基準」としていこう、スタートはそんな感じだったと思います。

ただわが身をかえりみるに、心の声を絶対視すると、感覚だけで生きていこうとすると、人はどんどんわがままに、独善的になっていくなあ。あとさきを考えず刹那的になるなあ。自己主張ばかりで衝突もふえ、対話もすれ違っていくなあ。最近はそういう思いが強くなってきています。自分だけが正しい。自分が好きなもの、自分のことを好きな者だけが、ここに存在してもよい。あとはしらない。どうなってもいい。

僕はそういう傾向が強くなったし、まわりをみても、社会全体に視野をひろげてみても、そういう人たちが問題とか事件事故をおこし、迷惑をかけることが増えている気がするのです。

 

「心の声」は、はたしていつも正しいのか? まちがうことはないのか?

 

「いや、そもそも頭で考えてきた”正しさ“があてにならなくなったから、胸に聞いているんでしょ? ”考える“より”感じる“方が信頼できるんでしょ?(ブルース・リーの「考えるな、感じろ!」という言葉も人気ありますよね) 感覚は人それぞれだから、人の数だけ正しさもあるんじゃないの?」

うん、そうなんですけどね。それはそうかもしれません。ただこれは「ものごとを楽しいかどうかで判断する」にもつながることだと思うんですけど、心の声が言ったなら、自分が楽しい(好き)と感じたら、何をやっても許されるのか? というところで疑問符がつくと思うんです。

いつのまにか「楽しさ」が「正しさ」を主張しはじめてはいないか? 感覚的で主観的なはずの「好き」や「嫌い」の「判断」が、客観的(というか絶対的)な「正しさ」の「判定」へとすりかわってないか?

自分だけが正しい。自分が好きなもの、自分のことを好きな者だけが、ここに存在してもよい。

ひとりひとりの「楽しさ」や「心地よさ」を大事にすることも、度がすぎると「そうでないものは否定する」ところまで行ってしまうのでは? きらいなものや不快な出来事を必要以上にさける、排除するようになる。感覚的に他人や出来事を裁き、それが絶対と思うようになる。

 

「おまえの心に耳を傾けるのだ。心はすべてを知っている。それは大いなる魂から来て、いつか、そこへ戻ってゆくものだからだ」(パウロ・コエーリョアルケミスト』の一節)

ちょっと唐突ですが『アルケミスト』(角川文庫版)は僕の愛読書のひとつで、ちょうどけさ久々に手に取り、付箋がついてるところを開いてみたら。これが僕にとっての「こころの声」の元ネタだったとしたら…。

 

お話のあらすじは、自分のみた夢を信じて宝探しにでかけた少年が、錬金術師と出会い、「心の声」にしたがい、ついに運命の宝物をみつけるというもの。よくできたお話で「私ももう一度夢を見よう!」「自分の運命を生きてみよう!」と影響を受けた人は(僕のほかにも)たくさんいると思います。

 

それと同時に(僕のように)「心の声」を拡大解釈して、この物語を盾にわがまま放題やってるイタい人たちもけっこういる気がします。

 

「少年は自分の心に熱心に耳を傾けながら、何時間か砂漠を馬で進んでいった。宝物がどこに隠されているか、彼の心が教えてくれるはずだった」

なんて記述もありますからね。「心」とは「直観」なのか「感覚」なのか。はたまた宝のありかまでわかる「超能力」みたいなものなのか!?

作者がはっきりと定義してないので、好きなように読めてしまうんですよね。よくいえば表現に幅をもたせ、想像の余地をあたえている。わるくいえば厳密さを欠き、無責任。読み手の解釈や性格によっては、「行き過ぎた欲望」やわるくすれば「嫌悪」や「憎悪」まで「心の声だから!」で正当化する可能性がでてくる。

「あれがほしい!これもほしい!」「あの人がほしい!」「この人、いらない!」

心の声ならゆるされるのか?

 

まあ『アルケミスト』に関しては、物語の終盤で錬金術師が鉛を金に変える描写が出てくるので「このお話はフィクションです」と作者も釘をさしてるんですけどね。ここに描かれていることを、何もかも真に受けるなよと。

 

「心の声」とは何か、もう少し考えてみようと思います。(つづく)

 

追記: 『アルケミスト』と似た作品とみなされる『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ著/岩波書店)も、主人公の少年が「汝の欲するところをなせ」とのお告げにしたがい、おとぎの国で夢を叶えていく話ですが、夢をかなえたあとも心の赴くまま生きるとどうなるか?までを描いているので、ずっと奥行きの深い物語だと思います。

ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか?』

年末年始、時間ができたので、ある人にすすめられた『なぜ今、仏教なのか?』(ロバート・ライト/早川書房)という本を読みました。著者はアメリカの著名なサイエンスライターで、進化心理学に精通し、マインドフルネス瞑想も実践している方のようです。瞑想を通じてささやかな神秘体験もし、それでいてオカルト(輪廻転生や前世からのカルマなど)とは一線を引き(その態度が宗教をあつかうに際して適切か不適切かは別として)、進化心理学の原理である「自然選択」にもとづく人間観で、「無我」「空」「悟り」といった(あいまいになりがちな)ことばに現代的で明確な定義をあたえていきます。

 

瞑想者としてはそこまで高いレベルの方ではないと思うのですが(それは本人も何度も強調している)、著述家としての洞察力と構成力、情報収集能力がものすごく高いせいか、「瞑想中に起きているささやかなこと」をソースに「無我」や「空」といった「仏典に出てくる言葉」を具体的なものとして、ごまかすことなく説明していきます。思考の範囲で可能なかぎり。空理空論におちいることなく。見事なものです。

僕がずっとわからないままでいる「自我のはたらき」についても、見通しのよい説明を提供してくれました。すべてが腑に落ちたわけではないけれど、ずいぶんとすっきりしました。


良い読書はひとつの体験となり、新しい視点を与えてくれます。そこから新たな問題提起をしてくれます。この本を読んでいて、僕の中でクローズアップされてきたのが「心の声だけに従ってていいのか?」ということと「好き嫌いだけでものごとを判断してていいのか?」ということでした。「心の声にしたがう」も「好き嫌いで判断する」もここ数年僕のイデオロギーみたいになってきていて、また「正解のない時代」を生きるひとつの指針として、世間でも力をもってきている考えだと思うのですが、本当にそれで大丈夫なのか?と。(つづく)

 

自分が「自分の最悪の敵」となる時

「君には自分というものがない!」とよく叱られていたので、がんばって「自分」なるものを獲得しなきゃと「自我の確立」にいそしんできました。20代後半あたりから。ちょっと遅いですけど。でもいっとき「自分探し」ということばが流行していたので、まわりに似た人たちもいて、そういう人たちを応援するむきもありまして。のちに「いつまでも自分さがしてんじゃねえ!」と叩かれたり、笑われるようになるんですけどね。

 

僕の場合は「仕事による自己実現」が「自分になること」とイコールだったと思います。フリーランスのライターになって、最初の5年くらいはうまくいきそうだったけど、その後の数年で仕事が一本もなくなる事態となり、他にも悪いことが重なり、鬱病になるんです。診断こそ下らなかったけど、アルコール依存でもあったな。朝から飲んでましたからね。

 

自分になれないくらいなら、死んでしまえと思ってました。


詳細は省きますが、この時何が起きていたかというと「強くなりすぎた自我が、ガン細胞のように暴れていた」のだと思います。

 

「オレは成功するぞ!」→「自己主張しなきゃ!」→「あいつには勝ってる!」→「あの人には勝てない!」→酒に逃げる→気持ちが大きくなる→誰かのせいにする。

 

あいつらが全部悪い! オレだけが正しい! みんな死んでしまえ!

 

「成功するぞ!」から一周まわって「死んでしまえ!」。オレ、オレオレオレ…二三周のうちはいいのですが、100周1000周ぐるぐる回り続けてると(酒の力も加わって)自分では止められない「渦」となり、自我ばかりが肥大化していくんです。自分がいつしか自分の最悪の敵となっていきます。

 

もう自分じゃないんです。

 

こういう認識に至るには、やはり「自我の正体を見抜く」坐禅の影響は大きくて、参禅をはじめてから、本当に少しずつですけど「状況と自分」の見方が変わっていったのだと思います。自分でも気づかぬうちに(そこが禅のいいところでもあり、地味なところでもある。なかなか効果が見えないので、途中でやめちゃう人もいる)。

 

客観視、とも違うんですよね。客観視だと立ち位置を変えたところに、また「自分」が立っている。違う視点を提供してくれるのでそれなりに有効だとは思いますが、立ってる土台が変わってないので依然不安定な気がします。見えてる景色がやはりぶれてる。自分でそうと気づかずに。

 

「自分が自分の最悪の敵」となる最悪のケースが「自殺」なんでしょうね。苦しすぎたり、状況が思い通りにならなすぎると「全部終わらせよう」と自分で自分を殺そうとする。本当は世界を滅亡させてもいいんですけど、そんな力はないから(くやしい!)、自分を殺すことで解決しようとする(あーくやしい!)。僕も最近はほぼなくなりましたが、どん底で(これも自分で「どん底認定」をしてるだけで、事実としての「どん底」なんてどこにもない)鬱だった時期は、「いっそ殺して!」(誰に?)とか「ああこのまま行ったら死ぬな…」とか思うことはありました。積極的に死のうとは思わなかったですけどね。そんな力は残ってなかった。もっと流れにまかせる感じです。らくになりたいので、ゆらゆらと。。。

 

でも「自殺」って見当違いなんですよね。かりに、死すべき相手がいるとして、それは「(肥大化した)自我」なのに、その自我が寄生してる「肉体」を殺してしまっている。どこかズレてる行為なんです。

 

心身からうまれた「自我」は、心身から養分をすって生きている。正確にいえば「心身を含めた自分というものが生きている」という思いを持っている。

ちょっと絵にしてみます。

 

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ミツバチが「自我」で、花が「心と体」で、地面が「無意識」となります。地面や花にくらべ、ずいぶんと大きなハチです。自分もでかいと勘違いしてます!

 

この絵で「自殺」を説明するなら、花を「自分のもの」と思い込んだ(ずっと蜜を吸ってるうち、そう思うようになった)ミツバチが、なんらかの理由で「消えたい」と思った時、「花を地面から引っこ抜こうとする」ことが「自殺」となります。

 

たとえに無理がある? これならどうでしょう。「うるさいハチを追い払おうとして、花ごと抜いてしまう」。似たようなことは、いろいろなところで見かけるのでは? 自殺も基本的にはおなじことだと思います。

 

手前味噌になりますが、「花を抜かずにハチだけ追い払う」のが坐禅のアプローチなんだと思います。あるいは「ハチがブンブンいわなくなる」。心と体はきずつけず、自我だけを殺す。弱らせる。適切なサイズまでちいさくして、暮らしの中で有効に使えるようにする。

 

ミツバチが一匹も来なくなったら、花も花粉を託せなくなりますしね(´・ω・`)

 

僕の場合、坐を解くとまだハチがぶんぶんするのが悩みの種でもあるのですが、いくとこまでいくとハチがいなくなり、花も地面もあってないような状態になるようです。ここから先は推測になりますが、修行で涅槃を実現し、その後も肉体の寿命を迎えるまで人々に教えを説きつづけた釈迦なんかは、そういう状態だったのかもしれません。

苦行に見切りをつけ(肉体を自我ととりちがえていじめるのをやめ)、花(こころとからだ)をたいせつに、他の草木(人々)にも花実が咲くよう種(教え)をまきつづけた。それは静かな羽音で。

 

死んで花実が咲くものか、です。

 

結局のところ、自分とは何か?

坐禅とヨーガの瞑想をぼちぼちと続けていて、僕の中でまだはっきりしていないのが「自分」です。「結局のところ、自分とは何なのか?」2018年もそろそろ終わりますが、去年同様、今年も持ち越しそうな課題です。


「寒い」「暑い」「痛い」などの「感覚」は刺激に対する反応にすぎず「自分」ではないし、「〇〇が好き、嫌い」「〇〇したい、したくない」というのも、記憶や出来事をなかば自動的に比較判断している「思考」のはたらきであって「自分」ではない。
坐禅や瞑想について書かれた書物をみていると、「自分(私)はいないのだ」という記述にもよくぶちあたる。仏道をならうというは自己をならうなり、ふむ。自己をならうというは自己をわするるなり、ふむふむ。自己をわするるというは万法に証せらるるなり。このあたりで「オレまだだ」となる。

 

ヒトは脳みそが大きく複雑になり、ことばを手に入れ、いろいろなものに名前をつけ、行動や知覚判断の主体にも「自分(私)」という名前をつけ、それらをカードのように頭の中で並べては自他の区別をつけ、「私と他者と世界」のイメージをつくりあげ、その中で繰り広げられるドラマに一喜一憂している。大半の大人はそれを「現実」として暮らしている。ものごころつく前の子どもはそうでもなさそうだけど。

と、それくらいまではわかってるんですけど、そこから先がわからない。

 

「自分」というものが「思考(ことば)」が生み出す錯覚だとして、なぜ人それぞれ、違った特定の思考や行動のパターンをとるのか? ひらたく言えば、なぜ人それぞれ、性格や価値観が違っていて、個々の特性(個性)があるのか?

常識的に考えればそれは生まれ育った環境が大きく影響しているからだろうし、それまでの人生で起きた出来事を「なんらかの基準」で取捨選択してきた結果だろうし、その「なんらかの基準」は「その時の時代の気分」や「家庭や学校、会社や国家などから受けてきた教育」に大いに左右され、その根っこには「人それぞれ、もって生まれた性質」があるのだろう、とは思います。

 

人それぞれ、もって生まれた性質。自分のやりかたやポリシーにすごくこだわる「がんこな人」とか。自分なんてないかのように相手や環境に合わせている「お調子者」とか(でも自分にとって損か得かはちゃんと見きわめている!)。犬が好きとか、猫が苦手とか。性格が明るいとか暗いとか。「自分はいない」にしても、あきらかにひとりひとりが違っている。
「私はいない」と言いつつも、その人をその人たらしめている特定の性格や価値観というものがある。ある時はそれは人を助け、まわりから「個性」とか「才能」とか「人徳」とか呼ばれ、またある時は本人や周囲に迷惑をかける「悪い癖」と呼ばれ、みんなを苦しめる。

 

坐禅では「仏性」とよび、ヨーガでは「真我」とよばれている「ほんとうの私」(個性をもたない純粋意識)がひとりひとりに作用しているとして、その現われかたは依然としてそれぞれの「特定の性質」を通して、十人十色の個性をもった「自分」として表現されている気がします。

僕の場合、ある程度すわってみて、自分がとらわれていた「思い込み」にはいろいろ気づけたけれど、一周回って性格じたいはやはり「がんこ」だったり。「これは無意味なこだわりだ!」と自覚できても、その行動をやめれなかったり。そういう「自分」を発見して、ふりだしに戻った気分になったり。結局なるようにしかならないのかと。

 

坐禅でもヨーガの瞑想でも、すわっていると「自分」を形成しているさまざまな想念や記憶がわらわらと出てきます。年末の大そうじのように。かたづけてもかたづけても、なかなかかたがつかない。
坐禅の場合は何が出てきても「これは自分ではない」「これは自分ではない」とわきつづける想念や記憶をやり過ごして禅定を深めていきますが、(ほとんど)何も出てこなくなっても、坐を解き、日常に戻ると「がんこ」だったり「お調子者」だったりする「自分」がこんにちはと顔を出す。それを使って(それに使われて?)また人づきあいや生活をしていく。

 

そのように作用してしまう「自分」という「はたらき」とは、結局なんなんだ?って、わからないままなんですよね。そこのところをはっきりさせたいのに。それ自体はバラバラであるはずの、さまざまな想念や記憶を統合して、ひとつに束ねてしまう「自分というはたらき」とはなんなのか?


常識的にいえば、記憶や想念をひとつの人格として統合する作用は「脳の機能」であるとか、人それぞれのもって生まれた性質は「遺伝」や「家系」といった概念で、あるていどの説明はできるだろうし、はたまた仏教やヨーガの世界観で行くなら「生まれ変わりを続けている主体が存在する、という錯覚」から覚めることで解決はできるはずなんです。「もって生まれた性質」にしても「前世からの因縁」とか「宿業」とか「カルマ」のひとことで片づけることもできる。はっきりとそれを認識できるなら(僕にも「すわってる最中に、何かそれらしきものが見えるかも?」とか期待してた時期もあったのですが、そっち系の体験は何ひとつないので今のところ無理です)。

 

「生まれ変わりを続けている主体が存在する、という錯覚」から、「生まれ変わりを続けている」の部分をとりのぞけば(前世から現世に生まれ変わった記憶が僕にはないので)、「主体が存在する、という錯覚」となり、それって結局「自分(私)がいる」という思い、つまりは「ここに存在している感覚」に戻ってくるんですよね。息が満ちては干き、思いが来ては去っていくという。

 

それが坐を解くと、そこからふつふつとわく「思い」が絡まりだし、熱を帯び、また「自分」というかたまりとして動き始めるのが、止められないんです。

 

我思う、ゆえに我あり」とはさすがにもう思わないけど、「我はなし。されど思う、ゆえに我あり」となってしまっている。

 

坐禅では「仏性」と同格のことばとして「主人公」とか「本来の面目」といったことばも出てきて、公案修行や只管打坐などでそこのところを体得していくのですが、その純粋意識である「仏性」(ほんとうの自己)と、個体として「がんこ」とかの特定の性質をもった「自分」との境い目はどこにあるのか? その見きわめができずにいるんです。自我の根っことでもいうかな。在りかはうっすらとわかるけど、はっきりと見えない。

 

以前のような「頭いっぱいの自分で息苦しい」感覚からは遠ざかりましたが、「しずかでおだやかなところ」で行きどまりとなり、にっちもさっちもいかない状態です。日常生活はそれなりに楽しく送れているんですけどね。

  

自分のよりどころ、世界の中心。

自分のよりどころと世界の中心はおなじところで、そこを呼吸でさぐり、定めていくのが坐禅であり、瞑想なのだと思います。

 

最初のうちははっきりしないと思いますが、初心者だろうが短時間であろうが、禅や瞑想をやってる人、やってる時は、みんな必ずなんとなくは触れているはずなので、めげす、やめず、なんとなくでいいから続けていけば、はっきりしてくると思います。

 

自分のよりどころと、世界の中心がズレてくると、ああでもないこうでもないと迷いはじめ、外側の、自分以外の何かに振り回されるのだと思います。だからその都度、呼吸で合わせていく。

 

えらそうなこと言っても、自分の基本的な性質は変わらないみたいで、おとといの朝3時間すわって「ああ調子がいいわい」と思ってたら、渋谷駅近辺でカードやら身分証やらガッツリ入ったサイフを落として、みるみる血の気がひきました。

  

数えきれない人の往来がある渋谷駅ですからね。ひさびさにダッシュしました。ええ、さんざんすわった先から、おサイフに振り回されましたよ。外側の、自分以外の何かにね!

 

10分かそこらしか経ってなかったのが幸いしたか、ここだろう?と思った立ち食いソバ屋にそのまま落ちてて、ああよかった。

 

ダッシュしつつ、腹の底ではどこか落ち着いていた気もします(よく言うわ!)。

 

でも、なるようになれ、なるようになる、みたいな気持ちは、さいきん常にあるかもな。

 

ボケーっとしてるのとおっちょこちょいは僕の基本的な性質で、坐禅しようが瞑想しようが、なおらないみたいです。やらかしたら、そのつどフォローしていくしかない。

 

自分のよりどころと世界の中心に、おサイフももどってきて、よかったよかった( ´∀`)

 

 

人を助ける

山口県の山中で行方不明になっていた2歳の男の子を、78歳の捜索ボランティアの男性が見つけ、家族に送り届けたニュース。こんな生きかたをしている人もいるのだなあと考えさせられました。僕も含めて、今の人って、お金もうけとか売名とか、(ほとんど無意識のうちに)何か見返りを求めて行動を起こしていると思うのですが、そうじゃない人もいるのだなあと。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

ニュース映像を見てて思ったのですが、このお爺さんの雰囲気や言動って、僕が昔からイメージしてた禅僧のそれなんですよね。この方はおそらく坐禅も何もやってないと思いますが、僕の中の「禅僧」ってこういう人でした。

 

東へ西へ、野山を踏み分け、人を助ける。野性のカンと深い智慧で、力強くあたたかく。

 

迷わず、こうと決めたら突き進む。

 

「人の命って重たいからね。高齢者だろうがちいさかろうが若かろうが(手と首を小さく振り)関係なくね、やっぱりひとつの命っちゅうのは、もうその人しか持ってない命やからね(手のひらを握りしめて)。

何か私にお手伝いさせてもらえることがあれば、ボランティア、お手伝いさせてもらいたいなと思って、昨日の朝9時半に出て、こちらに午後ついて、もうすぐ捜索に入った」

 

身ぶりと言葉にズレがないんですよね。言ってることとやってることが違わないのだと思います。

 

禅の公案もこんな風に実践できれば、と思います。普段のくらしで当たり前に。

 

宗教は生活に根ざした実践で、禅や仏教もその例にもれないと思いますが、大事なのは、誰かの痛みにふれた時、「これはやらなきゃ!」と思ったことを「おれがやるんだ!」と実行していくことで、またこのお爺さんのように宗教なんかなくても、自分の命とこころをよく知っていて、他人の命やこころも大切にできることが大事なんだと思います。

 

人生経験も必要でしょう。学ぶとしたらそこからだと思います。

 

この方は山登りが好きで、最初は登山道の整備のボランティアから始められたみたいですね。

 

「私はあんまり声が大きい方じゃないけどね!」とデカい声で言ってるとこもいいと思いました。

 

 

 

オウムについて思うこと

オウム真理教の松本元代表ら7人の死刑が執行されたようですね。先月ごろから7月執行の噂を耳にしていたので、「ああ本当にやったんだ」とも思いましたが、「え、本当にやったんだ?」との驚きもあります。松本氏が死刑になることで彼を「殉教者」とみる人たちが出てくることや、何らかの報復を警戒して、執行に二の足をふんでいるといった話を聞いていたので。

 

地下鉄サリン事件のあった95年3月20日の朝は、僕も丸ノ内線に乗る予定だったので、「もしかしたら何かの被害に会っていたかも」との思いとともにあります。就職活動で赤坂見附に行く予定だったのを寝すごして、テレビをつけたらニュースでやってた。まだ誰のしわざか、何が起きたかもよくわかってなくて、ただただパニックだったと記憶しています。たぶんタバコに火をつけて、ずっとテレビを見てました。

 

オウム真理教の存在を知ったのはその5〜6年前。大学入試で上京した時、宿泊先の南青山のあたりにベタベタと選挙ポスターが貼ってあって、「よくわからないけど東京こわい」と思いました。どうみても日本の人だけど全員カタカナの名前で。着てるものも違ってて。明らかに違和感のかたまり? 島根の田舎町に住んでいたので、そこまでの変わり者もいなかったんですよね。また集団で、というのがね。ゾウやヒゲのかぶりもので歌い踊る、あの選挙活動も見たかもしれない。まだまだ20世紀で、「世紀末」という言葉も流行してたので、「世紀末やなー」とか思ってた記憶があります。

 

大学に入ってからは「原理」と呼ばれていた統一教会の勧誘を目にしたり、「なかんずく」と名乗る生長の家の勧誘にあったり、「宗教死ねや!!!」と思いつつ、教室になぜか置いてあった「ビートたけし麻原彰晃の対談」のコピーに「ああ、麻原はたけしも認めてんだ? すごいのかな?」と思ったり。いやはや危ない、危ないとこでした。

 

参院選出馬から地下鉄サリン事件、その後の捜査、逮捕、公判、逃走犯の逮捕とリアルタイムで「オウム真理教」を経験してる世代ではあるのですが、正直、以前は(団体にも事件にも)そこまでの関心や興味はなかったように思います。村上春樹の「アンダーグラウンド」とか森達也の「A 」などの「ドキュメンタリー作品」を通じて、「オウムとは何か?」と考えることはあったけど、それって「間接的」なかかわりで。わが身に引き寄せて問い詰める、という感じはなかったです。若いころは新興宗教にも伝統宗教にも、まったく興味なかったですからね。

 

坐禅をするようになり、ヨーガも学ぶようになってから、「オウム真理教とは何だったのか?」を必要にせまられて考えるようになりました。オウムの教義や修行システムには、仏教やヨーガのそれも切り貼りされていたようなので。もう「他人事」ではすまされない。
「どこまでが伝統的な文献にもみられるもので、どこからがオウム独自の見解なのか」だけでも知っておく必要があると思いました。自分の修行を進めるうえでも。さいわいなことに国会図書館に行けば、麻原彰晃の著書や信者の体験談などの刊行物をみることができます。
またそれらと照らし合わせるかたちで、地下鉄サリン事件の公判記録にも目を通しました。まだ1冊、ひとり分しか完読できていないのですが、この度死刑が執行された井上嘉浩死刑囚の記録は興味深かったです(『オウム法廷 9 諜報省長官井上嘉浩』(降幡賢一/ 朝日文庫)。

空虚さをかかえ、宗教に熱狂し(教祖に心酔し、か)、過ちを認めず、破滅に巻き込まれていくさま。公判が進むにつれ変わっていく心境。教祖を否定し、自分を否定し。被害者遺族の娘さんとのやりとりがまた生々しく、読んでいて胸を刺されるようでした。

深く反省したかに見える井上氏ですが、実は死刑を逃れたいがための「演技」も混ざっていたのかも? そう思われる記述もあり、その心中にはわからないところもあるのですが、ただ井上氏のたどった道は、修行や宗教をやるうえで陥りがちなパターンというか、同じ轍を踏まないための「教訓」として(反面教師的に)学ぶこともできると思いました。

オウムに限らず、カルトと呼ばれる集団(いまや宗教団体に限らないかもしれないですね)の仕組み、そこに熱狂する人たちのこころの在りようもわかるかもしれない。似たような過ちを繰り返さないためにも。


ニュースの見出しにもあったように今回の死刑執行は「ひと区切り」なんだと思います。被害者の遺族や(死には至らなかった)被害者の人生はこれからも続いていくし、オウムの後継団体も活動を続けている。脱会して宗教から足を洗った人、別の宗派や方法で修行を続けている人もいるでしょう。僕に知り合いは(今のところ)一人もいないので、まだ「頭の中の想像」でしか、ものを言えてないですけど。

 

身近な実感としてひとつ言えるのは、「オウム」ってきくと、いまだにヒヤッとすることでしょうか。一連の映像が、一瞬うかんでしまう。

 

「オーム」って、オウム真理教が誕生するずっと前から、伝統的なインド宗教のマントラとして唱えられていたみたいですけどね。ヨーガや瞑想を行なううえで欠かせないもののようです。「オ、ウ、ム」というよりは「オーン…」って響いていく感じです、じっさいにやってみると。楽器のチューニングに使う「音叉」の残響にちかい。そうして胸を中心に「こころの調子」をととのえていく。

 

と、くだくだ言っても「やだこわい」と思われるでしょうね。伝わらないと思います。いろいろなヨガ教室のWebとか見ても、みなさん「オーム」のマントラについては、本当に慎重に伝えてらっしゃる。いろいろと苦労、苦心されてきた様子がうかがえます。「私たちのヨガは宗教色を排したものです!」的なキャッチフレーズを多く見かけるのも、やはりオウムの事件が遠因としてあるのだろうな、とかね。でもそれでヨガが「フィットネス的な何か」になったら、元も子もないだろうと。


地下鉄サリン事件の頃は、まさか自分が禅やヨーガなどの「宗教的要素のある行為」にかかわるとは思いもしませんでしたが、いまではいくつかあるマントラのひとつとして、「オーム」をよく使ってます。だから風評被害というか、すっかり悪いイメージがついてしまったので「オームの音がかわいそう」って思ってます。音に罪はないでしょうと。

 

この場を借りてのオウム事件の「総括」とかは身に余りますが、ヨーガの実践者としては「オーム」についた悪いイメージがなくなればといいなと思ってます。

 

まずは日々の修行のなかで「オーム」を「オーム」として鳴らすこと。余分なものはくっつけず。それから僕はライターなので、書く仕事を通じて、伝統的な禅やヨーガ、瞑想について「誤りのない事実」を伝えていければと思っています。なるべく、誤りがないように。


みんな最初は、何か本物を求めて始めたはずです。人はみな間違うので、教祖も自分も社会全体も、それぞれ間違う時があるはずなので、それに気づける「基準」が必要なのだと思います。それはオウムの事件の頃よりも、必要になっている気がします。